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9月 16 2014

脳と心

前回のブログの最後に書きましたが、臨死体験をした人は、その心が全く変わってしまうそうです。

それまでは神など信じず、人に対しても冷たかった人が、神を信じるようになり、死後の世界を信じるようになり、そうして人に対する愛が深まるといいます。(極端な例では、敵兵を平気で殺していた残忍な軍人が、愛の塊のような人になり軍人をやめ牧師になって、愛を説くようになった人までいるそうです)

なぜそういうことが起きるのでしょう。単に脳の中だけで起きている出来事であるなら、そこまで極端に人格が変わるというのも不自然です。

臨死体験とは、脳の中だけではなく、別の何かの力が働いていると思われないでしょうか。

悲しくなったり、あるいは人を好きになったりした時、胸が苦しくなるという経験をされた人は多いと思います。

人が脳でしか反応しないのなら、悲しい時に胸が詰まって、そうして涙が出てくるというのはおかしな話ですし、人を好きになって、その人を思うと胸がいっぱいになる、という経験もおかしな話ということになります。

なぜなら肉体的には人の胸の辺りには、骨と肺しかないからです。そんな感情に反応するようなものは、人の胸の辺りには何もないからです。

では、何でそんなことが起きるのでしょうか?

逆に、人の感情が脳でしか反応しないのなら、悲しい時や人を好きになった時には、頭が重くなったり、いっぱいになったりしなければいけないはずですが、そうはなりません。

何でそうならないのでしょう?

これこそ、人が脳だけで反応しているわけではないという証拠ですし、脳以外の部分でそういう反応があるということは、その胸の辺りに感情が動かされる何かがあるという証拠なのです。

では、胸の辺りに一体何があるのでしょうか?

その胸にこそ、人の感情をコントロールしている心があるのです。目には見えませんが、人の胸の辺りにその人の心が存在しているのであり、だから、悲しくなったり人を好きになったりすると、胸がいっぱいになるよう感じるのです。

しかし、実際は胸がいっぱいになっているのではなく(何か食べたわけではないのですから)その胸の位置に存在する心がいっぱいになっているのです。

心が苦しくなるから、胸が苦しくなるのであり、もし胸の位置に何も存在していなければ、そのように感じるわけないのであって、だから、心は脳にあるわけではない、といっているのであり、心と脳は別であるといっているのです。

昔の人はよく、腹で考えろ、ということをいいました。これは、よい考えは腹から浮かんでくるということを知っていたからで、昔の人は頭(脳)で考えるだけでなく、腹で考えるということよくしていたのです。

現在は、頭で考えるのが当たり前のようになっていますが、実は頭で考えるより、腹で考えた方がよほど良い考えが浮かんでくるのです。

なぜそうなのか?ということは、先ほどの書いたことでお分かりいただけると思います。胸に心があるのですから、その心で考えた方がよいことが浮かんでくるということを、昔の人は経験上知っていたものと思われます。(ですから、胸より下の位置に意識を持っていくと、その上にある心からよい考えが浮かんでくるのです。心は天に通じています。その天より啓示をいただけるわけです)

天啓というと、何か頭でひらめいたように思いますが、そうではなく心から上がってきた思いが頭でピンときて、そうして頭でひらめいたように感じるだけで、実際は心で(胸で)天啓を受けているのです。

このように人の体の感じ方でも分かるとおり、心は胸にあるのであり、その心が天に通じているので(その天からの教えにより)よい考えが浮かぶのです。

その天から人は、常に愛ある行いをしなさいということを指導され、それが心に流れていますので、だから人に悪いことをしてはいけないとか、嫌なことをされている人を見るとかわいそうとか、そのような思いが起きてくるわけです。

そのような思いは、単に脳で考えてそういう感情が出てきているわけではありません。

すべて天上の世界の思いなのです。

脳はあくまで、車でいえばハンドルとか、アクセルとか、ブレーキとかの部品にしかすぎず、その車を運転している人間ではないからです。その車を運転している人間とは心のことなのです。(ハンドルやアクセル、ブレーキなどが壊れれば、その車はまともに動かなくなります。人の肉体がけがや病気などで壊れてしまっては、その肉体はまともに動かなくなりますが、その心〔運転者である人間〕は無事なのです。外見〔肉体〕が壊れているにすぎないのです)

