4月 11 2015
4月 11 2015
愛を出す
昨日は名古屋港水族館に行ってきました。
この前の有効期間が違っていた免許証が、出来てきたと連絡をもらったからです。(その警察署、本当に水族館に近いのです。道路を挟んで目の前ですから)
水族館に行くと、相変わらずイルカやアザラシ、シャチやベルーガなど可愛かったんですが、しかし昨日は、そのような大きな生き物ばかりでなく、小さな魚たちもしっかり見てきました。これまであまり見ていなかったからです。(どうしても大きな生き物の方に気がいってしまってです)
よく見ていると小さな魚たちも本当に可愛かったです。気を入れて見ていると、何匹かの魚が必ず面白い動きをするからです。
あれ意識的にやっていると思いますが(それは動画を見て判断してもらうしかありませんが)体の大きい小さいは関係ないですね。みな私のことをよく知っているようです。
一メートルくらいの小さめのサメやエイがいる水槽があるのですが、そこにいるサメは、これまでは全然動こうとしなかったのです。(これまで二回くらいその水槽をのぞいていますが)
しかし、昨日は少し落ち着いてその水槽を見ていて、その全然動こうとしないサメたちに「オイお前ら、動け」とかいっていたら、その動こうとしなかったサメたちが急に泳ぎだして、私がビデオを撮りだしたら、そのビデオに映ろうと必死に泳いでいる感じで、そのような態度がとてもかわいかったです。
あのような無表情で、普段はあまり動こうとしないサメたちも、こんなに豊かな感情があるのだなと少し驚きました。
本当に外見からでは分かりませんが、どのような無表情な生き物でも、また体の大小にかかわらず、みな同じように豊かな心を持っているのです。それは私の動画が証明しています。
これからまた公開していく動画でご確認ください。
しかし、よく考えてみればこの水族館や動物園にいる動物たちって、日本にいる動物ばかりではありません。
世界中から集まっている動物なのですから、その世界中から集まっている動物たちがみな私のことを知っているのです。
ということは、すでに私は世界に知られているということになり(動物たちの世界ではという限定ですが)改めて、この法の偉大さに驚きます。(だって、知らない間に世界中の動物たちに知られているのです。〔海や山にいる動物にかかわらずです〕これは法を理解したからこのようなことが起きたのです。法を理解するだけでこのようなことが起きるのです。驚きませんか?)
このようなことを考えても、この前の八紘一宇ではありませんが、この世界は一つの家であり(すべて天でつながっています)すべての生き物は家族であり、兄弟であるということが分かります。(すべての〔我々人間も含めた〕生き物の心はみな神に通じ、その神を通してつながっているのです)
この世界中の動物たちが私を知っていることの不思議さ、またこの大きな事実を知れば知るだけ、小さなことにこだわっていることがバカらしくなります。
それなのに、ずいぶんくだらない(小さな)ことで怒っている人たちも、たくさんいるようですが(何か、毎日のように恐ろしい現象が現れ大変そうですが)このような動物たちの大きな愛を知って、少しは癒されてほしいものです。(元々そのような恐ろしい現象が現れだしたのは、その小さな心が原因なのですから)
人よりも動物たちの方が愛が大きいなど、人としての沽券にかかわると思うのですが、その動物たちの愛を証明する動画がまた出来てきたようです。
今回の動画は、水族館の動物たちも動物園の動物たちも映っていませんが、自然界の動物たち(すずめやカモメ、他の水鳥や鯉たちなど)も、また愛ある人には愛ある態度を取ります。
それをご確認ください。
どちらにしても、愛を出せば出すだけ、その愛は自分に返ってきます。災いが起きているのは、そのような思いを常に出しているから、その思いが自分たちに返ってくるのです。
もう少し愛を出されてはどうでしょうか?(少なくとも愛を出すのが、動物に負けているようでは人として話になりません。〔苦笑〕)
結局そのような愛を出すことが、自分を救い、ひいては世界をも救っていくことになるからです。
4月 10 2015
世界を救う教え
しかし、最近は凄いですね。何が凄いかってすずめがです。
