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7月 01 2017

本当の信仰をすることの大事さ

思ったほど怒っている人がいなかったですね。

昨日は庄内川に行ったので、その帰りなど怒っている人がたくさんいるかと思ったのですが(あんなブログを書いたものですから)大していなかったです。

怒っている人などです。(一人、二人いたような気がしたくらいです)

何人か見たんですけどね。私のブログを読んでいるであろうオジちゃんやオバちゃんをです。(笑)

どうしたんでしょう皆さん、いつもであるなら烈火のごとく怒っている人があちこちにいるはずなのにです。

もう達観されたんでしょうか?それとも諦めたんでしょうか?(もうこの辺りは少々悪いことが増えても同じだということでです)

達観されている人が増えたのなら私に布施くらいされるのでしょうが、そういう人が一人もいないのですから、もう諦めたということでしょうか?

どう思おうが、それは本人の自由なんですが、しかし、もったいない話ですね。諦めてしまうのもです。(たとえそれが年寄りであってもです)

昨日のウナッシーさんのコメントではありませんが、この教えを勉強し実践するなら次々に奇跡が起きるというのにです。(ウナッシーさんの周りでは次々に奇跡が起きているそうです)

もう時代が違うのです。これまでの考え方では通用しないのです。(表面上だけよければ心はどうでもよい)

そのような考え方では次々に災いが起きる時代になったのです。だから多死社会となっているのであり、この辺りはまた特に悪いことが起きているのです。

そのような時代になったにもかかわらず、その心を特に汚すような行いを多くの人が実践しているからです。(もちろん法を説く人に対する嫌がらせです)

それはすべてにおいていえることであり、だからどれだけ科学や医療が発達しても、宗教が増えても悪いことを止めることが出来ないのです。

すべてのことにおいて、第一である心を正さずにやっているからです。

その心を正さずにやっていては、このような時代になってはいいことは起きないのです。

しかし、法に従えば、そのようなことはありません。

だから、法を実践している人たちには、これだけ災いが起きている世の中になっても奇跡が起きるのです。

法とは、そのすべての元である心の正しい在り方を説いているからです。

その法に逆らっているから災いが起きるのです。いい加減理解されてはどうでしょう。法を理解する人が増えて来るなら、災いが止まるどころか奇跡が次々に現れて来るからです。

実際に法を実践している人には、その奇跡が現れているのです。

もう無神論のままでいたり間違った信仰をいくらしたところで、悪いことは止まらないし奇跡も起きないのです。

もうそのような考え方が通用する時代ではないからです。

本当の信仰(法)をしない限り、災いは止まらないのであり奇跡も起きて来ないのです。

では、法を知らなければ幸せになることもないということになります。

災いばかり起きて奇跡が起きない世界に幸せなどないからです。

そう考えるのならば、多くの人々は、たいして幸せではないことを幸せであると勘違いしているのです。

例えば、災いが起きたらそれは運が悪かったですまし、しかし、金があって物が多ければそれが幸せなのだと、そのような物質的に恵まれていればそれが幸せであると信じ、だから皆、金儲けを第一と考えるのです。(神などほっといてです)

だから今の人がいうことは男も女もすべて仕事、仕事なのです。(絶対神とはいいません)金があることが幸せであると勘違いしているからです。

そうしてその勘違いは宗教にまで及んでいます。(何せ、神様にまで金儲けを頼むくらいですから)

だから今の宗教のほとんどは現世利益ばかりを説くのです。

金があることが幸せであると宗教までがそう思っているからです。(神よりも金です)

だから、そういう宗教の教義がまったく通用しない現象が現れてきたのです。(それが多死社会です)

そのような考え方が間違っているからです。

今のように天変地変も激しくなり、死ぬ人もどんどん増えては、どれだけお金があっても何も幸せではないのではないですか。

それでは、いつ自分が死ぬか、天変地変が起きて、そのお金を失うかするか分からないからです。

そういう時に金があったところで一体何の幸せなのですか?

今のように天変地変がドンドン激しくなり、死ぬ人もドンドン増えていては、金がどれだけあっても不安で仕方ないのです。

金で命が買えるものではないし、金で天変地変を抑えることも出来ないからです。では、金などいくらあってもこの時代、幸せにはならないのではないですか。

また自分が信じている宗教でも、その信者の人たちが次々に病気になっていったのなら、その宗教をしていることが不安にならないのでしょうか?

