>>ブログトップへ

6月 16 2015

起きていることの違い

また昨日は荒れた天気になりましたね。

九州の大雨は相変わらず続いていますが、北海道から関東まで大気が非常に不安定になり、激しいカミナリやヒョウ、あられが降ったところもあって、群馬県では突風が吹いて屋根は飛ばされる、電信柱は倒れる、車も飛ばされて太陽光のパネルまで飛ばされたそうですね。(こういうのを見せられると太陽光発電がたくさんあるところは、今後、突風がよく吹くようになるのかもしれません。気をつけないといけませんね)

本当に異常な天気が続いています。

このように天気も大荒れなんですが、どこかの会社も大荒れのようです。

今日も朝早くからガンガンやっていました。今も興奮冷めやらず(?)といった感じでしょうか。(でも前のように、思いっきりこのブログのじゃまをするということは出来ないようです。この会社に起きていることの恐ろしさがよく分かります)

こればかりは自業自得以外の何ものでもありません。自分たちが折れない限りどうしようもないのですから、私もどうすることも出来ません。(それこそ祈ることぐらいしか出来ません)

早く心変わりしてくれることを願うしかありませんが、そのような荒れた人たちとは裏腹に、私はまた昨日不思議なことが起きました。

昨日は庄内川の川岸を歩いたのですが、川の魚が跳ねたり小魚たちが集まってきたり、鳥たちが寄ってくるのはもちろんのこと、最近はカニまで出てきて大騒ぎです。(雨も降っていないのにです)

庄内川の川岸は草むらが広がっているところから、石ころが敷き詰められているところ、コンクリートで固められているところから、土がむき出しになっているところなど、いろいろな場所があるので、いろいろな生き物がいるようです。

イタチやカワウソもいるようですが(ちらりとしか見たことがありませんが)何か私の近くに寄って来る動物がだんだん増えているようです。これからの動画は(魚や鳥ばかりではなく)いろいろ違う動物たちが撮れるかもしれません。

その違う動物たちといえば昨日のことです。

庄内川の川岸をずっと歩いていましたが、そのうちに松がたくさんあるのが見えました。寺でもあるのかなと思い、川岸の堤防からのぞいてみるとやはり寺があって池もあります。

池があるなら必ず何かいるだろうと思い、その池まで行って「お前らいるのか」と呼びかけました。

するとです。私はてっきり鯉か何か顔を出すのだろうと思いましたが、池の中から上がってきた生き物がいました。

「鯉か?」と思いましたが違っていました。その池の中から上がってきた生き物とは亀だったのです。

私が池に声をかけると、亀があちらから一匹、こちらから一匹と池の底から上がってきて、最後は十匹ほどの亀が水面に顔を出し、私の方に寄ってくるではありませんか。何か浦島太郎になった気分でした。(笑)

これまでも、魚などを動画に撮っていると亀が寄ってきたことがあるにはありましたが、これだけ多くの亀が一変に寄ってきたことはありませんでした。

最近は亀まで寄ってくるようになったようです。(笑)それも動画に撮ってあります。亀ばかりが集まって来ますので少々奇妙ではありますが、そのような動画もまた観てください。

このように最近は寄って来る動物が増えています。これから先、一体どんな動物が寄ってくるのか楽しみではありますね。

その動物の不思議の動画が出来てきたようです。公開しますので、それを観てまた癒されてください。

法を知るのと知らないのとでは、このように起きることに大きな違いがあります。法を理解しているなら愛ある現象が、理解出来なければ愛のない恐ろしい現象が現れてきます。

これほど起きる現象に違いがあるのです。

この法の凄さをもう少し理解していただけないでしょうか。

(もう書けたもんじゃありませんね。どこかの会社の雰囲気がおかしすぎてです。何が起きているのか知りませんが詫びを入れてはどうでしょう。その起きている現象は、私が起こしているのではなく神が起こされているからです)

0コメント

6月 15 2015

心の向上

釈尊やキリストと同じ奇跡が起きているのなら、釈尊やキリストと同じことをいい、同じことをしているということになります。(だから同じ奇跡が起きるのです)

