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3月 25 2016

この世の修行

いやはや凄い怒りようです。

いつもならどこかの会社がということになりますが、今回は違います。あちこちの会社でやたら怒っているところがあるようです。

昨日は金山に行ったのですが、その帰り道でのことです。

ある会社の横を通ると従業員が一人出てきていたのですが、なんと、その従業員が私を凄い顔でにらみつけてくるのです。(その人、凄い目でにらんでいました。あまりに、にらみつけてくるものですから頭の血管が切れるのではないかと心配でした。〔笑〕)そうしてガタガタ音を立てています。

ちょっとビビりましたね。手に何か持っていたのでそれで殴られるんじゃないかと思ってです。(苦笑)

しかし、そのような心とは裏腹に口から出てくる言葉は止まらないのです。

「さんざん嫌がらせをしておいて、何か起きたらそれもこっちのせいかい。何でもかんでも人のせいにするんだな」「自分たちがやっている嫌がらせを忘れているんじゃないか。そんなことしているから罰が当たるんだ」と次から次に言葉が出てきます。(私も何かに憑かれています。〔笑〕)

その会社の連中にはずいぶん嫌がらせをされていたからです。

そういうことをいい続けていると、その従業員はコソコソ会社の中に入って行ってしまいました。さすがにやらしかったのでしょう。

まだこういう理屈が分かる従業員はいいのですが、別の会社ではもう私が何をいっても聞かないのです。

私が近くを通るとガンガンでかい音を立てっぱなしです。

この会社の連中もまた同じように私に散々嫌がらせをしてきたのです。それなのに、何か起きたら全部私のせいです。本当に呆れました。

そういうやたら怒っている会社があちこちにあり、そうかと思うとこれまでうるさかった会社が妙に静かになり、昨日などは(一昨日もそうでしたが)バスの運転手も静かでした。(少し前までは、ずいぶん怒ってブシュブシュやっていたはずですが…)

このように最近は、周りの人の態度が目まぐるしく変わるのです。ちょっとついていけない感じですね。(苦笑)

あまり笑い事でもないかもしれません。それだけ何か起きているということだからです。(起きてなきゃ態度もコロコロ変わらないでしょうから)

大丈夫ですか?怒っているとか、静かにしているだけでです。

誰一人、私に詫びを入れてきた人はいませんが、多分、詫びを入れて反省しないと、その災いは止まらないと思います。

では滅ぼされるまで、そのような態度をし続けるのですか?

その現象が止まらなければ、滅ぼされるしかないからです。

これだけ多くのところで何か起きているのです。しかも起きることが段々激しさを増しています。(それは皆さんの態度で分かります)

では、間違った心の人がいなくなるまでこの現象はもう止まらないでしょう。今のまま心を変えないなら、必ず、そのような人には災いが起こります。

それでも反省はされないのですか?

すでに正法の世になっているというのにです。

「お前のいうことなど聞けるか」「お前より俺の方が物事をよく知っている」などといくらいわれてもです。(マァ、直接いわれたことはありませんが)

心のことなど誰もしっかり知らなかったではないですか。心がこれほど偉大であると誰が知っていたのですか?

その心の偉大性を多くの人に伝えたのは私なのです。

では、少なくともその部分は聞くべきではないでしょうか。多くの人が知らない分野であるからです。

自分の心が神につながっている、あの世につながっているなど誰が知っていましたか?ほとんどの人がそのようなことは知らなかったはずです。

なぜなら、多くの人が、神やあの世の存在など信じていなかったからです。

また、それを知っていたという人でも半信半疑だったのではないでしょうか。その証明をすることが出来る人がいなかったからです。

しかし、私は心の偉大性を証明したのです。(様々な現象を現してです)

いろいろ批判や嫌がらせを受けましたが、神やあの世の存在、人の輪廻転生、そうして偉大な方々が現した奇跡を証明したのは私なのです。

私がいなかったら、多くの人はそういうことを少しも信じようとせず、一生を終えていたでしょう。

そういう心の本質を、この世で知るのと知らないのとで、一体どれほどの差があるのかお分かりでしょうか?