その心で天の教えを正しく受けとることが出来れば出来るほど、よい考えも浮かんできて、そうして奇跡も起きてくるということです。(そういう心の人は天上界の光の天使の協力がより得られます。それが奇跡となって現れるのです)

天才といわれる人は、そのような人をいうのであり(天の教えをより受けられる人)釈尊やキリストはその最たる人というわけです。(しかし、神童も十年たったらただの人、といわれる言葉もあります。そのようなきれいで謙虚な心であっても、年を経るうちにそのきれいな心が曇ってきて傲慢になると、この天の教えが段々聞こえなくなってきます。そうなるともうただの人になってしまうのであり、釈尊やキリストは悟られてから最後まで謙虚できれいな心であったわけです。心が変わってしまっては、どれだけ天才であっても、ただの人に変わってしまいます。天の教えが分からなくなるからです)

このように、脳がすべてをつくりだしているのではなく、天に通じている人の心からすべてが生まれているのです。(天からの指示)

天からの指示であるから(現在の科学の発展など見ても分かりますが)これだけ大きな広がりを見せるのであり、これが脳で考えただけのものであるなら、これだけ大きく人の知識が広がることもないのです。

脳は、それほど広く深くを考えられるようにはできていないからです。脳は単にそのような心からの指示を伝える媒体にすぎないからです。(それが証拠に、脳の大きさだけで人の頭のいい悪いが決まるわけではありません。脳でそのようなものをすべて考えているというのなら、脳が大きい人ほど頭がいいということにならなければいけませんが、一概にそうとはいえません。脳が大きくても頭が悪い人はいくらでもいるからです。これは脳でものを考えているわけではないという証拠です)

その天からの指示を、しっかり受けることが出来れば出来るほど、その人にはいい考えが浮かび周りに奇跡も起きてくるのであって、その天からの指示をしっかり受けることが出来なければ出来ないほど、よい考えが浮かんでこず(同じことばかり繰り返しているということです。今日も前の会社の連中など同じことをやっています。本当にこりません)災いも起きてくるということです。

すべて自分に起きることは、自分の心を元として起きているのであり、よいことが起きるようにしたいのであれば、その心を直さなければいけないのです。

そのよいことが起きる方法が、釈尊やキリストがいわれたことであり(正法、福音)それを実践するなら、人は皆よいことが起きるのです。

それはなにも釈尊やキリストのような聖者ばかりではありません。臨死体験をした人も同じことをいわれるのです。(臨死体験者は、天上の世界にこの世の意識を持ったまま行き、その天上の意識をそのまま実感されるからです。それが心に残って、それで釈尊やキリストと同じようなことをいわれるようになるのです。釈尊やキリストの言葉が、そのまま天上の世界の思いだからです)

その釈尊やキリストは、反省しなさい、悔い改めなさい、ということを常にいわれ、そうして愛と慈悲のある人間になりなさいといわれました。

少し前に盲導犬が誰かに刺されるという事件がありました。そうして盲目の少女が蹴られるという事件もありました。このような事件が起きること自体愛がない人が多い証拠でしょう。

このような愛のない事件が多ければ、この世は災いしか起こりません。(実際災いばかり起きています)先ほどの話の通り、天の思いが伝わっていない(それは愛がないということです)人が、多ければ多いほどこの世は災いしか起きないからです。

災いが起きない世にするには、天の思い(愛の心)を実践できる人が増えないと、その災いは止まらないのです。

いつそのような世の中が来るのでしょうか。

それは一人一人の自覚次第でしょう。(だから多くの人が臨死体験をすれば、愛ある世の中がすぐに来るということになりますが、そう簡単にはいきませんね。〔笑〕)

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9月 15 2014

昨日のNHKスペシャルを観て

昨夜のNHKスペシャルで臨死体験をやっていました。

何ですか、あの人の苦労を無にするような番組は。呆れますね。

私のいっていることに、真っ向から反対しているような番組でした。臨死体験はすべて脳で解明できるといっていたからです。

もちろん反論を書かないといけないでしょう。そうしないと、せっかく唯心有神論になった人たちが、また唯物無神論に逆戻りしてもいけないからです。

昨夜の番組を少し説明しますと、臨死体験者は同じような体験を話されるのですが、それは昨夜の番組でもいっていたようです。

自分のもう一つの体が肉体から抜け出し(幽体離脱)天井の辺りから寝ている自分を観ていたとか、暗いドームを飛んで行ってお花畑のようなところに出たとか、その天国のようなところで、神のような方に出会い話をしてきたとか、亡くなった人に再会したとか、そのような話をされますが、それは全部脳の働きで説明できるというのです。