少し歩いていると急に「ジジジジ」という声があちこちから響いてきます。ちょっと「元気か」と声をかけると飛び回っています。
そういう元気なすずめたちがあちこちにいますので、もう大騒ぎになるところもありますね。
昨日でもそうでした。緑が多いちょっと広い公園など通りかかると、そこにいるすずめたちが必ず騒ぎます。すると、その辺りにいる人が私に気づき一人二人の人が何かしてきます。(咳をしたり「ガタッ」とか音を立てたりです)
そのようなことがきっかけで辻説法が始まるのです。(だから、どこでも辻説法を始められるのです。そこらじゅうで鳥たちが騒ぐからです)
「これだけすずめが寄ってくる人がなんでそんな悪人なんですか?」「よほど愛がないと鳥など寄ってこないと思うんですが、これだけ鳥が寄って来る私が悪人なら、鳥が一羽も寄っていかないあなたたちは大悪人ですね」「こういう鳥が寄ってくるような奇跡は、お釈迦様やイエス様にしか起きていないことですが、何でそんな奇跡が起きている者がそれほど悪人なんでしょう」「私が悪人に思われているその根拠は何ですか?まさか人の噂かなんかじゃないでしょうね。このような現象より、そんな人の噂を信じるのですか?もし、その噂が間違っているなら、皆さんは罪もない者に罪をかぶせ、よってたかって嫌がらせをしているということになりますが、そうであるなら、そのような行為は大変な罪になります。本当に大丈夫なんですか?」「私が悪人ではないということは、この現象が証明しているでしょう。名古屋の人は既存の宗教では救われないということを、みな知っているはずです。こういう釈尊やキリストと同じ現象が起きている者を信じなければ、もう救われる道はありませんよ」などなど、回りで鳥たちが騒いでいる中でするのです。
実際に、鳥が寄ってくるという奇跡が起きている中で、そのような話をするのですから効果は抜群でしょう。そういう話をしていると、ほとんどの人が黙り込んでしまいます。
しかし、やたら怒る人もいます。怒る人は、私の声とすずめたちの鳴き声と両方うるさいので、怒りが倍になるのでしょうが、そういう人たちは鳥に対する優しさも、私がしている説法の理解も出来ないのです。
よほど心が低いといわざるを得ません。
心の低い人は、何をいっても理解しようとしません。そういう人たちは時間がたつのを待つしかありませんが(ほっとくしかありません。心が法を理解出来るくらいまで成長していないからです)私の話が分かる人は早く理解された方がいいでしょう。
この法を理解されるなら自分たちが救われるだけではなく、世界まで救うことが出来るからです。
私が話している、その奇跡が(鳥が寄って来るというです)目の前で起きているのです。このような奇跡が起きているのは、現時点では私しかいません。また、このような奇跡は釈尊やキリストにしか起きていないのです。
では、そのような奇跡が起きている者のいっていることを、信じた方がよいのではないでしょうか?何も起きていない人の言葉など、正しいかどうか何の証明もないからです。
しかし、奇跡が起きている者の言葉は、その奇跡が証明となって正しいと分かるからです。(いっていることが起きているのですから、これ以上の正しさはありません)
私の周りでは、そのような奇跡の現象ばかりでなく、災いの現象まで次々に起きているのです。
しかし、そのような災いは、すべて、私に逆らう人、つまりこの法に逆らう人ばかりに起きているのであり、奇跡だけではなく、このような災いまで起きることが、よりこの法の正しさを証明しているのではないでしょうか。
この法に従う人には奇跡が、法に逆らう人には災いが、はっきりと表れているのです。これ以上の正しさの証明があるのでしょうか。(「災いが起きている人がかわいそう」ではないのです。奇跡が起きる努力をしないといけないのです。それが人としての本当の進む道であるからです)
そのようなことまでも、言葉だけでなく、現象として現してくれる、それが本当の神の教えであり、如来が説かれた正しい法であるのです。
現在は世界中でテロが多発し、多くの人々が犠牲になっています。そのようなテロ集団は神の名の下に(イスラム教)多くの人を集め、凶悪な事件を起こし続けていますが、そのようなテロ集団であろうとです。
このような本当の神の教えが存在することを知るのであれば、改心する人がたくさん出てくるのです。
それはなぜか?