それこそ天と地ほどの差があるのです。

考えてみてください。もし、私のことを知らなかったら、ほとんどの人が神やあの世の存在など信じなかったでしょう。

人間はこの世限り、死んだらそれでお終い。心などどうでもよく、生きている間だけ面白おかしく暮らせればそれでよいという、半分、自暴自棄のような人生を送ったのです。

そうして死を恐れ、死ぬのは嫌だ、死のぬは嫌だと思いながら死んでいったのです。

よく考えてみれば、これだけ視野の狭い人生もなかったわけです。

しかし、私が自分を犠牲にして、法を説いて現象を現したから、神の存在も、あの世の存在も、人の輪廻転生も、そうして数々の奇跡まで多くの人が知ることに(信じることに)なったのです。

これは自分たちが知っていた、この世のことにプラスしてということなのですから、どれだけ視野が広がったか分からないほどでしょう。

それに、まだまだ心の分野(物質の分野も、もちろんそうですが)は明らかにされていないことがたくさんあるのです。(神は無限ですから)

では、これからまだどれだけのことが分かることになるのか、それも予想がつかないということになります。

私を知ることにより、多くの人の視野が(心もそうですが)飛躍的に広がったのです。

こういう事実があるのに「お前のいうことなど聞けるか」ですか(すでにもうずいぶん私のいうことを聞いていると思いますが。〔苦笑〕)「お前より俺の方が物事をよく知っている」ですか。

そういう人は私以上の現象を現してから、そのようなことをいってほしいものです。

私は口だけではなく(多くの人の誹謗中傷〔ひぼうちゅうしょう〕にも負けず)様々な現象を現在においても出し続けているからです。

私ほど現象を現している者はいないと思っているからです。(もちろん、法も説いていると思います。このブログを通してです)

この世の修行は命懸けなのです。皆それを承知で生まれて来ているのです。

それなのに、悪いことが起きたら、それはお前のせいなど泣き言以外の何ものでもないのです。

この世の修行を甘く見すぎています。大きな間違いをするなら、その人はあの世に引き上げられるのです。それも仕方がない話なのです。

そのような仕組みも知らず、心の勉強を自分でさぼっておいて、それでお前が悪いなど、どれだけ甘えた考えなのでしょう。

だから、そのような人に災いが起きるのです。自分の考えがあまりに甘く間違っているからです。

この世の修行に甘えは許されません。大きく失敗するなら死ぬことになるのです。

私が優しく警告しているうちに反省されてはどうでしょう。そうしないと命を落とす人が私の周りにはたくさんいるからです。

思い違いが大きな罪となることはいくらでもあるのです。特に法を説く人に対しての思い違いは大きな罪になります。(心の勉強をしていないので、それがさっぱり分からないようですが)

この世の心の修行とはそのようなもので、何度現象を現しても分からなければ、あの世に帰るのです。

そのような人は、この世の修行の落第者であるからです。(それはこの世の大学や高校などでも同じであると思います。あまりに勉強が出来なければ退学となります。それと同じことなのです)

私はすでに、そのような(説くことを間違えたら、あの世に引き上げられる)修行をしているのです。

しかし、そのような修行は特別私だけではないということです。

私以外の多くの人々も同じような修行をしているということです。

いつまでも間違えているのなら、その人はあの世に帰されることになります。

それがこの世の修行であるからです

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3月 24 2016

正しい判断

この世に生まれてきますと、どうしても肉体が一となります。だから、間違ってしまうのです。

多くの人が判断を間違う一番の理由は、この肉体を優先するということにあるのです。

テレビなどでもよく「命が一番大事」「命さえあれば後はなんとかなります」と災害など起きるといっています。

こういうことをいわれると、命さえあればそれでいいと思ってしまいますが、本来はです。命をなくしてもやらなければいけないことがあるのです。

それが私がいつもいっている「神の心を知る」(ということは即ち法を知るということです)ということと「心の成長」なのです。

別に私は「法を知るなら死んでもいい」とか「心が成長するなら命をなくしても仕方がない」といっているわけではありません。

肉体を粗末にしていいといっているわけではありませんが、そのように肉体ばかり見て、心を観ない人があまりに多いから「肉体ではなく心が一番なのですよ」ということをいいたいだけなのです。