だからといって、もちろん釈尊やキリストと同レベルのことが出来るわけではありませんが、現在ある人たちの中で一番釈尊やキリストに近いのが私でしょう。(そんな私に嫌がらせなどしているから災いが起きるのです)

釈尊やキリストが地獄に堕ちていると思われますか?そういうことを思う人はまずいないでしょう。(釈尊やキリストは天上界の一番高い世界、如来界の一番上の世界〔宇宙界〕におられます)

では、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きるなら、死後に地獄に堕ちるわけがありません。

だから私は、この法を実践するなら、この世の幸せだけではなく、死後の世界まで保証されますよといっているのです。

口だけではなく、そういう現象が起きているのですから、これ以上の証明はありません。

口でうまいことをいう人たちはたくさんいます。しかし、私は多くの人の目の前でそのような現象が現れているのですから、これ以上の信用できる話もないのではないでしょうか。

イギリスの社会福祉政策のスローガンではありませんが、ゆりかごから墓場まで救われるだけではなく、その先のあの世までも救われる、そのような保証付です。

何で皆さんこの教えを勉強しようとはしないのでしょうか?

多くの人は、この世の出世ばかり望んでいますがとんでもないのです。この世の出世などよりあの世の出世の方がよほど大事なのです。(生まれてくる前よりも高い世界に帰るということです)

それが私たちがこの世に生まれた一番の目的であるからです。(自分の心の向上)

ところがほとんどの人が、その一番の目的に気づかずに一生を終えるのです。そうして死んだ後に「しまった」と思うのです。(その目的を知らずに亡くなった人は百人が百人そう思います)

この世で出世することがどれだけ意味のないことなのか早く知ることです。そうではないでしょうか。

この世でどれだけ出世したところで、その出世で得た地位も名誉も金も何一つあの世には持って行けないのです。すべてこの世において行かなければいけないのです。

そのようなこの世でしか通用しないものが、それほど価値があると思いますか?

この世に置いていかなければいけないものなど、所詮はこの世だけの価値でしかないのです。(もっというなら、その人にかかわりがある人たちだけの中の価値でしかないのです)その人がいなくなれば(亡くなれば)その人の地位や名誉や金はすべて他の人に回るのです。

そんな自分のものなのか、それとも人のものなのか、よく分からないようなものが、どれほどの価値があるのでしょう。

そのようなものに価値などないのです。多くの人が、そのようなものは価値があると勝手に思い込んでいるだけなのです。

そのように出世するために、人以上に努力したという部分は評価されることでしょうが、その努力したあと得たものをどのように使うのか、それでその人の評価は違ってくるのです。(自分の為だけに使うのか、それとも人のためにも使うのかでです)

そのようなことをするのか、しないのか、それを思うのはすべて心なのです。それを考えるなら本当に価値あるものは何なのか分かるはずです。

本当に価値あるものとは、その人の心なのです。

その心の在り方ひとつでよいことも悪いこともするのです。そうして、その自分の心だけは、この世に置いていったり、また人に分け与えようとしても出来ません。

自分の肉体さえこの世に置いて行かなければいけませんが、自分の心だけは自分だけのものであり、死後、あの世に持って行ける唯一のものなのです。

だから、自分の心の向上、これが一番大事ですよといっているのです。この世、あの世を通して自分だけのものが自分の心であるからです。

この世の地位や名誉や金、自分の肉体さえも、この世だけのものなのであり、心だけが、この世もあの世も通して自分だけのものなのであり、その心を向上させることが、自分を向上させることであり、唯一それが自分にとって価値があることなのです。

その心の向上のための手段として、私たちの肉体があり、この世の出世などがあるのです。

だから、この世で出世しなくても心の向上が図かれればそれでよいのであって、それはその人の心の勉強の仕方次第なのです。

とはいえ、では努力しなくてもいいのか、といえば、努力しなければ自分の心が向上するわけはないのですから、常に努力は必要であり、要はこの世のことにあまり執着してはならないということです。