そのような多くの人が犠牲になっている、肉体に起きる災いも、その現象を正しい教えが説かれている場所では、人が行うのではなく神が行うからです。
肉体的に見て、同じようなことが起きていても、人が起こすことは間違いがありますが、神が起こすことに間違いはありません。そうであるなら、神が起こす災いは、そのような災いを起こされた方が悪いと、すぐに理解できるのです。
では、その法に従うしかないのではないでしょうか。その法を通し、神が我々に正しいことを教えてくれているからです。
正しいことをすれば奇跡が、間違ったことをすれば災いが、しっかり現れるのが本当の神の教えであり、また、そのような神の業がはっきり現れることが、この教えの偉大さを証明しているのです。
「神が我々に直接教えをいただける教え」
これほどの教えが存在すると知るならば、いくら凶悪なテロ集団であろうと、神の名の下に集まっている集団であるならば、改心せざるを得ないのです。
これだけはっきり神の業が現れる教えなど、どこを探してもないからです。また、これだけ神から直接教えを受けられる教えなどないからです。(ということは間違いがないということです。これ以上の正しい教えもないということです)
このテロ集団に関わる多くの信仰者が、神の業と人の業を勘違いしているのです。災い(天罰)とは(神の名を借りた)人が起こすものであると思っているからです。
しかし、天罰とは神が起こすものであり、神(天)が人の心を観て、その人の心に応じて起こされるものであり、決して人が、自分たちの感情だけで(人への恨みにせよ、貧困などの問題にせよです)起こすものではないのです。
これまでの日本の人たちは、信仰とは自分たちが好きで行うもので、信仰の仕方はこれまで人がいっていることを(お経を上げたり、線香を上げたりです)そのまましていればそれよいのであり、信仰をしているからとはいえ、そのお蔭があるかないかはっきり分からないが、信仰とはそのようなあやふやなものである、と思ってきました。
しかし、この法が出現したことで、そのような信仰の仕方や思いが、どれだけ甘く間違ったものであったかが分かり始めてきました。(今、名古屋を始めとした日本中で起きている異常現象でです)
その時を同じくして、間違った信仰(凶悪なテロ集団)が世界に大きな影響を及ぼし始めました。
本当の正しい信仰が、日本の人々に分かりかけてくると同時に、このような信仰の名の下に集まった凶悪なテロ集団が、世界に影響を及ぼし始めたということもまた天の配剤でしょう。
この教えを世界に拡げる時が来ているように思います。(そうしないと、あのテロ集団を抑える方法はないからです。現に、あのイスラム国〔とそれに呼応する集団〕をどうしたら壊滅させることが出来るのか、世界中の国々が頭を痛めています。このままあの集団をほっておくならテロが世界に拡散するからです)
本当の神の教えが日本に出現しました。この教えを世界に拡げなければ、いずれ世界中でテロが頻発する、そのような地獄の世界が現れることになります。
それを放置していてよいのですか?