だから私は子供であろうと平気で祈るのです。肉体など見ていないからです。

法を説いている者に平気で嫌がらせをしてくるのです。その心を観るなら、これだけ悪い行いはありませんし(釈尊やキリストに嫌がらせをするのと同じことなのです。これ以上悪い行いはないでしょう)肉体はともかく、心はみな大人なのです。

では、神の使いに嫌がらせをした方がいいのか、それともよいことをした方がいいのかは、ちゃんと判断できるはずです。(それはどういう噂を聞いていようとです。自分で判断するのです。それが心の勉強だからです。自分が試験を受けているのに、人の意見など聞く方が間違っているのです。〔それだとカンニングでしょう〕)

しかし、その正しい判断が出来る人が少ないようですので、では、その行為が正しいのか、間違っているのか、天にきいてみましょうということで祈っているわけですから、その祈りの対象が大人も子供もないわけです。

もし、私が祈ってお蔭が現れるなら、これ以上その人の心によいことはないからです。

あくまで心が一なのです。肉体ではありません。そのお蔭で肉体に何か影響が出ても、それでもそのようなお蔭があることによって気づくことがあるのです。

その心の気づきが大事であるといっているのです。その気づきが自分の心を大きく成長させるからです。

きついいい方をするなら、その祈りで仮にその人が命を落とすことになってもです。それでも気づくことの方が大事なのです。

何度もいいますが、肉体よりも心が大事であるからです。

このように書けば「なんてあいつは冷たい奴だ」「子供の命がなくなってもよいというのか」と思う人もたくさんいるでしょう。

では、そのような人にお聞きします。

「天は無慈悲なのですか?」「天は冷たいのでしょうか?」とです。

この世は多くの天変地変が起こります。それで多くの命が失われているのですが、あの天変地変は自然現象ではありません。

すべて、天が起こしているのです。

では、天も多くの人を殺しているではないですか。(しかも大人も子供も関係なくです)あのような天の行為は冷たいのですか?

無慈悲なのでしょうか?

そうではないはずです。天は太陽の光を与え、雨を降らせ、風を吹かせて、多くの恵みを私たちに与えてくれているのです。

天は無慈悲なのではなく慈悲深いのです。

では、なんでその慈悲深いはずの天が天変地変など起こすのでしょう?天は善いことも悪いことも両方するとでもいうのでしょうか?

そうではありません。天(神)の心は善しかないからです。

では、何で天変地変を起こすのでしょう?

このブログを長く読んでいる人たちはもうお分かりになりませんか?天の心がです。

そのような天変地変も慈悲であるということです。

だから天変地変が現れるのです。それも天の慈悲の心の現れであるからです。

これがこの世に出てきてしまうと分からない「何で天変地変が慈悲なのか」「多くの人が死ぬことになるのだから無慈悲なことでしかないだろう」となってしまうわけです。

最初に書きましたが、この世に出てしまうと肉体優先になってしまうからです。心を二の次にしてしまうからです。

だから、天変地変を起こす天の慈悲の心が分からないのです。

この天の心は、私が先ほど書いたことと同じです。天は心の成長を第一に観ているからこのような現象を現しているのです。

そのような現象を通し、心を成長させるためです。

よく災害が起きると「何の罪もない人が、このような災害で犠牲になって」とこれまたテレビでよくいっていますが、このような人たちは罪がないわけではないのです。

罪があるからそのような災害が起きているのです。

そのような災害を受ける人たちは、絶対に何か罪をつくっているから、そのような災害を受ける羽目になるのであり、その災害を受けた人の中にも、亡くなる人もいれば、けがをする人もいる、またはまったく無傷であった人もいるのです。

そのような結果で、自分たちのこれまでの罪が分かるのです。

その災害で、亡くなるような人たちは、これまでよほど悪いことを重ねてきたのでしょう。だからあの世に引き上げられるのです。

そうして、けがをした人たちは、反省すべき点はあるもののまだこの世で勉強しなさい、ということで残されているのであり、無傷であった人たちは、それほど悪いことを重ねてはいないが、そういうことを起こされるのですから、現時点で反省すべき点が多々あるのであり、その部分を反省しなさいということでそのような災難に遭遇しているのです。