この前、癌で亡くなった芸能人の人でもそうですが、あそこまで名前が売れれば、仕事もたくさんあったでしょうしお金も稼いでいたでしょう。

自分の生活に支障をきたさない蓄えがあったのなら(仮にその人はあったと仮定して書きますが)もう仕事ばかりやっているのではなく、休みもとって(もちろんその休みに遊んでいるばかりではなく)静かな場所で自分の一生を振り返り、悪いところがあったのなら反省し、そうしていずれは自分は死ななければいけないのですから、自分自身の死も受け入れてあの世にも思いを馳せて、神を思い、もういつ死んでもよいという、そのような穏やかな心になっているのであれば、あのような癌で死ぬこともなかったのです。

そのような心になれるのであれば、そういう不治の病になどならないからです。

心に余裕をもって、この世のことだけではなく、神やあの世のことまで考えることが出来たのなら、神の光に包まれ、その人は幸せな方に天上界から導かれて行ったからです。

しかし、多分あの人は、神のこともあの世のことも考えもしなかったでしょう。仕事仕事と仕事のことばかり考え、自分が癌になったのなら、なんて自分は運が悪いんだという思いで、自分を振り返り反省するということなどしなかったでしょう。

それではいけないのです。そのような偏った心であったばかりに、そのような不幸に最後は見舞われたのであり、その心を反省しなければいけなかったのです。

あの方は、私のことを知っていたのではないでしょうか。しかし、私を知っているだけでは救われないのです。私のことを知ったのなら、私のいうことを信じ行わなければ救われないのです。

せっかく目の前に救われる道があっても、その道を自分で進まなければ救われることはないのです。

しかし、そのように、ただこのブログを見ているだけの人が多いと思います。しかしそれでは百年たっても救われないのです。(嫌がらせしている人は論外ですけどね。今日も無理してやっています…本当に哀れです)

知っているだけではダメなのです。行即光、行って初めて光が現れるのであり、その人に神の光が降りてくるのです。本当の救いはそこから始まるのです。

救われるということは、それは即ち心が向上しているということであり、この教えを勉強するなら末は(あの世は)如来界も夢ではないということです。

私たちはいずれ死ぬのですから、その死も受け入れないといけません。生ばかりに執着していてもそれも地獄行きなのです。

そのような心になるのはそれほど簡単ではありません。だから実践しないといけないといっているのです。心の勉強を実践して行くと、そのような生の執着も段々なくなって行くからです。

死とはいえ、その先もあるんですから、その先の世界が如来界であるなら、これだけよい世界もありません。(何せ、あの世の最高峰ですから)それを思えるなら死ぬのもまた楽しみなのではないでしょうか。

マァ、一足飛びに如来界に行けるわけではありませんが、本当の出世とは自分が生まれて来た世界よりも高い世界に帰る、それが本当の出世であるのです。

しかし、釈尊やキリストと同じ奇跡が起きるようになれば、それこそ如来界も夢ではないのです。(そうなると死ぬことが楽しみになります。だって私、楽しみですもん)

この世の一時の(皆さんよく時間が過ぎるのは早いといわれますが、本当にこの世にいる時間などあっという間なのです)栄耀栄華に踊らされ、本当の修行をしないことほど愚かなことはありません。

せっかく、釈尊やキリストと同じ奇跡を目の前で見られたのです。(目の前で見ていない人でも動画で観ているはずです)その奇跡が自分にも起きるよう努力されてはどうでしょうか。

0コメント

6月 14 2015

存在しえない人間

いつまでも私は悪者ですね。

歩いていて嫌な顔をされることはしょっちゅうですし、サイレンなどしてくると相変わらず怒っている人がいます。(睨〔にら〕まれることもよくありますからね)

しかし、いい加減分からないんでしょうか?そのような私一人を悪くいう噂のおかしさがです。

少し考えてもらえれば分かると思います。そのような噂はどう考えてもまともではないのです。

だいたい、一人の者が人を次々に病気にしたり不幸にしたりしているとしたら(そういうことが出来る者が存在するのかどうかもはなはだ疑問ですが)そのようなことをする、その者の精神構造は一体どうなっているのでしょう。

普通の人であれば、人一人、病気や不幸にしただけでも心が痛みます。(痛みますよね。一人の人でも自分が原因で不幸になったというのであればです)

一人の人を不幸にするだけでも心が痛むのに、もし、私が毎日してくるサイレンの犯人ということであれば、私は毎日、数人から数十人もの人を病気(あるいはけが)にしているということになります。