自分たちがしている宗教は間違っているのではないかと疑問に思ってです。(実際にそういうことが起きているようですが…)

そうしてそれは科学や医療も同じなのです。

ある程度は、そのような不安を取り除くことは出来ても(ある程度でしょう。科学も医療も天変地変は止めることが出来ないし、人の命もある程度は救えるだけで完全に救えるわけではないのですから)そのような不安をすべて取り除くことは出来ないのです。

だから、いま起きている現象にはどれも通用しないと私はいっているのです。

では、いま起きている現象に通用するものがあるのかといえばです。

それはあるということであり、それが法(正法神理)であるということです。

法であるなら、激しい天変地変や多死社会にも通用するのです。

激しい天変地変は、法を実践している人たち皆で祈れば抑えることが出来ますし(本当にやれるんですけどね。やる気がない人たちばかりだからやれないだけでです)多死社会もそうです。

法を実践する人が増えれば、次々に奇跡が起き、寿命をまっとう出来る人が増えるのです。

そうなれば多死社会は自然に解消されて行きます。(解消されますよね。皆がいま以上に長生きするようになるのですから)

その寿命でもです。聖書など見れば二百歳とか三百歳とか生きた人が書かれてありますが、実際にそのように長生きした人は過去にいたのです。

法を実践をするなら、そういう人が増えて来るのです。(これは事実です。心がよくなると今以上に長生きする人が増えるのです。〔だから聖書にもそのようなことが書かれてあるのです〕心がよい方に変われば肉体もまたよい方に変わって行くからです。そういう話を園頭先生もされていました)

そうして本当の信仰をする人が増えれば天啓なども頻繁にもらえるようになります。

するとどうなるか?

それはもうお分かりであると思います。科学や経済、医療など飛躍的に発展するということです。

天上界にはこの世以上に科学が発達した世界(菩薩界)があるからです。

そこに住む菩薩たちが次々にこの世の人々に天啓を与えてくれるなら、この世の発展は想像を絶するほどになるということです。(分かりやすくいえば、いま騒がれている将棋の藤井四段のような人が、あちこちから出て来るということです。それこそ、科学や経済、医療の分野からもです)

法を多くの人が実践するなら、そのような奇跡が次々に起きて、この世は飛躍的に発展するのです。

では、この世のすべてのことは解決するということにならないのでしょうか?

しかも法ほど平和なものはありません。

では、いま戦争などしている国も、法が広まれば次々に奇跡が起きて、平和になって行くということになります。(もうそれは何度も書いていますが)

そのような不可能なことがすべて可能になるのが法の実践なのであり、だから私はくどいくらい早くやらないといけないといっているのです。

嘘ではありません。本当ですよね。現にそれに伴う現象がもうそこら中で起きているではありませんか。(法に伴う奇跡や災いがです)

それを目の敵にしている人も多いのですが、よく考えてみてください。

このような現象は世界を救うのです。

だから、いい加減、この教えの大事さを理解しないといけないと私はいっているのです。

この教えを世界に拡げるなら文化文明は想像を絶するほど発展し、真の平和な世界がつくられて行くからです。(そこかしこに神の力が現れる本当のユートピアがです)

しかし、この教えを拡げるには私一人では無理なのです。

このブログを読んでいる人たちが立ち上がってもらわねばそれは出来ないのです。(だからいっているのです。私も一人で出来るものならやるんですが〔一々人に頼むのもめんどくさいですから〕出来ないものはどうしようもないですから)

そろそろ立ち上がってもらえませんか?

多くの人がそれを行うなら、その先には素晴らしい未来が待っているからです。

(また自分も幸せになると思うんですが…本当の幸せにです)

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6月 30 2017

大事なお知らせ

大事なお知らせがあるので書いておきます。

もう、うちの母がかなり危ないようなのです。

手が震えてきて心臓もバクバクするので医者に行ったら、手術した方がいいといわれたそうです。(手術して死んでもいけないので手術はしないそうですが)

それだけ心臓が悪くなっているということで、もういつ死ぬかもしれないので、もうお金のあてなどしていてはいけない、自分で稼げるようにしとけといわれました。(それが当たり前なんですけどね。まったく法のためとはいえ、やっていることは親不孝そのものです)

それで母が亡くなるようならもうこのブログも書けなくなりますし(お金が続きませんので。誰も布施してくれませんから)ということは法が説けなくなるということになりますので、それでは(下手すれば)日本が滅んでしまうかもしれません。

そうなってもいけないので、それで「布施してください」といくらいったところで、それくらいで布施してくれるのなら、もうとっくに布施してくれた人がたくさんいたでしょう。

このブログを読んでいる人たちにどれだけこちらの都合をいったところで、それで布施してくれる人などほとんどいないのです。

このブログを読んでいる人の多くは(残念なことに)感謝の心もあまりなく、こっちはこっちの都合があり、そんなの関係ないとか、このブログが読めなければ読めないで別によいとか、その程度のことしか思っていない人が多いからです。(法が説けなくなってもどうということはないと軽く思っている人が多いようです。それと愛のない人が多いということです。この辺りの人たちを見ればそれは分かります。この辺りは私のブログを読んでいる人がたくさんいますが、私など関係ないどころか目の敵にしている人が多いですから…愛がないどころの騒ぎじゃありません)