そのような地獄界を世の現すことを防ぐことが出来るのは、この法を世界に拡げることだけなのです。
4月 09 2015
法の合格者
私に対する嫌がらせは、ご存知のように乗り物に乗っている人だけにとどまりません。
前から歩いてくる人のほとんどの人や、回りにある家からも受けるのですから、すさまじいの一言です。現在は大分減りましたが、本当に一時はすさまじかったですね。
だから、辻説法を始めたということもありますが(それだけ、そこらじゅうでされたらそうなるでしょう。弁明しないと道を歩いていてもうるさくて仕方ないからです)一時、私が何かしてくる人を次々に祈っていたのも、そのような理由からでした。
「何でこれくらいのことで祈るのか」とムッとしていた人もありますが、その人はこれくらいのことでも、私は、そのこれくらいのことをそこらじゅうでされるのです。
一人一人がやることが小さなことでも、それをたくさんされたら、される方はたまったものではありません。(それが毎日なのですから)だから、少々何かされただけで、祈ったり、散々辻説法をしたりしていたのです。
少しのことでも、数が多ければされてるこちらはたまらないからです。
しかし、私一人ではその効き目もなかなか出て来なかったんですが、ようやく出始めましたかね。祈りや辻説法の効き目がです。
昨日でも、何人かの人が頭を下げていったような気がしますが、申し訳ありませんが、ここ何年の間、嫌がらせをされたことは数えきれないくらいありますが、頭を下げられたことはありません。
それですぐに対処できませんが(そういう態度に体が反応しないのです)決して無視しているわけではありません。(それに気づかなかったということもありますので)そういう人が増えてくれば(体がちゃんと反応するようになれば)私は頭を下げます。(相手が頭を下げてくれば、こちらも頭を下げるのは当たり前のことですから。また、法を知っている者なら、ちょっと人とすれ違う時でも、少し頭を下げていくくらいの謙虚な心は持っていなくてはいけませんから)
しかし、まだまだ嫌がらせをしてくる人も多いのですが、何としても私の評判は変えないと(誤解は解かないと)いけませんね。そうしないと法が拡がらないからです。
ただ、そういう嫌がらせの嵐の中で、あるおにぎり屋さんに行っておにぎりを注文したら、中に入っていた具がやたら多かったとか、故障だと思って見てもらいに行ったメーカーで(電子辞書を持って行ったのですが)結局故障ではなく電池が切れていただけだったのですが、そのメーカーの担当者の人が確認のために、そこで入れた新しい電池を「このまま持って帰ってくれていいですよ」と入れたまま返してくれたり(私は「えっ、そんな悪いからいいですよ」と何度も断ったんですが「わざわざ、こちらまで来てくれたので」とか、よく分からないことをいわれ、新しい電池をそこでもらって帰って行きました。電子辞書の故障を見てもらいに行って、それが故障でもなんでもなかったのに〔それだけでも冷やかしか、と思われても仕方ないのですが〕新しい電池までくれるなど初めてのことでした)多分、そのようなことをしてくれた人たちは、私と知っていて、そのようなサービスをしてくれたのではないかと思います。
こういう態度は、私に対する布施と同じようなことですので、そういう嫌がらせの嵐の中(ということは間違った行いをしている人が多い中)数少ない正しい行いをしている人たちということで、それは天の評価も高くなります。(特に名古屋の人たちはそうです。これだけ私の評判が悪い中、それでも正しい判断をしているということで、そのような人たちの評価はより高くなるのです)
当然ではありますが、その後の人生は、いろいろ天からの恵みを得ることになるのです。
このように、私に(法を説いている者に)よい行いをした人は、その後の人生でたくさんの天からの恵みを受けることになるのですから、当然ではありますが、私に悪い行いをしている人は(ずいぶんいるようですが)その後の人生の所々で、多くの災いを受けることになるということです。(それも理解していただけると思います。すでに、そのような災いを受けている人はたくさんいるからです)
ただしこれは、その人たちの心が変わらなければ、という条件付きですが。
よいことも悪いこともそうですが、その人の心と行いが変わらなければ、先ほど書いた通りになります。
法を伝えている人に対する態度は、それだけ天に届くことであるからです。
しかし、法を説いている人によいことをした人でも、途中で心が変わってしまえば(その法を説いている人に対する思いを変えてしまえば)天の恵みはなくなります。あくまでその心を持ち続けなくてはいけないのです。
これは、法を説いている人に悪いことをした人も同様で、その心を途中で変えるのであれば(反省するのであれば)その災いが起きることはありません。前非を悔い法を説いている人に布施するのであれば、そのような人も天の恵みは与えられます。
すべてその人の心と行い次第なのです。
もちろん一番いいのは、最初から間違えず、死ぬまで法を説く人に従い、法を依りどころとしていける人が一番いいのですが、これがなかなか難しいのです。
その難しさは、如来の弟子たちを見れば分かるでしょう。