ということは、私は毎日多くの人を不幸にしていながら、平気でいられる悪魔のような(悪魔でもそれだけ多くの人を毎日不幸にしたら、さすがに心がとがめると思うのですが)心の持ち主であるということになります。

それほど異常な心の持ち主であるならば、そのような心は必ず表に現れます。

そうであるなら私は、普段から異常な行動をとっているはずですが(ある意味異常な行動はとっているのかもしれませんが。普段から祈ったり、辻説法をしたりしているのですから)私は、そのような異常な態度をとっているのでしょうか?(それほどもの凄い悪の心を持った者がもし存在するなら、普通の態度はとれないでしょう。考えられないくらい残忍だとか、考えられないくらい非情であるとか、必ず、その異常な心は表に出てきます)

もし私が、そんな異常な態度をとっているのなら私に嫌がらせをしてくる人など皆無でしょう。まして子供が近づいてくるはずがありません。(昨日も歩いていて小学生にバカにされました。ああいうバカ小学生、後々大丈夫なんでしょうか?)

そのような周りの人の態度を見れば分かりますが、私の態度はいたって普通であると思うのですが、そんな私が、超がつくほどの精神異常者のようなことをしているというのでしょうか?

もし私が、そのような異常なことをしているというなら、ずいぶん普段の態度と行うことが違うように思いますが、実際そんな人間が存在するのでしょうか?

一人で多くの人を病気にするということもさることながら、仮にそれが出来たとしても、そんなことをしていたら精神的に持たなくなります。

そんな人を次々に不幸にするようなことを、何年にもわたり毎日続けてやれる人間がもしいたとしたら、その人は精神破たん者であり(そういう人の精神はすでに破たんしています。精神異常者の人でもそこまではやりません)普段からの態度も大きく人と違っているはずであるということです。

では、私はそんなに大きく人とやることが違っているのでしょうか?そんな精神破たん者が毎日ブログが書けるのでしょうか?何でそんな精神破たん者に鳥や魚が寄ってくるのでしょうか?

このようなことを考えましても、私があのサイレンの犯人であるということは考えられないことなのであり、あのサイレンを、たった一人の者のせいにしている人の方がよほどおかしいのであり、そのような人たちは、技術的にも精神的にもありえない人を勝手につくりだして、犯人に仕立て上げているだけで、実際そのような人は存在しないということです。(毎日毎日、人を次々に病気に出来る人など存在しないし、また、そんなことをし続けられるだけの異常な心を持っている人も存在しないということです)

つまり、名古屋の多くの人は、現実には存在しえない架空の人物を勝手につくりだして、それを私に当てはめ、犯人に仕立て上げて嫌がらせをし続けているのです。

私が、そのような噂は、どう考えてもまともではないといった意味がお分かりいただけるではないでしょうか。

簡単にいうなら、名古屋の人は最近起きてきた悪いことを全部一人の者のせいにして、その者を犯人に仕立て上げ、嫌がらせをし続けているということなのですから、これ以上愚かな話もないわけです。(漫画でも、これだけ悪をし続けられる鉄仮面のような心の持ち主などそうは存在しません。漫画でも存在しないような人をつくりだして、勝手に怒っているのです。普通ならそんなことを信じている人の方が笑われます。だから愚かだといっているのです)

今起きていることは、法が出現したことと、時代が変わることによって起こりだしたことであり、このような現象はまだまだこれからも起きてくることなのです。(皆さんの心が変わらなければです)

善因善果、悪因悪果、この法則に間違いはありません。自分たちに悪いことが起きるのは自分たちに責任があるからです。人のせいではありません。

いつまでも責任転嫁をしていても悪いことは止まらないのです。

次々に不幸が起きている会社もあるようですが、その会社の人たちは今のままではその不幸は止まらないのです。(現に止まりません。そのような現象が急に止まるなど、もう考えられないのではないでしょうか?ということは、そのままではまた今週も起きるということです)

自分たちの心と行いを反省しない限り、その不幸は止まりません。それでもやり続けるのですか?