そうであるなら仕方がありません。(私も、読んでいる人たちの都合を考えている場合でもなくなってきましたから)こちらはこちらで最後の祈りをさせていただきます。

このブログが書けなくなってからでは遅いからです。

その最後の祈りとは「このブログを、いつまでもただで見ている人たちことごとくをあの世に引き上げください」という祈りです。(これで皆さんとはお別れです。さようなら。〔苦笑〕)

私的には、このブログを読んでいる人は、それだけの大きな使命があると思いますし(法を勉強し流布するという大きな使命です)その使命をいつまでも果たそうとしないというのであれば、もうその人はこの世にいても意味がありません。

そのような人たちは引き上げてもらった方がいいのです。自分の本当の使命を果たそうともせず無駄にこの世に長くいて、よけいな罪をつくってもいけないからです。(この辺りの人たちなどよけいな罪ばかりつくっています。自分の本当の使命を果たす気がないならこの世にいても本当の心の勉強になりません。無駄なだけなのです)

だから、このブログと縁があるにもかかわらず、その縁を通して自分の使命と役割を果たそうとしない人たちは、もうこの世にいる意味がないので、全力であの世に引き上げてもらうよう祈ろうと思うのです。

それが一番、その人たちのためであるからです。(ご本人はそうは思わないのでしょうが、もう問答無用です。そういう人たちは何をいっても理解しないでしょうから)

ですから、私に協力していると(法の流布に協力していると)思われる人は、別にそのままブログを読み続けていただければよいのですが(ただそれも天が協力していると認めなければ、その人に何が起きるかは分かりませんが)もし何もしていないと自覚している人がいるのであれば、もう布施くらいはしてもらった方がいいと思います。

そうしないと最悪あの世に引き上げられてしまうかもしれないからです。(本気で祈りますから。こちらも死ぬ気でです。もう法の流布が出来るか否かの瀬戸際ですから)

来週から(だから七月三日から)祈りを始めることにします。(もちろんその後は毎日祈ります)そこはご了承下さい。

私も何年にもわたり、このブログを多くの人たちにただで読ませてきました。あまり「布施」「布施」とうるさくいってもいけないと思ったし、そのうちに法を説いている人に対する布施の大事さも、気づいてもらえるだろうと思っていたからです。

しかし、いつまでたってもそれに気づく人が出て来ず、母の寿命まで尽きかけています。

これはいくら何でもやりすぎでしょう。(やらなすぎといった方がいいのでしょうか?ほんと人がよすぎですね。私は。法を知らなければいけない人たちを甘やかしすぎています)

いつまでもそんなことをしていては天に叱られます。(それは本人のためにならないとです。法をいつまでもただで読んでいるようでは自分たちの徳がドンドン失われて行くからです)

だからそのような人たちはもう引き上げてもらっても仕方がないと、本気で祈ることにします。(そのくらいの責任はそのような人たちにはあるからです。こちらも命懸けでこのブログを書いているのです。読む方もその命は当然懸けていただかないといけません。そういうことが嫌ならこのブログを読んではいけないと私は何度も警告しましたから)

もし出来ましたならば、ご寄付をお願いいたします。しかし、別にしなくてもよいと思われる方はそれはそれで結構です。

ただ来週から徹底的にそのような祈りをします。何か間違いが起きましても、そこはご容赦ください。

それはご自身の判断が間違っていたということになるからです。

どうぞ正しい判断をされますよう、切に願っております。

(私の祈りなど、どうということはないと思われる人は今回のブログを無視されてもよいのですが、そうは思わないという人は〔神を信じ、私の祈りを信じる人は〕少々の布施くらいされてはどうでしょう。今回は相当危ないかもしれないからです。私も今回は本気の本気で〔それこそただでこのブログを読んでいる人たち全員をあの世に送るくらいの覚悟で〕祈るからです)

追伸…今回のブログを考えると、前回ああいうブログ(死への自覚)を書いたのも天の導きだったのかもしれません。(昨日ブログを書いた時点では、まだ母がそこまで体が悪いとは知りませんでしたから。昨日の夜に分かったからです)

では、昨日のブログは天に書かされていたということになります。

そうであるなら、この祈りきかれるでしょうね。

くれぐれも間違った判断をされませんよう願っております。(お別れしたくない人もたくさんいますから。〔涙〕)

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6月 29 2017

死への自覚

将棋の藤井四段が前人未到の二十九連勝を達成しましたね。

いや実に強いです。(プロデビューしてから負け知らずだというのですから)どこまで記録がのばせるのか楽しみですが、しかし、この辺りの人たちもまた藤井四段に負けず劣らず本当に強いです。

何が強いのかといえばです。こちらの人の場合、もちろんそれは将棋などではなく『我』なんですが。(苦笑)

今日など朝から(九時頃です)救急車がサイレンを鳴らしながら走って来て家の前に止まりました。(ほんと真ん前です)

そうして誰か運ばれて行ったようですが(どうも前のアパートの爺さんのようでしたが…やはり年寄りは危ないようです)こういうことが(頻繁に)起きているにもかかわらず、誰一人、私に頭を下げようとしないのです。

お前のせいと怒っているだけなのです。

なんという愚かさでしょう。いま何が起きているのかお分かりではないのでしょうか?