臨死体験は、その人が意識がなくなって、脳の活動が停止しているにも関わらず、そのような体験をするのですから、普通なら脳は反応していないのだから、脳だけでは説明がつかないと思うんですが、昨日のNHKのテレビによると脳が活動を停止しても、実際の脳は活動していないように見えて、実は活動が分からないくらいの小さな反応があって、小さな活動をし続けているというのです。(そんな小さな反応で、よくいろいろなことが分かるものと不思議ですが)

そうして脳のある部分を刺激すると、体外離脱(幽体離脱)のような感覚を覚えるというのです。そうして幽体離脱のような体験も脳の働きの錯覚のようなものだというのです。

幽体離脱をした人は、意識のない時のことを正確におぼえているというのに、それさえも脳に刺激を与え、いろいろな体験を重ねると、そのような記憶が出てくるらしく、自分たちの文化的な生活の中から、そのような体験を想像できるんだそうです。

そうして人間は死ぬ間際、誤った認識(神があり、あの世があるという)をして、間違った意識のまま死んでいくのではないかといっていました。(昨日出ていたあの立花さんって、昔は臨死体験を認めていたと思ったんですが〔あの人の本も読んだことありますし〕ずいぶん考えが退化しています)

その後、意識が脳内で生まれるという科学が出てきて、意識はすべて数学で表現できるといいつつ、すぐその後で意識は蜘蛛の巣のように複雑である、というのです。

そうして睡眠時の説明もしていました。寝ている時の脳は先ほどの蜘蛛の巣は張られていなくて、起きるとその蜘蛛の巣が張られた状態になり、意識が(脳内で)また生まれるということをいわれるのです。

だから、この数式で行くと意識がないと思われる状態でも、意識があると思われるというのです。

だから脳がなくなる時(死ぬ時)意識も消えるというわけです。(だから人間は死ねば無になるといいたいのでしょう)

そうして死ぬ間際の神秘体験も、脳の辺縁系(へんえんけい・科学者しか分からない部分ですね)が作用して白昼夢のような体験もするし幸福感も味わえるというのです。(このような体験は、ただの夢のようなものだということです)

つまり臨死体験は全部脳の作用で起きると結論付けているのです。

しかし、この番組の最後に、そのような科学を少しだけ否定して、そのような科学だけでは説明がつかないといいつつ、それでも最後はすべて脳の作用だといっていました。

結局、臨死体験はすべて脳の作用で行われているというのですが、このような番組は、ただの子供だましとしか私には思えませんでした。

なぜなら、脳の細かい部分だけクローズアップして、それ以外はずいぶん大ざっぱだったからです。(都合のいい部分にだけそれを当てはめ、都合の悪い部分は無視しているからです。いつものことですが)

例えば、最初の幽体離脱をして、病院で寝かされている自分を上から見ていた、という部分でもそうです。

脳学者は、脳のある部分を刺激すると幽体離脱のような感覚を覚え、その上から見ていたという話もいろいろな体験を重ねると、そのような体験を想像できるようになる、といっていますが、想像だけで、その時起きていたことが正確に分かるのでしょうか?

幽体離脱をして、上から自分を観ていたという人は、その時の寝ている自分を手当てしている医者から看護師から、自分の身内の誰がいたかまで正確に言い当てるのです。

それこそ上から見ていないと分からないことまでです。(その時、手当てをしていた看護師の髪の毛に刺していたピンの数まで、正確に言い当てた人までいるくらいですから)

それに意識がなくなって、それから意識が戻り、すぐにそういう話をされる人も臨死体験者の中にはたくさんいるのです。

別に、この世のいろいろな体験などしなくても、その時行われていたことを、そのまますぐ正確にいえる人が臨死体験者の中にはいくらでもいるんですから、その部分だけとっても、昨夜の脳学者の意見では説明がつかなくなります。

それに睡眠時の説明でも、起きている時に脳の中で意識が生まれ、寝ている時はその意識がなくなるということをいいますが、それでは睡眠時の説明にまるでなっていません。

なぜなら人は睡眠をしないと死ぬからです。(よく三日も四日も徹夜したという人がいますが、もし人が本当に三日も四日も寝ていなかったら、エネルギー不足となって疲れで死んでしまいます。そのようなことをいう人も、どこかで少しづつでも寝ているのです。だから死なないのです)

それは、徹夜をすると別に体を使ったわけでもないのに、非常に疲れます。なぜ、寝ないという行為だけであれほどの疲れが体に来るのでしょうか?

