釈尊やキリストと同じ奇跡が起きているのなら、釈尊やキリストと同じことをいい、同じことをしているということになります。(だから同じ奇跡が起きるのです)
だからといって、もちろん釈尊やキリストと同レベルのことが出来るわけではありませんが、現在ある人たちの中で一番釈尊やキリストに近いのが私でしょう。(そんな私に嫌がらせなどしているから災いが起きるのです)
釈尊やキリストが地獄に堕ちていると思われますか?そういうことを思う人はまずいないでしょう。(釈尊やキリストは天上界の一番高い世界、如来界の一番上の世界〔宇宙界〕におられます)
では、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きるなら、死後に地獄に堕ちるわけがありません。
だから私は、この法を実践するなら、この世の幸せだけではなく、死後の世界まで保証されますよといっているのです。
口だけではなく、そういう現象が起きているのですから、これ以上の証明はありません。
口でうまいことをいう人たちはたくさんいます。しかし、私は多くの人の目の前でそのような現象が現れているのですから、これ以上の信用できる話もないのではないでしょうか。
イギリスの社会福祉政策のスローガンではありませんが、ゆりかごから墓場まで救われるだけではなく、その先のあの世までも救われる、そのような保証付です。
何で皆さんこの教えを勉強しようとはしないのでしょうか?
多くの人は、この世の出世ばかり望んでいますがとんでもないのです。この世の出世などよりあの世の出世の方がよほど大事なのです。(生まれてくる前よりも高い世界に帰るということです)
それが私たちがこの世に生まれた一番の目的であるからです。(自分の心の向上)
ところがほとんどの人が、その一番の目的に気づかずに一生を終えるのです。そうして死んだ後に「しまった」と思うのです。(その目的を知らずに亡くなった人は百人が百人そう思います)
この世で出世することがどれだけ意味のないことなのか早く知ることです。そうではないでしょうか。
この世でどれだけ出世したところで、その出世で得た地位も名誉も金も何一つあの世には持って行けないのです。すべてこの世において行かなければいけないのです。
そのようなこの世でしか通用しないものが、それほど価値があると思いますか?
この世に置いていかなければいけないものなど、所詮はこの世だけの価値でしかないのです。(もっというなら、その人にかかわりがある人たちだけの中の価値でしかないのです)その人がいなくなれば(亡くなれば)その人の地位や名誉や金はすべて他の人に回るのです。
そんな自分のものなのか、それとも人のものなのか、よく分からないようなものが、どれほどの価値があるのでしょう。
そのようなものに価値などないのです。多くの人が、そのようなものは価値があると勝手に思い込んでいるだけなのです。
そのように出世するために、人以上に努力したという部分は評価されることでしょうが、その努力したあと得たものをどのように使うのか、それでその人の評価は違ってくるのです。(自分の為だけに使うのか、それとも人のためにも使うのかでです)
そのようなことをするのか、しないのか、それを思うのはすべて心なのです。それを考えるなら本当に価値あるものは何なのか分かるはずです。
本当に価値あるものとは、その人の心なのです。
その心の在り方ひとつでよいことも悪いこともするのです。そうして、その自分の心だけは、この世に置いていったり、また人に分け与えようとしても出来ません。
自分の肉体さえこの世に置いて行かなければいけませんが、自分の心だけは自分だけのものであり、死後、あの世に持って行ける唯一のものなのです。
だから、自分の心の向上、これが一番大事ですよといっているのです。この世、あの世を通して自分だけのものが自分の心であるからです。
この世の地位や名誉や金、自分の肉体さえも、この世だけのものなのであり、心だけが、この世もあの世も通して自分だけのものなのであり、その心を向上させることが、自分を向上させることであり、唯一それが自分にとって価値があることなのです。
その心の向上のための手段として、私たちの肉体があり、この世の出世などがあるのです。
だから、この世で出世しなくても心の向上が図かれればそれでよいのであって、それはその人の心の勉強の仕方次第なのです。
とはいえ、では努力しなくてもいいのか、といえば、努力しなければ自分の心が向上するわけはないのですから、常に努力は必要であり、要はこの世のことにあまり執着してはならないということです。
この前、癌で亡くなった芸能人の人でもそうですが、あそこまで名前が売れれば、仕事もたくさんあったでしょうしお金も稼いでいたでしょう。
自分の生活に支障をきたさない蓄えがあったのなら(仮にその人はあったと仮定して書きますが)もう仕事ばかりやっているのではなく、休みもとって(もちろんその休みに遊んでいるばかりではなく)静かな場所で自分の一生を振り返り、悪いところがあったのなら反省し、そうしていずれは自分は死ななければいけないのですから、自分自身の死も受け入れてあの世にも思いを馳せて、神を思い、もういつ死んでもよいという、そのような穏やかな心になっているのであれば、あのような癌で死ぬこともなかったのです。
そのような心になれるのであれば、そういう不治の病になどならないからです。
心に余裕をもって、この世のことだけではなく、神やあの世のことまで考えることが出来たのなら、神の光に包まれ、その人は幸せな方に天上界から導かれて行ったからです。
しかし、多分あの人は、神のこともあの世のことも考えもしなかったでしょう。仕事仕事と仕事のことばかり考え、自分が癌になったのなら、なんて自分は運が悪いんだという思いで、自分を振り返り反省するということなどしなかったでしょう。
それではいけないのです。そのような偏った心であったばかりに、そのような不幸に最後は見舞われたのであり、その心を反省しなければいけなかったのです。
あの方は、私のことを知っていたのではないでしょうか。しかし、私を知っているだけでは救われないのです。私のことを知ったのなら、私のいうことを信じ行わなければ救われないのです。
せっかく目の前に救われる道があっても、その道を自分で進まなければ救われることはないのです。
しかし、そのように、ただこのブログを見ているだけの人が多いと思います。しかしそれでは百年たっても救われないのです。(嫌がらせしている人は論外ですけどね。今日も無理してやっています…本当に哀れです)
知っているだけではダメなのです。行即光、行って初めて光が現れるのであり、その人に神の光が降りてくるのです。本当の救いはそこから始まるのです。
救われるということは、それは即ち心が向上しているということであり、この教えを勉強するなら末は(あの世は)如来界も夢ではないということです。
私たちはいずれ死ぬのですから、その死も受け入れないといけません。生ばかりに執着していてもそれも地獄行きなのです。
そのような心になるのはそれほど簡単ではありません。だから実践しないといけないといっているのです。心の勉強を実践して行くと、そのような生の執着も段々なくなって行くからです。
死とはいえ、その先もあるんですから、その先の世界が如来界であるなら、これだけよい世界もありません。(何せ、あの世の最高峰ですから)それを思えるなら死ぬのもまた楽しみなのではないでしょうか。
マァ、一足飛びに如来界に行けるわけではありませんが、本当の出世とは自分が生まれて来た世界よりも高い世界に帰る、それが本当の出世であるのです。
しかし、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きるようになれば、それこそ如来界も夢ではないのです。(そうなると死ぬことが楽しみになります。だって私、楽しみですもん)
この世の一時の(皆さんよく時間が過ぎるのは早いといわれますが、本当にこの世にいる時間などあっという間なのです)栄耀栄華に踊らされ、本当の修行をしないことほど愚かなことはありません。
せっかく、釈尊やキリストと同じ奇跡を目の前で見られたのです。(目の前で見ていない人でも動画で観ているはずです)その奇跡が自分にも起きるよう努力されてはどうでしょうか。