こういう(悪い)ことは特別この辺りに限ったことではないのです。(何度も書いていますが、もう多死社会となっているのですから)

このような救急車で運ばれる人が増えているのはもちろんのこと、前のウナッシーさんのコメントではありませんが、何か取りに行って帰ってこないと思い見に行ったら心筋こうそくか何かで死んでいたとか、トイレに入ってなかなか出てこないと思ったら、トイレの中で(脳いっ血か何かで)死んでいたとか、そういうことが頻繁に起きているのです。

全国的にです。しかも年齢にかかわらずです。(ウナッシーさんのコメントでは若い人が何人か急死したらしいですから)

そういうことが起きる時代になったのです。多死社会とはそういう時代なのです。(だから毎年死ぬ人が増えていってるんでしょう)

しかし、人の死は思えても自分が死ぬなどあまりピンと来ない人も多いのではないでしょうか。

特に若ければ若いほど死は遠くに感じるだけなんでしょうが、しかし、それは単にその自覚がないというだけであって誰も彼も確実に死ぬのです。

それこそ、いま生まれたばかりの赤ん坊から、いつ死んでもおかしくないような年寄りまでです。

性別や年にかかわらず、皆、死ぬのです。

人は誰でも生まれた瞬間、死は約束されていることであるからです。(この世に生まれたということは確実に死ぬということですから。それが遅いか早いかだけの話であり、生きると死ぬということはある意味、同義語なのです。生きるということは死への道を進んでいるということであるからです)

だからこのブログを読んでいる人、全員が死ぬのです。それもそう先ではない未来にです。

だって数年、数十年といったってあっという間のことでしょう。(一年たつことの早さを自覚している人は多いと思います。〔今年だってもう半分が終わったんですから〕では、そのあっという間の一年がどれだけ重なってもあっという間にはかわりがありません)

では、近い未来に全員が死ぬということは嘘ではないということになります。(それは感覚の問題ですが。しかし、年寄りで自分の人生が長かったなどと思う人は一人もいないということです。すべての人が死ぬ時は自分の人生は短かったと感じるのです)

それが現実なのですが、そのような中にも明日死ぬ人がいるかもしれないし、それこそ五分先、十分先に死ぬ人がいるかもしれないのです。(かもではなく、確実にそういう人は存在しているのです。去年は一年間で約百三十万人の人が亡くなりましたので、それを三百六十五で割れば一日に三千五百人以上の人が亡くなっている計算になります。では、今現在も刻々と日本のどこかで人が死んでいるのです)

縁起の悪い話ではないのです。それが現実なのです。

それなのに、その死をまるで思わずに自分の好き勝手をいつまでも続けていて本当によいのですか?と私はいっているのです。

私たちは死と隣り合わせで生活しているにもかかわらず、まったく神を思わなくてもよいのですか?と私はいっているのです。

その神に誰も死の直前になれば頼るはずであるのにです。

それが何時来るのか分からないからと、神など思わなくてもいいということにはならないでしょうし、その神の業が次々に現れているところもあるのです。(マァ、細かくいうなら日本中で現れているんでしょうけどね。だから多死社会になっているんでしょうし)

では、これほどのチャンスはないのではないですか?その誰もが最後の最後には頼る神を知ることが出来るです。

それなのに傲慢不遜な態度を取る人が多いのには呆れます。(その神に対してです。いつまでも神を無視する態度は傲慢不遜以外の何ものでもありませんから)

だから私は愚かであるといっているのです。そういう人に対してです。

そのような人たちは、いつまでも一寸先は闇だということを理解しようとせず、今の生活が永遠に続くかのごとく思い、未だ神を思おうとしないからです。

だから悪いことが起きるのです。神の業が現れているにもかかわらず、その神をまるで思わず、自分の我ばかり通しているからです。

ずいぶん災いが起きているところもあるようです。(大丈夫ですか?どこかの会社など青息吐息〔あおいきといき〕のようですが)

明日寿命が尽きる人もいるのです。周りがそうだからと、その周りにあおられ神を思おうとしなければ、自分が損をするだけなのです。(この辺りは本当に勇ましい人が多いですから。大人から子供までです。〔苦笑〕)

いま周りに多くの人がいたとしても、死ぬ時は一人なのです。そうして、その自分の死はいつ来るのか分からないのです。

真剣に神を思わなくて本当によいのですか?