寝ているのを、単に体を休めているだけと見るのは間違いなのです。体を休めるのであればジッとしていればすみますが、人は疲れると必ず眠くなるのです。これはどういうことでしょうか?

その睡眠の本当の意味を科学者は説明できないのです。

睡眠時のことがよく分かっていないのですから、そのような肉体の作用だけ見て、意識が脳にあるだのなんだのいえるわけがないのであって、人が睡眠を得るということの本当の意味をしっかりいえないと、そのような肉体の作用もしっかり分からないということになります。(では、脳に意識があるのかないのかもよく分からないということになります。そのようなことがまるで分っていないのですから)

それに神秘体験も白日夢のようなものといいますが、そのような神秘体験や心が天につながっているのではないか、と思える体験を次々にしている私のような者もいます。(鳥や魚が寄ってくるということは、科学で説明がつくことなのでしょうか?)

このような自分の体験を考えますと、意識すなわち心とは、脳内でできているというわけではなく、やはり天とつながっていると思えてなりません。

そうして、神は存在し、あの世も存在し、そうして人の輪廻転生も起きている(これは高橋先生のビデオが証明していますが)と思わざるを得ません。

それだけの不思議な体験を私はしているからです。

このような唯物無神論そのままの、あの世の体験である臨死体験を否定する番組は、もう参考程度にとどめておいた方がいいでしょう。このような肉体のみを対象にして、不思議な体験を無理やりそのような意見に重ねてしまうのは、やはりもう無理があると思うからです。

そのように思える現象が次々に起きているからです。

神はあり、あの世はあり、そうして臨死体験は脳の作用でも錯覚などでもなく、もう一人の自分(霊体・光子体)が肉体から抜け出て、やがて帰るべきあの世のことを実体験しているものである、ということです。

そうして、そのような体験こそ宝であり、いずれすべての人が体験するべき経験であるということです。

臨死体験をただの脳の作用などという、間違った番組などもうたくさんです。

そうではなく、早くそのような臨死体験者がいわれる心に、私たちはならなくてはいけないのです。(臨死体験をした人は皆神を信じるようになり、愛深くなるといいます。そのような心にならなければいけないのです)

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9月 14 2014

愛がある人と愛のない人

結局、もう恰好だけでは通用しない時代となったということです。

人前でいくらいい恰好をしても、それで自分たちに悪いことが起きているようでは、その人は善人ではないということです。

自分が善人か悪人か、それがすぐに分かる時代となったのです。

昨日もこのようなことがありました。

私がある高校の近くを歩いていると、女子高生三人と出くわしたのです。(多分その高校の生徒でしょう)

私の前を、その三人の女子高生たちは歩いていましたが、たまに振り返りながらこちらをチラチラ見ています。

「私のことを知っているな」と思いながら、その女子高生たちの少し後を私は歩いていましたが、急にその三人の中の真ん中の女子高生が、空のペットボトルを取り出して自分の足をバシバシ叩き出したのです。

しかし寄りにも寄って、その真ん中の女子高生は、体重が百キロはあろうかと思われるほどの超巨漢です。その叩く音のでかいことでかいこと。(どんな女子高生やねん。〔笑〕ちょっとオーバーですが、百キロくらいあるのではないかと思えるくらい超おデブな子でした)

「嫌がらせしているな」とピンときた私は歩きながら辻説法を始めました。

「オイオイ、神からあの世から生まれ変わりから、何から何まで教えてもらい、散々心を救ってもらった者に嫌がらせかよ」「そういうことに少しも感謝もしなくて、一方的に嫌がらせなどしていたら、そりゃ罰も当たるわな、天罰も下るわ。そうしたらその天罰までこちらのせいだ。皆さんのお蔭で私は大悪人です」