このような天変地変も、すべて、そのような自分たちの悪いところを気づかせるべき気づきの現象なのであり、天のこれ以上の慈悲はないのです。

多くの人が一変に(自分たちの悪いところに)気づくことになるからです。

これが最近は気づかないのです。こういうことが起きても全部責任転嫁するからです。

しかし、昔の人がいっていたように、このような災害が起きるのは、天が怒っている証拠なのであり、そのようなことが起きた場所の人たちは、自分たちの心をよく反省しないといけないのです。

そうしないと、また同じことが起きるからです。

もちろんこれは、この世の法律にひっかかているから、そのようなことが起きたのではなく、神の心に逆らっている人が多いからこのようなことが起きたのです。

だから私はいっているのです。法(神の心)を知らないといけないとです。

そうしないと、平気で罪をつくり天を怒らせ、また天変地変など現されるからです。

だから、それはこの辺りも同じなのです。法の大事さを分からず、その法の流布を平気でじゃまはする、その法を説いている人に平気で嫌がらせはする、とやりたい放題です。(これだけ悪いこともありませんから。法は多くの人を救うのです。そのじゃまや嫌がらせです。それでは多くの人の救いをじゃましていることになります。だからこれだけ悪いことはないといっているのです)

これでは天罰が当たらない方がおかしいですし、その天罰まで私のせいにしています。

これだけ悪いことをし続けていれば、天は多くの天罰を現すのです。

この辺りで災い(天罰)が多い理由はそれなのです。

しかし、その天罰も天の大いなる慈悲であるということを知ってください。

天は(当然私もですが)肉体など見ていません。心、その一点を観ているだけなのです。そうして、その心が悪ければ、様々な現象を現してよい方に導くのです。

それこそが一番の慈悲であるからです。

早く気づいてください。自分たちの心がどれだけ悪いかということをです。

そうして、その心を観なければ正しい判断は出来ないということです。

追伸…こういうことを考えましても、私が祈って恐ろしい現象を現している、というのはお門違いな意見なのです。

すべて、自分の心がその現象を現しているからです。

昔からこのようなことはあったのです。(罰が当たるということはです)それを多くの人は理解していなかっただけなのです。(罰など当たらないと、甘く考えていただけなのです)

それがよく理解出来るようになった。(現れるようになった)それだけのことなのです。

昔の人は、悪いことが起きると「罰が当たったのだから、悪いことはしてはいけない」とすぐに自分を反省したものですが、最近の人は、どれだけ悪いことが起きても反省しません。(責任転嫁ばかりです)

そういうこともまた大きな罪となっているのです。

もう次々に罰が当たる時代になりました。悪いことが起きたら「自分が悪かった」とすぐに反省することです。

これからの時代、そういう人だけが救われて行くからです。

(しかし、皆さんが私と同じ立場になったら、多分うつになるか犯罪者になるかのどちらかでしょう。私は、そこらのじゅうで嫌がらせを受け、小、中学生などが平気でバカにしてくるのです。そのバカにしてくるような小、中学生をそれほど無視できますか?〔そこらじゅうでされるのですよ。まずキレますね〕私が祈っている部分だけ見て「小学生を祈っているなどなんてひどい奴だ」と思うのは早計でしょう。普通の人ならまずその小学生をボコボコにしているはずだからです。〔苦笑〕ずいぶんこの辺りの人、私に悪いことをしている人が多いのですが、その天罰が次々にくだり始めたようです。〔今日は前の会社がやけに静かです。昨夜よほどのことが起きたようです。かなり怒っていましたから〕早く反省された方がいいでしょう。悪いのはそちらなのですから。〔これほどのことが起きているのです。もう早くそれを認めた方がいいです〕反省して私に詫びを入れることこそが、唯一、そのような人たちが救われる道であるのです)

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3月 23 2016

法の世の深まり

昨日は知多の海に行ってきました。ソロソロ魚たちも出てくる頃ではないかと思ったからです。

名鉄で内海まで行って、そうして内海から野間(南知多ビーチランドがある)知多奥田の辺りまで海岸を歩いて行きましたが、もう、内海の駅についた時点ですずめたちが大騒ぎです。(笑)

そうして、その内海駅から海岸に出るまでには畑がたくさんあるのですが(あの辺は本当に畑が多いです)その畑の中の道を歩いて行くと、あちこちですずめやらムクドリやらが飛び回り、私の方に飛んでくる鳥も何羽もいました。