後悔先に立たずです。(この意味お分かりですよね。ことが終わった後で悔いても取り返しがつかないということです)

神に逆らうくらい愚かな行為はないのです。その一番愚かな行為を続けている人がたくさんいるのです。

だから悪いことが次々に起きているのであり、そのまま、その人たちが死を迎えるのであれば、そのような人たちは確実に地獄行きなのです。(だから悪いことが起きっぱなしのまま死を迎えれば地獄行きだということです)

奇跡が起きているのは私一人なのです。(この大きな意味がお分かりになりませんか?奇跡が起きるようにならないと天上界には行けないのです。では、私のいうことをきかないと天上界には行けないということになります。年寄りの皆さんお分かりですか?)

神に対する思いをすぐにでもかえませんか?(そう奇跡が起きている私がいっているのです。だから当然私に対する思いもです。私を悪く思っていることは間違いであるからです)

自分の死がいつ来るのかは誰にも分からないからです。

追伸…ある有名人のブログに、家に泥棒に入られて、その取られた物すべてに呪いがかけてある、などと書いている人がいました。

大切な物を取られて腹が立つのは分かりますが、どんな相手に対しても呪いなどかけてはいけないのです。

そのかけた呪いは必ず自分に返って来るからです。

こういう時は「神よ、わが家に盗みに入った人に光をお与えください。安らぎをお与えください。どうぞ正しくお導きください」と祈ってあげればいいのです。(もちろんその泥棒に怒りや恨みの心など持たずにです)

すると、その泥棒が捕まり、返してほしかった物が返ってきたり、または思いがけないよいことが起きて取られた金の分が返ってきたりするのです。(それが神の導きです)

どんな相手に対しても(また、それが仮に物であっても)呪いなど絶対にかけてはいけないのであり、愛の心で正しい祈りをするのであれば、その祈りは正しく自分に返ってきます。

そのような行いこそ正しいものであり幸福への道であるのです。

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6月 27 2017

多死社会時代の到来

この辺りは相変わらず怒ったり引いたりしている人が多いんですが(今日はわりと引いています。昨日は烈火のごとく怒っていたのにです。どこかの会社などです)しかし、他のところではさすがに青い顔をしている人たちが増えて来ましたね。

というのも、あまりに怒っている人が多いものですから、最近は「時代が変わった」「多死社会になった」という話ばかり辻説法でしているからです。

「多死社会になったのを知らないのか。もう日本中で死ぬ人が増えているんだぜ。だから火葬場が一杯なんだ。田舎の方など火葬するのに三日待ちならいい方で、一週間待ち、十日待ちというところまであるらしいぜ」

「何でこんなことが起きているんだ。自分たちの心が現れる時代になったからだよ。だからこんなに死ぬ人が増えているんだ。心が悪い人が多いからな。だから俺には鳥が寄って来るような奇跡が起きているんだ。心がきれいだからな。そういう自分たちの心が現れる時代になったんだよ」

「その時代が変わって起きて来たことをこの辺りの人たちはすべて俺のせいにしたんだ。だからこの辺りはよけい危ないことが起きて来たんだ。時代が変わって自分たちの心が現れる時代になったにもかかわらず、その自分たちの心が悪いために起きて来た悪いことをみな俺のせいにしたんだからな。そんなことをすれば汚い心がよけい汚くなる。それでこの辺りはよけい危ないことが起きだしたんだ」

「起きている現象を見れば、俺のいっていることが正しいか間違っているかは分かるだろう。いっていることが正しいから奇跡が起きているんだ」

「もうそこらじゅうで悪いことが起きているんだぞ。それなのに大丈夫か、その悪いことをいつまでも俺一人のせいになどしていてよ」

などと話すと、先ほど書きましたが、もうほとんどの人が青くなるわけです。

実際に、多死社会になっているのは事実であるのだし(私がいっていることはすべてテレビでいっていることですから)周りの人たちに次々に災いが起きているのも事実です。

そうして、私に鳥が寄って来るような愛ある奇跡が次々に起きているのもまた事実なのです。

すべて事実なのですから、それが時代が変わったからこういうことが起き出したと奇跡が起きている私にいわれたら、もう否定のしようがないわけです。

自分たちには悪いことしか起きていないからです。

悪いことしか起きていない自分たちでは、仮に私がいっていることを否定したところで「何の奇跡も起きていない者に何が分かるのか」といわれたら、それ以上はいいようがないからです。

何の奇跡も起きず口だけで私のいうことを否定する人と、実際に奇跡が起きている私がいうこととでは、それは奇跡が起きている私のいっていることの方が正しいと、誰だって分かるはずであるからです。