「そういう大悪人に何で鳥が寄って来るんだ、自分らのような善人に何で鳥が寄って行かないんだ、その理由を教えてくれよ」

「鳥が教えているだろう、自分らが悪人なんだよ。だから天罰を食らうんだ」

「そういう天罰を食らっているんだから、俺にいくら嫌がらせしたところで、サイレンなんか止まるわけないだろ。自分たちに天罰が下っているんだから、自分たちが反省しないとサイレンは止まらないんだ」等々、後ろから説法をしていたんですが、たまに振り向くその女子高生たちの顔は皆怒っています。

「お前のいうことなど聞けるか」という顔で「すべてお前が悪い」という態度で、振り返るたびに私をにらんでいます。

特に、真ん中の超巨漢の女子高生がよく振り返るのですが、その真ん中の女子高生は鬼瓦のような顔をしていて(ムッとしていたからかもしれませんが、私にはそのように見えました)その顔の怖いこと怖いこと、振り返るたびにドキッとします。(おもわず「ホラー映画観てんじゃねえぞ」と思ってしまいました。〔笑〕)

最後まで、その女子高生たちが反省する様子はありませんでしたが、それでも時折、体をビクッとさせていたことは事実です。

態度は無反省な態度でも、心の中にはしっかり「自分たちが悪いのではないか?」という種はまかれたものと思われます。

私は間違ったことをいっていません。間違っているのは、私を目の敵にしている人たちの方なのです。だから私の話を聞けば、必ず自分の間違いに気づいてくれると私は思っています。

昨日でも私は、中川運河を通りましたので運河の脇まで行き「お前ら元気か」と運河に向かって呼びかけると、私が見ている目の前の運河のあちこちで、小魚がピョンピョン跳ねていました。

そうしてその後、堀川にも行きましたが、その堀川でも同じようなことが起きたのです。(堀川では初めてですね。何度呼びかけてもこれまではシーンとしていましたが、昨日初めて、あちこちで魚が泳いでいるようなさざ波が立ち、何匹かの魚影が見えました)

私が川に向かって呼びかけると、魚たちが寄ってくるのです。

こういうことが普通起きるでしょうか?鳥でも同じです。私が呼びかけると嬉しそうに飛び回り近くに寄ってくるのです。こういう奇跡が私は毎日起きているのです。

私に嫌がらせをしている人たちは、このようなことが起きる人がいるのでしょうか?多分起きている人は一人もいないでしょう。

では、そのような人たちと私の違いは何でしょう。何が違うのでしょうか?

それは心に愛があるか、ないかの違いでしょう。

心に愛があれば鳥たちはもちろん、このような魚たちまで寄ってきて私の近くを嬉しそうに泳いでいます。愛ある人の近くにいれば、自分の安全はもちろんですが、その愛で自分たちも癒されるからです。そのことを魚も鳥も知っているのです。

しかし、そのような愛のない人たちには鳥も魚も寄って行きません。愛のない人に寄って行けば自分たちが危険なのはもちろんのこと、癒されることもないからです。そのようなことも鳥や魚は知っているのです。

愛がない人たちに鳥や魚は寄って行きません。しかし、愛ある人には鳥や魚は喜んで寄って行くのです。

愛がないから人に責任を全部かぶせ平然としていられるのです。愛がないから人に平気で嫌がらせができるのです。

その愛がないから、神からも守られず災いが起きるのです。

すべてのことにおいて、自分の心に愛があるかないか(全然愛がないとは申しませんが、愛が多いか少ないか、という意味です)愛で心が満たされていれば、その愛は外にどんどん広がり、自分に関わるすべてのものを癒すのです。(それは鳥や魚だけに限らず植物、鉱物などすべてです)

現在日本に起きている様々な異常現象は、日本の人々が、あまりに愛をなくしてしまったその結果であると思います。

自分さえよければいい、自分たちさえよければいい、そのような小さな愛では、もう日本に起きる災いは止まらないのです。

鳥や魚のような力のない小動物でも喜んで寄ってくる、それくらいの広い愛の心を一人一人が持たないと、もはや救われない時代になりました。(今日このブログを書いている時だけでも、このブログを書いているパソコンの音がうるさいと「ゴホゴホ」「バシバシ」やっている人たちがいます。なんて心が狭く愛のない人たちでしょう。〔私は家の中でパソコンを打っているだけなのに〕このブログを読んで心が救われたことなど、これっぽっちも感謝していないようです。このような人たちに災いが起きるのです。そのような狭く愛のない心ではいけないからです。万物の霊長である人間として非常に遅れているからです)

