9月 16 2014
脳と心
前回のブログの最後に書きましたが、臨死体験をした人は、その心が全く変わってしまうそうです。
それまでは神など信じず、人に対しても冷たかった人が、神を信じるようになり、死後の世界を信じるようになり、そうして人に対する愛が深まるといいます。(極端な例では、敵兵を平気で殺していた残忍な軍人が、愛の塊のような人になり軍人をやめ牧師になって、愛を説くようになった人までいるそうです)
なぜそういうことが起きるのでしょう。単に脳の中だけで起きている出来事であるなら、そこまで極端に人格が変わるというのも不自然です。
臨死体験とは、脳の中だけではなく、別の何かの力が働いていると思われないでしょうか。
悲しくなったり、あるいは人を好きになったりした時、胸が苦しくなるという経験をされた人は多いと思います。
人が脳でしか反応しないのなら、悲しい時に胸が詰まって、そうして涙が出てくるというのはおかしな話ですし、人を好きになって、その人を思うと胸がいっぱいになる、という経験もおかしな話ということになります。
なぜなら肉体的には人の胸の辺りには、骨と肺しかないからです。そんな感情に反応するようなものは、人の胸の辺りには何もないからです。
では、何でそんなことが起きるのでしょうか?
逆に、人の感情が脳でしか反応しないのなら、悲しい時や人を好きになった時には、頭が重くなったり、いっぱいになったりしなければいけないはずですが、そうはなりません。
何でそうならないのでしょう?
これこそ、人が脳だけで反応しているわけではないという証拠ですし、脳以外の部分でそういう反応があるということは、その胸の辺りに感情が動かされる何かがあるという証拠なのです。
では、胸の辺りに一体何があるのでしょうか?
その胸にこそ、人の感情をコントロールしている心があるのです。目には見えませんが、人の胸の辺りにその人の心が存在しているのであり、だから、悲しくなったり人を好きになったりすると、胸がいっぱいになるよう感じるのです。
しかし、実際は胸がいっぱいになっているのではなく(何か食べたわけではないのですから)その胸の位置に存在する心がいっぱいになっているのです。
心が苦しくなるから、胸が苦しくなるのであり、もし胸の位置に何も存在していなければ、そのように感じるわけないのであって、だから、心は脳にあるわけではない、といっているのであり、心と脳は別であるといっているのです。
昔の人はよく、腹で考えろ、ということをいいました。これは、よい考えは腹から浮かんでくるということを知っていたからで、昔の人は頭(脳)で考えるだけでなく、腹で考えるということよくしていたのです。
現在は、頭で考えるのが当たり前のようになっていますが、実は頭で考えるより、腹で考えた方がよほど良い考えが浮かんでくるのです。
なぜそうなのか?ということは、先ほどの書いたことでお分かりいただけると思います。胸に心があるのですから、その心で考えた方がよいことが浮かんでくるということを、昔の人は経験上知っていたものと思われます。(ですから、胸より下の位置に意識を持っていくと、その上にある心からよい考えが浮かんでくるのです。心は天に通じています。その天より啓示をいただけるわけです)
天啓というと、何か頭でひらめいたように思いますが、そうではなく心から上がってきた思いが頭でピンときて、そうして頭でひらめいたように感じるだけで、実際は心で(胸で)天啓を受けているのです。
このように人の体の感じ方でも分かるとおり、心は胸にあるのであり、その心が天に通じているので(その天からの教えにより)よい考えが浮かぶのです。
その天から人は、常に愛ある行いをしなさいということを指導され、それが心に流れていますので、だから人に悪いことをしてはいけないとか、嫌なことをされている人を見るとかわいそうとか、そのような思いが起きてくるわけです。
そのような思いは、単に脳で考えてそういう感情が出てきているわけではありません。
すべて天上の世界の思いなのです。