では、私のいうことをもっと信じてはどうでしょう。そうすればよいことが起きて来るからです。

災いが起きている人のいうことなど、たとえ百人にきこうが千人にきこうが、そういう人たちのいうことをきいていては、災いしか起きないのです。

その災いが起きている人たちは、自分たちの考えが間違っているから災いが起きているからです。

しかし、奇跡が起きている人のいうことは、たとえその人が一人であっても、その人のいうことをきくべきなのです。

奇跡が起きているということは、その人の考え方が正しいから奇跡が起きているからです。

人数が多い少ないではないのです。その人のいっていることが正しいのか、それとも正しくないのかなのです。

その判断は、もう(時代が変わりましたので)起きて来る現象で分かるということです。

間違っているのは悪いことが起きている人たちの方なのです。

だから悪いことが起きているのであり、正しいことをしているのなら悪いことは起きないのです。(その悪いことを私のせいにしているなど言語道断です。そのような間違いをしているから、たくさんの災いが起き出すのです。罰が当たっているのに、その罰が当たっている行為を反省しなければよけい罰が当たるのは道理であるからです)

それは釈尊しかり、キリストしかりです。

あのような偉大な方々は偉大であったから奇跡しか起きなかったのはなく、自分たちが正しいことしていたから奇跡が起きたのであり、間違ったことをしなかったから悪いことが起きなかったのです。

自分たちによいことが起きるのも悪いことが起きるのも、自分たちの心と行い次第なのです。

その自分たちの心と行いさえ正せば、悪いことは起きないのです。

しかし、その心と行いの正しさの基準を知っているのは奇跡が起きている人だけだということです。

多死社会の時代がすでに到来しています。(亡くなる人がドンドン増えています)

それだけ恐ろしいことが次々に起き出しているのに、自分たちの間違いをいつまで人のせいにしていてよいのですか?(本当に危ない)

そのように責任転嫁している間は、絶対に起きている災いは止まることはないのです。

その災いを止めたいのであれば、奇跡が起きている人のいうことをきくしかないのです。

追伸…ウナッシーさん、そんなに体がお悪いのに黙っていたらダメですよ。(先々、目が見えなくなるということでしょうか?)

ウナッシーさんにはいろいろお世話になっています。(いろいろコメントをいただけたり、誰も布施してくれないのに、毎月布施してくれたりです)そういうお困りの時にせめて祈りでもさせてもらわなければ、その御恩をお返しする術もありません。

そのようにお体が悪くなった時は(コメントしずらいならメールをいただければ結構ですから)必ず、連絡ください。

せめて祈りくらいはさせていただきますから。

そのご病気も進行性だからと諦めるのではなく、禅定をされた時にでも自分の体のことはお祈りください。

その祈りは「目がよくなりますように」という祈りではなく「神よわが心に光をお与えください。安らぎをお与えください。わが肉体細胞に光をお与えください。調和と安らぎをお与えください」と祈り、そうして自分の体が神の光に包まれているイメージをして(自分の体より少し大きめの黄金色の光の輪が体を覆っているようなイメージです)「自分の体は目も耳も鼻も体もすべて健康である」と、自分の体に悪いところは一つもなく健康体である、という健康な自分を心にアリアリと描くのです。(目だけよくなりますようにという祈りではなくです。体全体の健康を祈るのです)

しばらくそのような祈りをして「神よありがとうございました。ありがとうございました」と祈りを終えられればいいのです。

そのような祈りをたまにで結構です。されるといいでしょう。(出来るだけ病気のことは思わず、健康な自分を思ってください)

そうすれば、肉体を健康に健康に神が導いてくださるからです。

どこか悪くなっても法の勉強は出来ます。

これからも共々に頑張って参りましょう。

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6月 25 2017

心の広い人

今朝(七時頃です)長野で震度5の地震が起きました。

少々の断水と落石があったくらいで、けが人は今のところ報告されていないとのことですが、このクラスの地震が起きる時は必ず天を怒らせた人がいる時です。

昨日もそうでした。ずいぶんその天を怒らせた人がいたのです。

昨日はどこかの会社が休みだったので、今日は多少は静かにブログが書けると思いきや、何が何が、今度はその向こうにある会社の従業員が凄い怒りようで物をガンガン叩きつけています。

それがあまりにうるさくて途中でブログを書くのをやめたのです。

どこかの会社であるなら、そういうことをしてもそれ相応の災いを現されていますが(だからしていいとはいいませんが)そこ以外のところがそんなことをすれば、当然、天はおおいに怒りを現します。

このブログは天の心を書いているのです。(だからここに書いたことを実践した人には次々に奇跡が起きるのです)そのじゃまは天を怒らせるだけです。

何が起きているのか知りませんが、いい加減、このブログの大事さくらいはご理解いただけないでしょうか?