この法が出現したのなら、その法に逆らってはいけないのです。従わなければいけないのです。それがよく分かる現象が、私に起きている現象であり、私の周りに起きている現象であるのです。

先ほども説明しましたように、今起きている不幸は私のせいではありません。自分たちのこれまでの不信心が現れているのであり、法に逆らい続けているから、そのような不幸が止まらないのです。

不幸の原因を私はここに書いているのですから、その原因を素直に認めて反省すれば、その不幸はなくなるのですからそうすればいいのです。

それに逆らい続けているからよいことが起きないのであり、素直に従うのであれば、私と同じような奇跡が起きてくるのです。

私はいい加減なことは書けません。そんないい加減なことを書けば一変に奇跡が起きなくなるからです。釈尊やキリストと同じことをいい続けているから、同じ奇跡が起き続けているのです。

これ以上、このブログが正しいという証拠もないのではないでしょうか。

このブログをただ見ているだけとか、読んでも気に食わないことが書いてあると怒っているような人たちに、一体何が起きているのでしょう?

少なくとも、私のような釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている人など、一人もいないのではないでしょうか。

そういう奇跡が起きないのであれば(何も自分が正しいという証拠などないのですから)自分たちのやっていることのどこかに間違いがあるのでしょう。では、その間違いを正せば、私と同じような奇跡が起きてくる、即ち間違いがなくなるということになります。(その間違いの部分は、このブログに書いてあることと違うことを思っている部分であるということです。分かりやすい話です)

間違いがなくなるのであれば、そのような心を持ち続けるのであれば、その人は間違いのない人生を送れるのであるし、間違いのない人生を送れるのであれば(幸せは人生を送れるのはもちろんですが)死後の世界も間違いのないところに行けるということになります。(もちろん天上界です)

このブログで皆さんは多くのことを知ったはずです。

では、少々の協力を惜しんではならないでしょう。それに今このブログを書かなくなれば、正しさの基準が分からなくなるのです。

そうなってはよいことも起きないでしょう。(現に、このブログを書かなかった二週間は異様な暑さになる、地震は起きる、火山の噴火は起きるとろくなことありませんでした)

そのようなことにならないためにも、ソロソロ自分たちの間違いに気がつき反省すべきなのです。

私が、悪魔のような人間ではないという誤解も解けたことですし(先ほどそれは嫌というほど説明しました。そんな人間存在しません)心を入れ替えられてはどうでしょう。

そうしない限り(このブログに書いてあることに従わない限り)本当の幸せはやってこないからです。

2 コメント

6月 13 2015

動物たちの心

それにしても意識してやっているんでしょうか?

毎回やることが違うからです。何が違うのか?魚たちのパフォーマンスがです。(あれはもうパフォーマンスの域に達しています。〔笑〕)

昨日堀川に行くと、いつも歩く堀川のすぐ脇の道が水であふれていました。そこは潮が満ちてくると水に浸かって歩けなくなるのですが、昨日はそんな感じでした。

しかし堀川を見ていると、どうも潮が引ている感じだったので「もうしばらくしたら歩けるな」とも思って、その道に降りて行く通路の途中で川をしばらく見ていました。(堀川のすぐ脇の道の方が魚がよく見えますから、その道を歩きたかったからです)

そうしたら、また小さな魚が私の前に集まってきたのです。

「何だ、お前ら来たのか」とか話しかけながら見ていると、その集団は十数匹くらいでしたが、そのうちにあちらにも十数匹、こちらにも十数匹と小魚の集団が寄ってきて、あちこちでピチピチ、パチャパチャ始まりました。

私のすぐ前に来てパチャパチャやっている集団もあります。

しかし、この道はもう水が引きかけているのです。

「オイオイ、お前らそんなにこっちに来て大丈夫か?戻れなくなるから早く向こうの川の方に行け」と私が心配しているのに、川の方に行くどころか、この小魚たち私が近くに寄って行っても逃げようともしません。

「危ない連中だな」とかいいながら、私もその場面を動画に撮っていました。

動画を観てもらえれば分かりますが、その場面を撮り始めた時には、その道には水があふれていましたが十数分後、その動画を撮り終える頃には、その道に水はなくなっています。(鳥が、さっきまで小魚が泳いでいた道をトコトコ歩いている場面で、その動画は終わりますので違いがよく分かると思います)