「ピィピィ」「ギャーギャ」楽しいものです。

そのような鳥たちが大喜びしている光景を見ていると、何か自分が天上界いるのではないかとも思えました。

しかし、そのような鳥たちの声を聞くと、すぐに大きな音を出す人たちがいます。(ドンとか、ガンとか物を叩き付けてです)

「ああ、ここはまだ現象界(この世)であるのだな」と一瞬で我に返りました。

そのような奇跡の現象を(天上界で起きている現象を)素直な心で見ることが出来ない人がたくさんいるようです。本当に哀れなものです。

だから、その辺りでも辻説法をしましたが(内海の駅に降りて早々にもしました。駅の中にある売店のオバちゃんや喫茶店のオバちゃんに嫌がらせをされたからです)私のことを悪く思っている人は相当多いようです。

キリストはなぜ十字架にかけられたのか?

そうしなければ、キリストはあの時、あれ以上福音を説くことが出来なかったからです。

その当時、キリストに対する反発の心を持っている人がたくさんいたのです。キリストは、それまでとは違う価値観で法を説き、多くの奇跡を現したからです。

そのような普通の人と違う行いが人々の反発を買い、それが多くの人の耳をふさがせ、あの偉大なキリストさえも十字架にかけることになったのです。(当時の人たちには、キリストの偉大さがまったく分からなかったのです。そのような反発の心がじゃまをしてです)

今の私も同じでしょう。これまでとは違う価値観で法を説いて、そうして多くの奇跡を現しているのです。

そのような行いが人々の反発を買い、そうして、多くの間違った噂を流されています。

世が世なら、私も十字架にかけられていたのでしょうが(魔女狩りにでもあってです)すでに時代は変わっています。

法が堂々と説け、そうして奇跡も自由に現せることが出来る時代となったのです。(ただし、それは日本においてはという条件が付きますが。法が自由に説けない国もまだたくさんありますから)

では、聞くべきでしょう。

本当の神の教え(法)を説いているのは私だけであるからです。そうして本当の神の業(奇跡)を現しているのも私だけであるからです。(本当の神の教えを説くことが出来なければ、本当の神の業など現すことが出来ないのですから、当たり前といえば当たり前のことなのですが)

どうして、それほど悪い者に、これだけ鳥が寄ってくるのでしょう。悪魔の噂を信じていては、こんな簡単な質問さえ答えることが出来ないのです。

しかし、この質問の答えが分からない人など多分いないでしょう。多くの人が、この質問の答えはすでに分かっているのです。

分かっているのですが、それを認めたくはないのです。それを認めると、自分たちの間違いを認めることになるからです。

私が善人であるから、これだけ多くの鳥たちが寄って来ているのです。(これも当たり前のことですよね)

悪人にあの臆病な鳥たちが寄ってくるわけがないのです。

また、それほど多くの鳥たちが寄って来て、そうして奇跡まで起きているというのなら、それこそ普通の人以上の善人でなければ、そのようなことが起きるわけがないのです。(釈尊しかり、キリストしかりです)

そのようなことは、すでに多くの人が気づいているのです。気づいていながら、それを認めようとしないのです。

先ほど書きました「反発の心」がそれを認めることを許さないからです。

しかし、法を自由に説ける時代になり、そうして、その法を実践しなければいけない『正法の世』となったのです。

では、法を無視していてはもうまともな生活さえできないでしょう。正法の世になり法を無視して生活するなら、災いが次々に降りかかって来るからです。

その法を知らないばかりに起きている災いを、未だ私のせいにしている人たちも多いのですが、もう限界でしょう。

そのような態度を取る人たちで、すでに泣きが入っている人たちがあちこちにたくさんいるからです。(どこかの会社もそうでしょうし、昨日は名鉄を利用しましたが、乗務員の皆さん、ずいぶん変わりました。〔私に頭を下げていった人までいましたから。前は絶対そんな人いませんでした〕それとは正反対に市バスの運転手はやたら怒っている人がいます。こういう両極端の態度の人が増えたのは泣きが入ってきた証拠でしょう)

いい加減、認められてはどうでしょう。自分たちの間違いをです。

どれだけ反発したところで、法の世になれば、法を知らないまま生きて行くなら、今のように災いが次々に起きることになるのです。

法の世と自分の心が合わなくなるからです。

末法の世であるならば、末法の心のままでいても生きていけます。しかし、正法の世になれば、その正法(釈尊が説かれた本当の正法です。キリストの説かれた福音も同じですが)を知らずにいては生きていくことも困難になるのです。

法を知らずに生活する人には次々に気づきの現象が現れるからです。(それが災いです)

私と、他の人たちとなぜ起きることが違っているのでしょう?