脳はあくまで、車でいえばハンドルとか、アクセルとか、ブレーキとかの部品にしかすぎず、その車を運転している人間ではないからです。その車を運転している人間とは心のことなのです。(ハンドルやアクセル、ブレーキなどが壊れれば、その車はまともに動かなくなります。人の肉体がけがや病気などで壊れてしまっては、その肉体はまともに動かなくなりますが、その心〔運転者である人間〕は無事なのです。外見〔肉体〕が壊れているにすぎないのです)
その心で天の教えを正しく受けとることが出来れば出来るほど、よい考えも浮かんできて、そうして奇跡も起きてくるということです。(そういう心の人は天上界の光の天使の協力がより得られます。それが奇跡となって現れるのです)
天才といわれる人は、そのような人をいうのであり(天の教えをより受けられる人)釈尊やキリストはその最たる人というわけです。(しかし、神童も十年たったらただの人、といわれる言葉もあります。そのようなきれいで謙虚な心であっても、年を経るうちにそのきれいな心が曇ってきて傲慢になると、この天の教えが段々聞こえなくなってきます。そうなるともうただの人になってしまうのであり、釈尊やキリストは悟られてから最後まで謙虚できれいな心であったわけです。心が変わってしまっては、どれだけ天才であっても、ただの人に変わってしまいます。天の教えが分からなくなるからです)
このように、脳がすべてをつくりだしているのではなく、天に通じている人の心からすべてが生まれているのです。(天からの指示)
天からの指示であるから(現在の科学の発展など見ても分かりますが)これだけ大きな広がりを見せるのであり、これが脳で考えただけのものであるなら、これだけ大きく人の知識が広がることもないのです。
脳は、それほど広く深くを考えられるようにはできていないからです。脳は単にそのような心からの指示を伝える媒体にすぎないからです。(それが証拠に、脳の大きさだけで人の頭のいい悪いが決まるわけではありません。脳でそのようなものをすべて考えているというのなら、脳が大きい人ほど頭がいいということにならなければいけませんが、一概にそうとはいえません。脳が大きくても頭が悪い人はいくらでもいるからです。これは脳でものを考えているわけではないという証拠です)
その天からの指示を、しっかり受けることが出来れば出来るほど、その人にはいい考えが浮かび周りに奇跡も起きてくるのであって、その天からの指示をしっかり受けることが出来なければ出来ないほど、よい考えが浮かんでこず(同じことばかり繰り返しているということです。今日も前の会社の連中など同じことをやっています。本当にこりません)災いも起きてくるということです。
すべて自分に起きることは、自分の心を元として起きているのであり、よいことが起きるようにしたいのであれば、その心を直さなければいけないのです。
そのよいことが起きる方法が、釈尊やキリストがいわれたことであり(正法、福音)それを実践するなら、人は皆よいことが起きるのです。
それはなにも釈尊やキリストのような聖者ばかりではありません。臨死体験をした人も同じことをいわれるのです。(臨死体験者は、天上の世界にこの世の意識を持ったまま行き、その天上の意識をそのまま実感されるからです。それが心に残って、それで釈尊やキリストと同じようなことをいわれるようになるのです。釈尊やキリストの言葉が、そのまま天上の世界の思いだからです)
その釈尊やキリストは、反省しなさい、悔い改めなさい、ということを常にいわれ、そうして愛と慈悲のある人間になりなさいといわれました。
少し前に盲導犬が誰かに刺されるという事件がありました。そうして盲目の少女が蹴られるという事件もありました。このような事件が起きること自体愛がない人が多い証拠でしょう。
このような愛のない事件が多ければ、この世は災いしか起こりません。(実際災いばかり起きています)先ほどの話の通り、天の思いが伝わっていない(それは愛がないということです)人が、多ければ多いほどこの世は災いしか起きないからです。
災いが起きない世にするには、天の思い(愛の心)を実践できる人が増えないと、その災いは止まらないのです。
いつそのような世の中が来るのでしょうか。
それは一人一人の自覚次第でしょう。(だから多くの人が臨死体験をすれば、愛ある世の中がすぐに来るということになりますが、そう簡単にはいきませんね。〔笑〕)



人目の訪問者です。