高橋先生の弟子と称する人たちはたくさんいますが(現在においてもです)では、その弟子たちの中で、高橋先生が説かれた法をしっかり理解した人が何人いたでしょう。
何年も何十年も、高橋先生の教えを勉強している人はたくさんいますが、その中でしっかり法を理解された方は園頭先生だけです。(それは次々に起きる奇跡で証明されています。園頭先生は亡くなられる〔倒れられる〕まで、多くの人たちを祈りで癒されました)
つまり、高橋先生の多くの弟子たちの中で、合格者は園頭先生お一人であったということです。
そうしてこれは、園頭先生の弟子たちの中でも同じです。園頭先生の弟子の中で、私のように次々に奇跡が起きている人はいません。つまり、園頭先生の弟子たちの中での合格者は現時点では私一人なのです。
この事実を知ってもらうだけでも、この世の法の合格者の少なさ、難しさがよく分かると思います。
しかしです。このような時代となり(正法の世)その法の合格者(法をしっかり勉強し実践する)にならなければ、もう幸せは来ないのです。この時代に生まれている人は、みな、この法の合格者になるため生まれてきた人ばかりであるからです。(だから、法に逆らっている人は不幸になっているのです。自分がしてきた約束を自分で破っているからです)
これまでの如来の弟子たちは、ほとんどの人が失敗していますが、それでも合格者がゼロではありません。(園頭先生は合格されたのであるし、私も現時点では合格者です)
この法の合格者になりたければ(本当の幸せを得たいのであれば)合格している者に、それを習わなければもちろん合格は出来ないでしょう。
現時点での合格者は私一人です。(だから私に悪いことをしている人は次々に不幸になるのです。唯一の法の合格者に悪いことをしているからです)
いつまでも私に悪いことをしていてよいのでしょうか?
4月 08 2015
私に対する濡れ衣
だいたい、これだけ鳥や魚が寄って来るという奇跡が現れている者が、悪い人間のわけがないでしょう。それだけ動物が寄ってくるということは、それだけ愛があるということなんですからね。(こればかりはまぎれもない事実でしょう)
そんな愛がある者が悪いことばかりしている(人を次々に病気にさせている)と思うこと自体、矛盾した考えのように思えますが、なぜ、名古屋の人はそんな噂を信じるのでしょうか?(あの愛を説いたキリストが、人を次々に癒すのではなく、人を次々に病気にさせているといっているようなものなのです。どう考えてもおかしくないですか?)
少し考えただけでも、その噂のおかしさは(私に鳥や魚などが寄ってくることを知っている人なら)分かりそうなものですが、それが分かる人がほとんどいないというのですから、人の噂の恐ろしさは計り知れないですね。(苦笑)
しかし、よく考えてみてください。そのような私の噂をしている人で、私のことをよく知っている人は一人もいないのです。私のことをよく知らない人が、さも私のことをすべて知っているかのように、あいつ(私)が悪いというのです。
それはどう考えてもおかしいでしょう。そういうのはただの悪口というのではないでしょうか。
名古屋の人たちなら分かるはずです。私はただ歩いているだけなのです。ただ歩いているだけなのに、いきなり走ってきたトラックやバスなどに、でかい音をたてられるのです。(たまたまや偶然ではありません。意識してそのようなことをしている、それはその場面を見ている人なら誰でも分かると思いますが)
そのようなことをしていく、ほとんどの人は(というかほぼ全員でしょうが)私と会ったこともなければ、話したこともないのです。
そういう私のことを全然知らない人が、よってたかって私に嫌がらせをしていくのですから、そういう人たちはずいぶん悪いことをしていると思わないでしょうか?
私のことをよく知っていて、そうしてあいつは悪いことばかりしているとか、あいつに嫌なことをされたとか、そのような理由がある人が私にそういう嫌がらせをしていくというなら、まだ話も分かりますが私のことなど全く知らない人が、人の噂だけ信じて、その人を悪者と思いこんで一方的に嫌がらせをしていくのです。
これはどう考えも、やられる方よりもこういう一方的なやり方をする方が悪いと思いますが、こういうのを悪行とはいわないのでしょうか。
仮に私が、その人たちが思っている通りの悪人だとしても、そのようなやり方は正しいとはいえないでしょう。それなのに、この人たちは、私が本当にそんな悪いことをしているのかどうか、自分でしっかり確かめようともせず(一人もいませんね。私に直接話をしに来た人など)単に人の噂を鵜呑みにして、そのようなことをし続けているのです。
それを考えればです。この人たちのしていることは『悪行』以外の何ものでもないでしょう。
本当にその者が悪いことばかりしているのか、それもはっきり分からないのに(誰一人、私に確かめた人がいないんだから、はっきり分かるわけありません)ただ人の噂を信じてその者を悪人だと思いこみ、その者によってたかっての嫌がらせです。
そういう悪行を、この人たちは何年にもわたって続けているのです。
では、そんな悪行を続けているこの人たちに天罰は下らないのでしょうか?