そういうことをしているあなたも、このブログを読んでいるはずだからです。

そういう人ばかりでなく、天の怒りに負けず劣らず、お怒りの人がこの辺りにはたくさんいます。

本当に困ったものです。何度も書きますが、自分たちが悪いから自分たちに悪いことが起きているのです。

それをどれだけ私のせいにしたところで、その災いは止まらないのです。

よく考えてみてください。本当に私が悪いのなら私自身に悪いことが起きないといけないのです。

しかし、私には悪いことどころか奇跡しか起きていないのです。

その起きていることで自分たちの善悪を判断すればいいのに、この辺りの人たちは、それは絶対にしません。

自分たちの行いはまったく振り返ろうとせず、悪いことが起きれば「それはお前のせい」の一点張りなのです。

周りを見渡せばそのような人たちばかりです。

これではよいことは起きないでしょう。そのような人たちがずいぶん悪いことをしていることを私はよく知っているからです。

その自分たちの悪をこの人たちは認めないだけなのです。

先週も大騒ぎでした。(もう最近は外に出て行くと毎日が大騒ぎですが)こちらは次々に奇跡が起きているというのに、周りの人たちには次々に災いが起きているようだからです。

昨日もそれで怒っている人がたくさんいたのですが、一昨日はまた特色のある怒り方をしている人たちが固まっていました。

そちらの方が面白いので、そちらのことを書きます。

特色のある怒り方というのもまた変ですが(苦笑)一昨日など皆が皆、私が歩いて来るところを待ち伏せしているのです。

あまりに皆さん同じような嫌がらせの仕方をしていたので(一昨日、一日だけでです)それで特色があると書いたのです。(皆さんよく私の帰り道を調べていられるようで……残念です。どうせ私のことを調べるのなら、説いている法をよく調べられた方がよほど救われるのにです)

最初に待ち伏せしていたのは中学生連中でした。

私が庄内川の川岸を歩いて帰ってくると(一昨日は庄内川に行っていましたので)一色大橋の下に中学生の三人組がいました。(男ばかりです)

ここに中学生などいる時は必ず私が歩いてくると何かしてきます。学校や家などで何か悪いことが起きたのでしょう。(なんでそれが私のせいなのか意味が分かりませんが。私はこの連中を見たこともないのですから)

昨日も案の定してきました。私が近くまで歩いて行くと一人の中学生が持っている笛を、メチャクチャな吹き方をし出してピィーピィーギャーギャーやり始めました。

後の二人の中学生もなにかしたくて仕方がないようです。

それでいつものように辻説法を始めます。すると、そういう連中も段々静かになって行くのです。

自分たちが間違っていると気づくからです。(自分たちが被害妄想であること、因果応報、悪い者に鳥が寄ってくるような奇跡は起きない、そういうことを伝えるのです。するとだいたいの人は気がつきます。ただし男ならという注釈つきですが。〔笑〕)

静かになったので「お前らの友達にもよくいっといてくれよな。俺が悪いことをしているわけではないってよ」といって帰ろうとすると、それでもまだすぐに私が悪くないと認めたくはないのでしょう。

私が帰りかけるとまた後ろからでかい音を立てて来ます。

それで「お前らもう多死社会になっているのを知らないのか?」とダメ押しの説法をするわけです。

「もう時代が変わったんだよ。自分たちの心が現れる時代になったんだ。だからこれだけ多くの悪いことが起き出したんだ。心の悪い人が多いからな。だから俺には鳥が寄ってくるような奇跡も現れているんだ。心がきれいだからな。心がきれいなものには奇跡が、汚いものには災いが起きる時代になったんだ。その時代が変わって起きて来たことを、この辺りの人たちはみな俺のせいにしているだけなんだ」と話し、そうして「『お前のせい』ではなく『自分たちが間違っていました。助けてください』なんだ。もう自分たちの汚い心のままではいつ悪いことが起きるか分からないからな。奇跡が起きる者のいうことをきかないと奇跡は起きないからな」と続けるわけです。

するとほとんどの人はそれで黙ってしまいます。

昨日の中学生もそうでした。

そこまでいうと、とたんにとぼけた顔になるのです。あれ誰だ、何かいってるぞ、みたいな態度を急に取り出します。

「おいおい、お前ら中学生のくせにずいぶん素直じゃないんだな。そういうとぼけた態度を取るんじゃなしに素直に自分が間違っていました。すいませんでした、と謝れ。そうすれば今度は奇跡が起きて来るから」というと、よけい「はぁ」という顔をします。

だからこういう連中は災いしか起きないのです。素直に自分が悪かったと反省しないからです。(しかも中学生のくせにです。本当に素直さがありません)

これ以上、バカを相手にしていても仕方がないと帰りましたが、その帰りに公園の横を通ると(私が庄内川から帰るコースはだいたい決まっていますから。そのところどころで皆が待ち伏せしているわけです)今度は小さい子供が三人ブランコに乗っていました。