本当に潮が引きかけている道に、小魚がたくさん集まってきたのがよく分かると思いますが、その後のことです。

私が、とろこどころ水が残る潮が引いたいつも歩く堀川の脇の道に下りて、逃げ遅れた小魚はいないだろうなと、キョロキョロその辺りを見ていましたが、どうやら逃げ遅れた魚はいないようでした。(よくあんな潮が引くギリギリまでこちら側にいて〔最後は小魚の背びれが水から出ていたくらいですから〕一匹も逃げ遅れなかったなとちょっと感心しましたが)

そこからを堀川を見ると、またすぐ近くに小魚がたくさん水面まで出てきていて、それがずっと続いています。

「また、たくさん出てきたな」と思い、出てきているのを無視するわけにもいかないので「お前ら元気か」と声をかけながら、その堀川の脇の道を歩いていました。

そうしたらです。その小魚がたくさんいるなかの数十匹の集団が急に飛び跳ねだしたのです。

その辺りにいた小魚が一変に跳ね出すのですから、それはそれで迫力がありました。(小魚数十匹が一斉に凄い勢いで跳ね出したものですからね。驚きました)

あんなの始めて見ましたが「凄いな」と興奮しました。(もちろん動画に撮りました)

何でこうもやることが毎回違うのか、だから私は最初に、この魚たちのやることはもうパフォーマンスの域に達していると書いたのです。(笑)

見ていると毎回違うことをやるからです。意識してそういうことをしているのか、それとも意識せずにそんなことをしているのか、それは分かりませんが、とにかく私は外に出て行くだけで、もうそこは自然の動物園であり水族館であるのです。(ある場所のすずめたちも同じようなことをしているからです。毎回やることが違うというすずめたちがいるからです)

人が仕込んだわけでもないのに、勝手にパフォーマンスをする動物たち、本来、人と動物たちとの関係はそのようなものなのかもしれません。

ほっておいても動物たちは人を癒してくれる(現に、犬や猫などそのような存在であるのですから)そのような存在なのかもしれませんが、そのような動物たちの心を人が分かってやれないのです。

だから、動物たちは人を喜ばそうと思っても、それが素直に出来ない、その前に自分たちが襲われるのではないか、そのような恐怖心が先に来てです。

そのような心を持っている人が多いからです。だから動物は人が来ると逃げていくのです。そのような動物に対する愛のない心を恐れてです。

しかし、本当は動物たちは(どのような動物であろうとです)人の味方であり、決して敵ではないということです。

人の心が愛と調和に満たされれば、どんな小さな動物も、どんなに気の弱い動物もみな喜んで人に寄ってくるのです。(現に私にはそのようなことが起きているのですから、これ以上の証明はありません)

このように私は、外に出て動物たちを見るのが毎回楽しみでもあり癒しでもあります。

毎日、今日は何が起きるのかなと楽しみに一日が始まるのと、同じ、今日は何が起きるのかなと思うことでも、誰かがまた病気をするのではないか、また悪いことが起きるのではないか、と思うことでは、その思いは天と地ほどの差があるのです。

神に従えば楽しみが、神に逆らえば恐怖が、毎日のように起きてくることになります。(その両極端な現象が、私と私の周りには起きています)

神に従われてはどうでしょう。そうすれば、これまでには考えられない奇跡の出来事が次々に起きてくるからです。

(何度もいいますが、そこらにいる動物たちが、このようなパフォーマンスを行うなど誰が知っていたでしょう。誰も知らなかったんではないでしょうか。神の心を勉強していると、これまで起きなかった奇跡的な現象が次々に起き出すのです。まだまだ、そのような奇跡はこれから起きると思いますが、皆様方がしている体験と、私がしている体験ではずいぶん違うのではないでしょうか。このような奇跡の体験まで出来るのが、神の心の勉強するということなのです)

2 コメント

6月 12 2015

愛と調和の大事さ

九州では記録的な雨になっているようですね。

川の水があふれ道路が冠水し土砂崩れも相次いでいるとか、まだ梅雨は始まったばかりです。これでは先が思いやられますね。

日本の異常気象も大変ですが、お隣の韓国ではMERS(マーズ・中東呼吸器症候群)が猛威をふるい大変なことになっているようです。

日本も大変ですが韓国も大変ですね。

このMERSが、日本に入ってきでもしたらもっと大変なことになりますが、去年のデング熱もあります。感染症には気を付けなくてはいけませんが、その感染症でも流行っているのでしょうか?