もう善人のふりだけではボロが出る時代となったのです。

では、心を変えられてはどうでしょう。鳥や魚くらい寄ってこないような心をいつまでも持ち続けていては、あまりに人として恰好が悪いからです。(うわべだけの格好ではなく、人として本当の格好が悪いという意味です)

本当に格好がいい人とは愛ある人をいうのです。そのような人が増えれば、自然と日本は救われていくのです。

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9月 13 2014

つくられた大悪人

相変わらず不安定な天候が続いています。

北海道の局地的大雨は続いていますし、新潟では竜巻が発生したようです。(海上を通ったので被害はなかったそうですが)その後、新潟市内は激しい雨となりました。青森も激しい雨になってヒョウまで降ったそうです。

今日も北日本など不安定な天候が続くようですが、この辺りも不安定(?)なことが続いているようです。

不安定といういい方もどうかと思いますが、前の会社など本当に不安定なものですから、そういう書き方をしても別にはずれではないでしょう。

前の会社、今日は休みのようですが(でも、ドアが開いていますので、一人二人は来ているのかもしれません)もうパニッくってるのはいる、急に怒り出す奴はいると不安定そのものです。

それに、何か電話がかかってくると様子が変なのです。電話のベルが鳴ると急にシーンとなったり、あるいは物を叩き付けて怒り出す奴がいたりと、電話のベルに異常に反応するのです。

多分ですが、あまりよくない電話が多いのではないでしょうか。(例えば、家族が急に何かの病気になったとか、けがをしたとかいう悪い知らせの電話などがです)

特に、ここ数日はおかしさが増しています。もし、恐ろしいことが止まらなくなっているのなら、詫びられてはいかがでしょうか。(もうどうしていいか分からない、といった感じですから)

とにかくこの会社の連中、私に嫌がらせをしすぎています。それでは恐ろしい現象は止まらないでしょう。

このパソコンの音がうるさいとでかい音を立てる、何か少しでも私が音を立てたら、その数倍のでかい音を立てる、私が少しでも動けば(その足音を聞いてです)またでかい音を立てる、救急車のサイレンが聞こえてきてもでかい音を立てる、はては、ヘリの音が聞こえてきてもでかい音を立てているんですから、一体この連中、会社に仕事をしに来ているのか、嫌がらせをしに来ているのかよく分からないほどです。

そういうことを、それこそ朝から晩まで(私が家にいる間中)し続けているんですから、この連中の悪行がどれほどのものか分かろうというものです。

それを五年間も続けているんですから、呆れるばかりです。(もっといいこと続けろよ、といいたくなります〔笑〕)

考えてみてください、私は何一つ前の会社の連中に悪いことはしていないのです。家でパソコンをやるのが悪いことでしょうか?家にいてまったく音を立てずにいられるでしょうか?(前の会社の連中など足音だけでなく、テレビのチャンネルを変えるくらいの音でも、怒ってでかい音をたてていたくらいですから、もうひどいものです)救急車のサイレンやヘリの音が私のせいでしょうか?(私のせいという人も多いんですが)

私は何一つ悪いことをしていないのに、この会社の連中は私に嫌がらせのし通しなのです。これではこういう連中に、何か悪いことが起きない方がおかしいのではないでしょうか。

そういう悪行を散々私にしておいて、それで自分たちに悪いことが起きてきたら、それも私のせいにして怒っているのです。一体この連中どこまで都合がいいのでしょうか。

これでは、恐ろしいことが次々に起きてきても仕方ないのではないでしょうか。それなのに、それでもお前が悪いと、この会社の連中だけではなく周りの人も思っているようなのです。

結局、私には何も起きず、この連中にばかり(またはそれ以外の人にばかり)悪いことが起きるからです。

だから、それはお前が起こしているのだろうと(こういう考え方も、あまりに単純に物事を考えすぎているように思えますが)だからお前が全部悪いということになっているようです。

しかし、では、そう思っているその人たちは何も悪くないのでしょうか?

前の会社の悪行は今書きましたのではぶきますが、お前が全部悪いという人たちは、私のお蔭で唯物無神論から唯心有神論に考えが変わったのです。それだけでずいぶん心が救われたはずですが、それに対し何かお礼でもされたのですか?

お前が全部悪いとこちらの話は少しも聞こうともせず、一方的に私の悪口ばかりいっている人もいるようですが、これは悪いことではないのでしょうか?