このような人たちに何も起きなければ逆におかしいでしょう。このような人たちは、天罰を食らっても仕方がないとは思わないでしょうか。これほどの悪行をもう何年も続けているからです。
これを、そんなに悪いことでもないだろうと思う人は、このことを自分に置き換えて考えてみてください。こっちが知らない人から次々に嫌がらせを受けるのです。(それも毎日です)
そんなことをされたら、ほとんどの人が気が滅入り、うつ病になる人も出てくるでしょう。人一人が、うつ病になってもおかしくはないほどの悪行を平気で続けているのです。
この運転手の人たち、ずいぶん悪いことをしていると思わないでしょうか。
その自分たちがした悪いことのせいで、自分たちに悪いことが起きたのに、その自分たちがしている悪いことは一切認めず、悪いことが起きたことだけを全部、私のせいにしたり、あるいは、病気など誰だってします。(だって、この法がない世なのです。誰だって悩みは多いでしょうし、飲みすぎや食べすぎなどの不摂生、それに年とともに体が弱る人もいるでしょう。病気になる理由などいくらでもあります)
その誰だってする(これも自分の責任なのですが)病気などの悪いことを、これまた全部私のせいにしたり、そのような諸々の悪いことをごっちゃにして、そういう悪いことは全部あいつのせいといわれているのが、今の私の噂でしょう。
直接その噂を聞いたことはありませんが、あの私を見た人のギョとする顔とか、凄い嫌な顔、あるいはコンビニなど行って、お釣りをもらう時に、手が震えていたバイトの子もいた、そのような態度を見れば、そのぐらいの噂はいわれている思います。
しかしその噂は、あっちこっちの悪いことを全部私一人のせいにしているものなのであり(私が祈るから、このように不幸な人が次々に出るとかいってです)完全な間違った噂でしかないのであって、人が(私が)人を不幸にさせているわけでは決してないということです。(そんな人を不幸にするような祈りをしたら、一変で自分も不幸になります。そんな祈り出来るわけありません)
その人が不幸になるのは、なるだけの理由が、その人にあるのであって、私の噂は、その自分たちがした悪いことは少しも入っていないということです。(だから、私が一方的な悪者になっているのです。自分たちがした悪いことは一切いわないからです)
もっとよく考えてみてください。そんなに次々に人を病気にさせることが出来る人など、これまでの長い歴史を見ても存在しないのです。
では、私が人を祈って次々に病気にさせているなどという人は、これまでの歴史上でも存在しえない化け物のような人間が、現代に現れたとでもいうのでしょうか?
そんな話は絵空事以外の何ものでもないのであって、私のことを悪くいっている人たちは、自分たちの悪いことは棚に上げ、諸々の悪いことを私一人のせいにしているだけなのです。そのようなまともな常識さえない非常識な人たちなのです。(ありえないことをいうのですから非常識ですよね)
その私の悪口(噂)をいっている人に、鳥や魚が寄ってくるのですか?その人に奇跡が起きているのでしょうか?
その人に、そのような現象が起きているというなら、その人のいうことを信じてもいいのでしょうが(それだけことが起きているなら、それだけその人は愛があり、心もきれいであるということですから)しかし、そういうことが一切起きていないのであれば、そのような人の話を鵜呑みにしない方がいいでしょう。
そのような現象が、まだその人に現れていないのであれば、その人はまだ愛が少なく、それほど心もきれいではないからです。
起きる現象に嘘はありません。しかし、噂は正しい噂もあれば正しくない噂もあるのです。
何度も書きますが、この鳥や魚が寄って来たり、人を癒したりする奇跡は(私も祈って病気がよくなった奇跡を体験しています)釈尊やキリストにも起きているのです。
では、その釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている人を、信じた方がよいのではないでしょうか。
これも何度も書きますが、その起きている奇跡に嘘はないからです。



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