その理由はただ一つなのです。

心が違っているからです。

それだけなのです。心の違いが、起きることの違いとなって現れているのです。(だから私はいっているのです。皆さんの心が現れる時代になったとです)

私は法を物差しとして生活しているのであり、他の皆さんは、その法の物差しを持っていない。

その差が起きることの違いとなって現れているのです。

いつまでも怒っていて、それでどうにかなるのでしょうか?

それではどうにもならないほど、すでに法の世は深まっているのです。

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3月 21 2016

視点を変える

また朝からお怒りのようですが、本当に毎日同じことを続けています。(よくそれだけ悪いことが起きて、それでもまだ同じことをやり続けますね。そこまで行くとバカを通り越してすさまじいです)

しかし、仮に私が謝っても、その災いは止まらないのです。

だから、こちらが折れたくても折れようがないのですから、そちらが折れるしかありません。反省されてはどうでしょう。それ以外で救われる道はないからです。

それはどこかの会社の人たちだけではないのですが、最近はよく自由、自由といわれます。

だから、折れようが折れまいが、そんなことは自由だといわれればそれまでのことなのですが、しかし、最後にはその自由を捨て、従わなければいけないものもあります。

それが法であり、神理であるのです。

法や神理に従わない自由は確かにありますが、そちらの自由を取るなら、それが苦痛となり、不幸となって自分に跳ね返ってきます。

それを多くの人は言葉ではなく、実践で体験させられているのです。

では、これほど正しいことが分かる教えはないのはないでしょうか。口だけではなくすぐにお蔭が現れるからです。

それは最近ブームだといわれている風水などと比べても一目瞭然でしょう。(国家をあげてやっているところもあるようですが)

今日はあちらの方位がいい、明日はあちらの方位がいいといったところで、そのよいといわれる方位に行って、それで奇跡が起きるのでしょうか?

方位のいい方に旅行など行って気分がよかった、パワーをもらえた、とかいう話をブログに書いている人がいますが、その方位に行って奇跡が起きた、と書いている人はいません。

では、その気分がいいとか、パワーをもらえたとかいうのは気のせいなのではないでしょうか?

何か奇跡的な現象が起きなければ、パワーがもらえたかどうかの証明など出来ないからです。

奇跡的な現象が現れてはじめて、その方角に行ってよかった、パワーがもらえたと証明出来るからです。

だいたい東西南北すべて神がつくられたのです。

何で神がつくられた場所によい悪いがあるのでしょう。そのようなものはすべて、勝手に人間がつくりだした知と意の産物にしかすぎないのです。

日本では東北が鬼門だと昔からいわれています。

では、その東北に住んでいる人たちには悪いことばかりが起きているのでしょうか?

名古屋から見たら静岡の辺りが東北になりますが、三重県の人から見たら名古屋が東北に位置します。

東北が鬼門だといわれても、その住んでいる場所によって東北の位置は変わるのですから、そのような言い伝えのおかしさはよく分かります。

それに、どの場所に住んでいようと悪いことが起きる人には悪いことが起きますし、よいことが起きる人にはよいことが起きるのです。

では、よいことが起きるのも悪いことが起きるのも場所は関係ないと思われないでしょうか。(その場所が鬼門の場所であるなら、そこに住む人、全員に悪いことが起きないといけないからです)

名古屋がそのよい例でしょう。

名古屋はずいぶん悪いことが起きている人が多いようですが(さすが三重県から見たら鬼門です)私には悪いことなど起きず奇跡が起きています。

場所で、よいこと悪いことが起きるのであれば、私にも悪いことが起きないといけません。(ある意味、悪いことは起きていますけどね。人から嫌がらせばかり受けるからです。〔苦笑〕)