それに私を見ればこれまた一方的な嫌がらせです。(私の方から何かしたわけでもないのにです)これも悪いことではないのでしょうか?

いろいろ教えてもらっておきながら、それにはお礼一ついわず、こちらの話を何も聞こうとせず、自分勝手に自分たちに都合のいい解釈をして、散々人の悪口をいい、そうして私を見つければ嫌がらせの数々、これで悪いことをしていないと誰がいえるのでしょう。

前の会社の人たちもそうなら、それ以外の人たちもそうです。私に「いろいろ教えてくれてありがとう」とお礼をいってきた人もいなければ、堂々と話し合いに来た人もいない、そういう筋を一つも通さずに、一方的な解釈で悪口雑言、嫌がらせの数々。

これを悪行といわずして何を悪行というのでしょうか。(そういう大人数の嫌がらせで自殺する人もいるのです。私に嫌がらせした人は十分悪いことをしているのではないですか。私が自殺したら、そのような人たちは人殺しなのですから)

自分たちは何も悪いことをしていない?とんでもありません。十分悪いことをしているのです。だから天罰が下っているのです。

その天罰まで私のせいにしているのです。そんな何でもかんでも私のせいにされたら、私はとんでもない大悪人になってしまいます。その何でもかんでも悪いことを私のせいにされ、多くの人たちに陥れられたのが現在の私なのです。(多くの人が、知っててそれをしたのではなく、知らずにそれをしているのですが)

だから名古屋では私は大悪人です。たくさんの人に嫌われているのです。

異常気象から、疫病から、名古屋でよく聞こえるサイレンまで、全部私のせいになっているからです。(大悪魔ですね、私。大魔王サタンも真っ青です〔笑〕)

しかし、このように考えたら、そのような悪いことはすべて自分たちのせいなのではないでしょうか。

名古屋の多くの人たちは、このような悪行プラス神をないがしろにしているという、大悪行までしているのです。(これは全国の人がですが)

自分勝手に解釈して悪行三昧です。これだけ悪いことをしているのに、天罰が下らないと思いますか?(ここまでやったら、別に正法の世じゃなくても天罰が下ります)

いい加減目を覚ましてくれないでしょうか。自分たちが悪いことをしているから、自分たちに悪いことが起きているのです。(善因善果、悪因悪果)

名古屋の多くの皆さんは、知らず知らずのうちに一人の者を大悪人に仕立て上げ、そうして自分を必要以上の善人に仕立て上げているのです。(自分の悪行を、全部私に擦り付けているんですから当然そうなります)

本当は自分たちも悪いことをたくさんしているのにです。

しかし、どちらにしても、このことに気づくには、謙虚に反省出来る、自分のことを正直に振り返ることが出来る、勇気のある人でないとできないということです。

ソロソロ勇気ある人が出て来ないと、名古屋はもちろんのこと日本が滅んでしまいます。

いつまで自分を、必要以上の善人に仕立て上げて責任転嫁を続けるつもりですか?

少なくとも現実は現実として、もう少ししっかり見られてはいかがでしょうか。

そうすれば正しいことも見えてくるはずだからです。

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9月 12 2014

朝日新聞の謝罪

昨日はまた北海道は雨が凄かったですね。今日も北海道は心配ですが、昨日北海道の方からメールが入りました。

そのメールによると、決して法から心が離れたわけでないとのこと、少々金欠でお金を払うのが遅れていただけだったそうです。

そうであるなら、あまりご無理をせず、払える時に払えるだけ払ってくださればそれで結構です、とメールを返しておきました。

何が心配かといえば、法から心が離れてしまうかどうか、それが一番心配です。

もし、今生法を知りながら、その法から心を離してしまえば、どれだけ法を説く人によいことをしたとしても、その人は今生の修行を失敗したということになり、死後は地獄行きです。(それだけ今生の修行は厳しいのであり、法との縁は何にもまして大事なのです)

そういう人をたくさん見てきましたので(園頭先生の弟子たちです。「園頭先生のお蔭で救われました」といわれていた人たちが、ちょっとしたことですぐに法を捨ててしまいました)心配していましたが、北海道の方はそうではなかったようです。

とりあえずホッとしました。(法を捨ててしまうだけで地獄行きなのです。では、この法に逆らっている人たちはどうなるのでしょう。そういう人たちは想像を絶する恐ろしいことが起こります。それが実際起きていても、それでもまだ法に逆らっているのです。本当に恐ろしい行為をし続けています)