感染症で、次々に人が病気になるというのなら話も分かりますが、感染症でもない病気が流行っているのなら、それはウイルスでそうなっているのではなく、神の力でそうなっているのです。

反省しない限り、その病気は止まりません。自分たちのこれまでの心と行いを反省し神に詫びられたらどうでしょう。

それ以外、救われる道はないからです。(毎日恐ろしいことが起きているのに〔何か起きると朝早くに教えてくれる人がいるものですから。わざわざでかい音を立ててです〕それでも意地になって同じ態度を続けています。本当に哀れです)

近くで明らかに異常な態度を取っている会社があります。そういうところがあると、このブログもそのような話題にしかなりませんね。(早く明るい話題ばかり書きたいです)

しかし、人が起こそうが、神が起こそうが、基本的には、そこにいる人の心がよければ、そのような不幸なことは起きません。(起きても早くに収束します)

いつまでたっても悪いことが続いているのは、そこにいる人の心が悪いからです。どんな時でも悪いことが起きたら反省を忘れてはいけないのです。(ところが誰も反省しようとしません。だから悪いことが長引くのです)

韓国も、いつまで反日教育など続け、ことあるごとに日本にいちゃもんをつけてくるのでしょう。そういうことをしていては、国内にいいことが起きるわけがありません。

ソロソロ、そのような政策を転換したらどうでしょう。日本と調和するのであれば奇跡も起きてくるからです。(どこと調和してもそれは同じですが)

韓国は現在、国内も大変な状況で、お隣の国(北朝鮮)もかなり危ない状況にあります。

これ以上日本とケンカしていても、よいことは起きてきません。(これ以上日本とケンカしてはもっと悪いことが起きだしますよ)

もう反日教育などの愚策はやめて(愚策ですよね。こんな教育をしていたら日本と調和など出来っこないからです)日本と調和するような政策に変えられたらどうでしょう。

そのような時が来ているように思うからです。(最近の韓国内に次々に起きる不幸な現象は、それを教えているように思えます)

不調和なままなら、そこに神の力が働くことはありませんが、調和するなら、そこに神の力が現れ奇跡も起きてきます。

もし、国を栄えたいと望むのであれば、不調和なままで政策を進めるより調和して進めた方が断然よいのです。その後に起きてくることがまるで違ってくるからです。

何においても、不調和より調和です。

愛と調和がそこにあるなら、必ずうまくいきますし、予想以上のよいことも起きてくるのです。

現在は、どこも愛がなく不調和でしかありません。そのようななかで決めているから悪いことしか起きないのです。また、よいことがあってもそれが長続きしないのです。

愛を持って、調和することの大事さをもう少し真剣に考えられてはどうでしょう。そうすればそこに必ず奇跡が起きるからです。

現在、不幸なことが起き続けているのは、そこに愛も調和もないからです。

愛と調和があるなら、そこに天変地変は起きません。またおかしな病気が流行ることもないのです。

現に、そのようなことを起こせる者がいるのです。(私の周り、そのようなことばかり起きています)そのようなことが起こせるのであれば、それを防ぐこともまた可能なのです。

人の心と行いを愛と調和に変えれば、そのようなことがすべてよい方向に動くのです。(病気が早く治ったり、水不足のところに雨が降ったりとかです)

現在、逆のことばかり起きているのは、そのような愛と調和がない人が多いからです。

愛と調和の大事さをもう少し理解していただけないでしょうか。それがあるのとないのとでは起きてくることが大きく違ってくるからです。

私の周りでは不思議な奇跡が起き続けています。その者のいうことを少しは聞かれたらどうでしょう。

そうすれば、その者と同じ奇跡も起きてくるからです。

0コメント

« Prev - Next »


あなたは人目の訪問者です。