しかし、同じ場所にいても、私には災いとは正反対の奇跡が次々に起きているのです。

このようなことからもよく分かります。よいことが起きるのも悪いことが起きるのも、場所など一切関係ないということがです。

場所ではないのです。

心なのです。

その一人一人の心(と行い)が、その人に起きるよいこと悪いことに大きく関係しているのです。(そうでなければ説明がつかないからです)

このように、人がつくったものはいくつもの間違いがあるのですが、法は神がつくられたのです。

したがって間違いがないのであり(ただし説いている人が間違わなければという条件付きですが)だから、その法を正しく実践すると奇跡が起きるのです。

唯一無二の本当の神がつくられた正しい教えであるからです。(神がつくられた教えなのですから、その教えを実践すれば神の奇跡が起きるのは当たり前のことなのです)

だから、この教えに逆らうとろくなことが起きないのであり、従うなら奇跡が起きるのです。

だから、この教えを勉強しなければいけないし、この教えが拡がれば拡がるだけ、そこが平和になるのです。(ただし、実践する人が多ければということですが)

この教えに従うも逆らうも自由です。しかし、従えば奇跡が、逆らえば災いが起きる、それは事実であるのです。(証明する人この辺りにたくさんいます)

この教えが拡がれば世界が平和になります。小さな心は捨て、自分の幸せとともに世界の幸せを願ってはどうでしょう。

そのような大きな心が自分をひいては世界を救うからです。

(私に従うのではないのです。世界を平和にするためにこの教えを勉強し実践するのです。私のためではありません。自分のため世界のためにやるのです。もう少し視点を変えられてはどうでしょう。同じ視点から見ていては難しいことでも、別の視点から見てみれば、なんということはない、ということはいくらでもあるからです)

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3月 20 2016

愛ある現象と天変地変級の災い

昨日は堀川に行ったのですが、もうカモメは数羽程度しかいませんでした。

しかし、その数羽のカモメが私が行くと嬉しそうに飛んできます。

私の前や頭上を行ったり来たりしているカモメに「もう帰るのか」と聞くと、中にはビクッとするカモメもいるのですから「みな人の言葉がよく分かっているのだな」とつくづく思います。

どのような動物もすべて(すべてです)人の言葉が分かります。だから鳥など近くに飛んできたら、優しい言葉をかけてあげてはどうでしょう。

そうすればこちらの愛も、もっと鳥たちに伝わると思うからです。(私は、よくすずめなどに「元気か」と声をかけています。そうやって声をかけると喜ぶすずめがいくらでもいます。態度に現しますからすぐに分かるのです)

そのカモメが少なくなった堀川を見ると、もう水面でさざ波が立っています。

「お前ら元気か」と今度は水面に向かい声をかけると、あちらこちらにサッーとさざ波がいくつも立って、中にはこちらに向かって来るのもあります。

そのうちに、ジャボン、ジャボンという音がして、水面で何かが跳ねています。目を凝らしてそちらを見ると、そこに小さな魚たちがたくさん浮かんできています。

小魚たちが私の声に反応し、あちらこちらで跳ねているようでした。

カモメたちがいなくなると、今度は魚たちがたくさん顔を出し始めます。(中には、カモメがいるにもかかわらず意地になって跳ねている魚もいますが。〔笑〕)

私は少し自然があるところに行けば、このようなことばかり起こります。本当に楽しいものです。

しかし、去年はこの時期まだたくさんカモメがいたのです。(満開の桜と一緒にカモメを動画に撮った記憶がありますので、四月くらいまでいたと思います)

それが今年はもうほとんどいません。今年は暖冬であったということも影響しているのでしょうか?

そのようなカモメや桜を動画に撮っていた時、去年などはよくブシュブシュやられました。そのブシュブシュが今年は妙に元気がありません。

皆さんどうされたのでしょう?