この方が法を捨てていないということは、次のような出来事でも分かります。

この方は札幌に住んでいられるそうですが、あれだけ大雨になった札幌でも(ここ二、三日で四百ミリも降ったそうですね。それに避難勧告もでました)この方が住んでいる辺りは普通くらいの雨しか降らなかったそうです。

こういう経験は私にもあります。あの東海豪雨の時です。

あの時、名古屋の辺りは大雨に見舞われたのですが、私が住んでいた辺りはまったく被害が出ませんでした。

やはり法を知っていると、その人は守られるという証拠でしょう。

しかし、どちらにせよ、あれだけの大量の雨が北海道に降ったことは事実です。

早く法を拡げないと、災いは次々に起きるでしょう。

それはそうと、あの朝日新聞が謝罪しましたね。(晴天の霹靂〔せいてんのへきれき〕ですね〔笑〕)世が世なら考えられなかったことです。本当に時代が変わりました。

あまり反省ができていないという見方もありますが(たしかに謝罪の本質が、従軍慰安婦から東電の吉田元所長にすり替えられていたり、朝日新聞全体の責任というより、記者個人の責任という責任転嫁もされていましたが)これまで社長自ら記者会見に出て、あれだけはっきり自社の記事の間違いを認め、謝罪をしたことなど朝日はなかったのです。

それを朝日新聞は公の場でやったのですから、それはそれで認めるべきでしょう。

この記者会見は世界に伝わります。朝日新聞がまた同じような(裏付けのない)記事を書き、同じ間違いを犯すようなら、今度は日本だけでなく世界から信用を失います。

そういう意味では、天下の朝日新聞の大々的な謝罪は大いに意味があったと思います。(今後のマスコミのいい加減な取材記事の規制にもなりますし)

しかし、朝日はこれまでいい加減な記事(というより、日本を貶めるような記事)が多かったと思います。その業はいずれ現れるだろうと思っていましたが、やはり現れましたね。

実は園頭先生も朝日新聞には苦言を呈していられたのです。

朝日新聞について、次のような話を園頭先生はされたことがあります。

「十年ほど前(現在から考えると三十年くらい前の話です)に朝日新聞が、南京攻撃に参加した都城二十三連隊の兵隊の日記が出てきたと紙面一面に書いた。

これが南京大虐殺の証拠といいたてたが、これに怒ったのが都城二十三連隊の生き残りの兵隊たち。

調査の結果、宮崎の朝日新聞の支局員の記者が兵隊の名をかたり偽造したものと分かる。

朝日新聞は訴えられ敗訴。謝罪するも新聞には小さな記事が載っただけだった」

園頭先生もいわれていますが、朝日は昔からこのような(ねつ造)記事が多かったように思います。

こういう人を(日本を)貶める記事が多ければ、その罪はどこかで償わなければいけなくなります。(こういう記事を書いても、しっかり反省し大きく謝罪文を新聞に書いていれば、その罪は消えます。しかし、これまで朝日新聞はそのようなことをしてきませんでした。当然その罪は残ったままです)

朝日もここで反省出来なければ、いくら天下の朝日新聞とはいえ、その存続さえ危うくなるでしょう。(どちらにしても信用を落としたことは事実だからです。日本だけでなく、世界のです。それくらい朝日新聞の報道の影響は大きかったからです)

朝日新聞が自らの間違いを認め、こののち正しい報道をしていくのであれば、朝日は復活することが出来るでしょうが、また人を貶めるような記事を書くのであれば、これからの朝日新聞の没落は止まらないでしょう。

そのような、よいこと悪いことがすぐに現れる時代となったからです。

しかし、天下の朝日新聞が自社の間違いを認める時代となりました。

もういい加減、個人個人もその誤りを認め、神に頭を下げられたらどうでしょう。神に頭を下げるくらい、今回朝日新聞がした謝罪よりずっと楽なのですから。

それをいつまでもされないと、自分だけでなく日本が危なくなります。何も朝日新聞のようなメディアや政治家だけが、日本に影響を及ぼしているわけではないからです。

私たち一人一人が日本に多大な影響を及ぼしているからです。

個人個人の悟りが日本を救います。早くその自覚を持たれることです。(反省しないと天罰が当たりまくっていますから)

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