こういう時もそうなのです。

この時間(夕方五時過ぎ)に、この公園に小さな子供がいる時は私に何か文句がある時なのです。必ずそこにいる子供らは私に何かして来るからです。(だから私からするとその子供らが小悪魔のように見えます。小悪魔たちがブランコ乗っているのです。まるでホラー映画のようです。〔笑〕)

それでまたかと思ったら、その公園の横に家があって、その家の人が急にガンとかやってきたものですから、ちょうどいいと思い、そこで辻説法を始めました。

するとその説法を、その向こうでブランコに乗っている子供らもきいていたのでしょう。

説法が終わって、そのブランコの横を私が通る頃にはその子供らはいませんでした。私の説法をきいて自分たちが悪かったのが分かり帰って行ったようでした。(向こう側の道を見るとその子供らの後ろ姿が見えました)

そうしてまた帰っていると庄内川の帰りにはいつも通る公園があるのですが、そこにもまた三人のオバちゃんとその子供が三人、その公園で遊んでいるのでした。(子供も女の子ばかりでした)

ここに人がいる時もそうなのです。その人たちも何か私に文句がある人たちなのです。(そういう人ばかりとはいいませんが、そういう人が多いということです)

やはり私が近づくと何かしてきましたので同じように説法をしたのですが、今度は女が六人です。

これはききませんね。(苦笑)

私が何をいっても知らん顔で自分たちの話をしています。そうして子供らは子供らで、私が近くを通るとガチャガチャ音を立てて遊具で遊んでいるふりをしています。(単に私に嫌がらせしているだけなんですけどね)

そうして私が通りすぎると、とたんに「帰るよ」といって、その子供らを自転車に乗せ、ガチャガチャ音を立てながら自転車をこいで、私の横を親子の三組が帰って行きます。

私が横で何をいっても無視です。(さすが女が六人もいては鉄の壁ですね。こちらが何をいってもきこうともしません。〔苦笑〕)

「あんたら子供がいるのに子供に対する愛もないのか。俺にそんな嫌がらせして子供に何か起きても知らねえぞ」と子供まで出していったのですが、それでも無視して帰って行きました。

本当に我の強いオバちゃんたちです。それに子供に対する愛もない。これでは悪いことも起きるのです。(この人たちは絶対に何か起きますね。こういう我の強い女たちを天はそのままにはしておかないからです。〔それでは本人のためにならないからです〕だから誰かに何かを現すのです。そういう現象で反省を促〔うなが〕すのです)

そうして家の近くまで帰ってくるとダメ押しで、おっちゃんが一人、私が帰る道に歩いてくる私をにらみつけながら立っていました。(ほんと地獄霊が立っているようでした。〔苦笑〕)

「またいるよ」と思い辻説法をしながら、そのおっちゃんの方に歩いて行くと、今度は先ほどのオバちゃんたちとは違いました。

私の説法をきいて何も出来なくなったのか、そのおっちゃんは渋い顔でこちらを見ていましたが何もしてきませんでした。

しかし、私が歩いていって後ろを振り返るとまだそのおっちゃんは私の方をにらみつけていました。

本当に哀れです。

きっと、ずいぶん悪いことがこの人たちには起きているのでしょう。そうでなければ、わざわざ私の帰り道に家から出て来て私を待ち伏せなどしないと思うからです。

しかし、私に対し、それだけ腹を立て待ち伏せまで考える暇があるなら(私に罪を擦り付けている暇がるなら)少しで結構です。

「自分たちも悪いのではないか」という反省の心を持たれてはどうでしょう。

そのような謙虚な心が、自分を、そうして周りの人たちをも救うからです。

どれだけ悪いことを私のせいにして怒って嫌がらせをしたところで、それでその災いが止まるのですか?

それで救われるのでしょうか?

一時の気晴らしにはなるかもしれませんが、それだけのことなのです。

そんなことをしたところで誰一人救われないのです。では、そんなことをしている暇があるのなら、この災いを止めたいと本気で考えてはどうでしょう。

この災いを止めることが出来れば、自分自身も、また周りの人たちも本当に救われることになるからです。

私にどれだけ嫌がらせしたところで起きている災いは止まらないのです。

少なくともそれだけは確かでしょう。実際に多くの人が私に嫌がらせをしていても災いは止まらないからです。

むしろ増える一方であるからです。

では、逆のことをされてはどうでしょう。

私に嫌がらせを続ければ続けるだけ災いは増えていくからです。

そうであるなら逆のことをすれば、その災いは止まるはずであるからです。

そのような心が多くの人を救います。同じことをいつまでもやり続けるより、別なことをする、それが賢い人のやり方であるのです。

少し素直になり私の話もきいてみませんか?

そのような心の広い人になることが救われる道であるからです。

追伸…最後に本当の神を知るチャンスを得たのですが、その神を信じ切ることが出来なかったのは本当に残念なことでした。

神を信じ切ることが出来たのなら、必ず、奇跡は起きたと思えるからです。

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