何か悩み事でもあるのでしょうか?(これから暖かくなるというのにまだ寒い冬が続いている感じですね)

特にバスの運転手の皆さんなど深刻そうです。

やたら怒っている人、顔が引きつり真正面しか見ない人、凄い顔をでこちらを見ている人、あるいは遠くから、たそがれた顔でこちらをジッと見ている人など、様々な表情をした人がいるのですがどうされたのですか?(明らかに様子が変ですけど)

トラックの運転手など、ニコニコ笑いながらこちらに頭を下げた人までいました。

ずいぶんこれまでとは様子が違ってきたように思いますが、本当にどうされたのでしょう。

そうして昨日もやたら怒っている会社がありました。

私が近くを歩いているとでかい音をガンガン立てたり、あるいは、その会社からわざわざ外に出てきて、物を投げ捨て大きな音を立てる人もいました。

とにかく、怒っている人やたそがれた顔をして見ている人が多いのです。(笑っている人もいましたが、何か無理して笑っているようで、そういう人に「いつまでも笑っていられるかな」というと、急に顔が曇るのです)

一体何をそんなに怒っているのですか?それほど寂しそうな顔をしているのでしょう。

別に大きな天変地変などが起きているわけでも何でもないのにです。

それとも、大きな天変地変に匹敵するくらいのことでも起きているというのでしょうか?

そうであるなら、そのような態度を取る人があちこちにいても何も不思議ではないでしょう。

そんな大きな天変地変が起きたのなら、キレたような態度を取る人、絶望的な態度を取る人がたくさんいても当然であるからです。

それほどのことが起きているのでしょうか?

バスやトラックの運転手の皆さんや(もちろん電車も同じですが)この辺りの会社の人たちにはです。

皆さんの態度を見ていると「何か大変なことが起きている」そう思わざるを得ませんが、もし、それほど恐ろしい現象が現れているのなら、それを救えるのは私だけでしょう。

なぜなら、そのような天変地変に匹敵するような災いが起きている中にあって、釈尊、キリストと同じ奇跡が現れているのは、私だけであるからです。

その奇跡が、起きているであろうすさまじい災いを救える唯一の手段であるからです。

詫びを入れてはどうでしょう。そのような「自分が悪かった」という謙虚な反省の心が自分を救うからです。

まず、そのような心にならなければ、このすさまじい災いから逃れる術はないのです。

それだけすさまじい災いを招いてしまったのは自分たちだからです。その自覚をいい加減持たれてはどうでしょう。

そうしなければ、一人たりとも救われることはないからです。

間違った考えを持ち続け、間違ったことをやり続けている全員に、そのすさまじい災いは現れるのです。

その災いは天罰以外の何ものでもないからです。(奇跡が起きている私がいうのですから、間違いありません。その起きている災いが自分たちの間違いを現しているのです)

私は無理難題をいっているわけではないのです。

「自分たちが間違っていたのだから、それを認めて素直に謝りなさい」といっているだけなのです。(天罰の定義お分かりですよね)

まずそれをしないと(そういう心にならないと)この天罰から逃れる道はないからです。

天罰を受けないようにするには、自分が悔い改める、それ以外にないからです。

自分たちの罪を私に擦り付け、そうして散々嫌がらせをしてきたのは、そちらなのです。(私一人でこれだけのことが出来ますか?〔多くの人を次々に病気にするとかです。漫画じゃあるまいし出来るわけがありません〕それに何でそんな悪い者に鳥や魚が寄って行くのですか?そういう質問に誰一人答えることが出来ないではないですか。それが自分たちが間違っている何よりの証拠です。自分たちの考えが間違っているから、そんな簡単な質問一つ答えることが出来ないのです)

何でそれが悪いことではないのでしょう。大変な罪なのです。もう長年多くの人々は(本当の)神に対し大きな罪をつくり続けて来たのです。

それに気づいていなかっただけなのです。

その罪にやっと気づき始めた、それだけのことなのです。しかし、その罪に気づいたのはいいが、今度はその罪を人に擦り付け、どれだけ天罰を受けても、頑として自分の罪を認めようとしない、今の皆さんはそのような状態なのです。

だから、これほどの(天変地変級の)災いが現れているのです。今の心と行いがまったくなっていないからです。

それだけ大きな天罰を食らうには食らうだけの理由があるということです。

まだそれを私一人のせいにし続けるのですか?(どれだけ私のせいにし続けても災いは止まりませんが…むしろひどくなるばかりですが)

しかし、私には、鳥が寄って来たり、魚が寄って来たりと、愛ある現象が現れ続けています。

愛ある現象が現れる人には幸せが、大きな災いが現れる人には(大きな)不幸が訪れるということは、誰でも知っています。

そのような現象が現れ続けているのです。

いい加減悟られてはいかがでしょう。自分たちの大きな罪をです。

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