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1月 08 2014

新興宗教のおかしさ①

園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<天理教

教祖中山みきを信仰に駆りたてたのは、夫、善兵衛の浪費と遊び、それに次女、三女を次々に失い、長男が病気したのが縁であった。

医療の効果のないのに見切りをつけて、祈禱師、呪術師の家を廻る。その中に山伏の市兵衛がいた。ある時巫女(みこ)がいなかったので、市兵衛は代わりにみきを坐らせた。市兵衛が護摩を焚き、陀羅尼を誦するうちに、みきが突然、神がかりになった。それは天保九年十月二十三日のことである。

            (中  略)

みきに乗り移った神がいった。「中山家の屋敷、みき、こかん(五女)母子を神に差し出せ。そうすればあらゆる人々を救うが、でなければ家屋敷をこなごなにこわしてしまう」

と託宣があった。

そこで集まっていた親族と夫の善兵衛が相談して、

「小児もおり、家事に差し支えもあるので差し上げられません」

と答えると、みきは手にしたご幣を打ち振って、みき自身、血が出るほど畳に頭をすりつけ、狂乱の態になり、三日三晩それが続いた。やむなく善兵衛が「差し上げます」と答えると、ようやく、みきは静かになった。天保九年十月二十六日である。この日が天理教の開教日となっている。

正しい神が啓示される時「いうことを聞かないと殺す」という脅迫をしたり、あるいは半狂乱にさせるようなことをされるであろうか。

その後、しばしば神がかり状態になって、みき自身も自殺を図ったりし、夫善兵衛が亡くなると、屋敷を売って隠居所に移り、布教をはじめた。>

この天理教をつくった中山みきという人は、自分が神がかりとなり、最初は祈祷師として布教を始めたのです。(大阪に出向いて街角で布教を始めたそうですが、この時拍子を叩いて「南無 転輪王」(なむ てんりんおう)と唱えます。これが天理教の“においがけ”〔布教〕のはじまりといわれています)

安産の守護、疫病神のお祓いをする拝み屋として、近隣に信者を広げていきますが、信者が増えるに従い、近辺の僧侶、山伏、祈禱師からの圧迫が強くなり、神道側か仏教側か、どちらかの傘下に入らなければならないということになって、それまでは仏教的な「南無 転輪王」という題目を唱えていたのを、神道式の「悪しきを祓うて、助けたまえ、転輪王のみこと」に改めます。

はじめ転輪王とは、本体が阿弥陀仏で、天から転宝を感得し、世界を統治する大王と説明していたのが、転輪王のみことになり、それが「天理王命」といわれるようになっていき、仏教的にやっていた行事も神道式に変わっていくのです。

このように考えますと、この中山みきという人はやっていることに一貫性がありません。(教えがコロコロ変わってしまっては、正しい教えとはいいません)

それに一番の問題は、この人は悟りを開いて布教を始めたわけではないということです。

神がかりになって始めたのですが、この神がかりという現象を、すぐに神がかかったと思うのは間違いなのです。

それはこの人の行いを見れば分かると思います。正しい神が啓示される時に「いうことを聞かないと家屋敷をこわす」とか半狂乱になるようなことをされるでしょうか?

明らかに、神のされる行いとは異質なように感じますが、そこはどうなんでしょうか?

この人に憑いたのは神ではなく、悪魔だったのです。だから、このようなこと(普通の人から見たら、とてもまともではないようなことです。この人は自殺まで図っているのです。現在の精神異常の人たちとやってること変わりません)をしてもさして不思議ではないですし、いうことをコロコロ変えようと、あまり関係がないのです。正しい教えを説いているわけではないからです。

天理教は、このみきという人の神がかり(実際は悪魔がかり)に見られますように、正しい神の啓示から始められたわけではありませんでした。(二代目の中山正善の才覚により爆発的に天理教は拡がっていきますが)

ですから、天理教の信者は昔もそうであるし、現在も先祖伝来の土地を売って寄付するという人が後を絶たず、無一文になってしまう人がたくさんいるのです。(財産も地位も捨てて、助け一筋の暮らしに入れば、生活が安定するとかなんとか教えてです。しかし、財や地位を捨てることと、宗教的悟りは何も関係ありません。高橋先生や園頭先生は財も何も捨てずに悟られました)

その教えが間違っているからです。正しい真理を説いているわけではないからです。

このように教団が始まった動機、そうして教えている内容、それをしっかり吟味しないと、大教団だというだけで、その教えが正しいかどうかは分かりません。

しかし、不幸な人がたくさん出ている、そんな教団は明らかにおかしいのです。

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1月 07 2014

既成宗教の堕落

何か凄いことになりはじめたようです。サイレンが止まりません。

今日も朝から、少しくらいの間をおいてずっとサイレンがしているようですし、昨日もそんな感じでした。(昨夜など、ずっとしていたような感じもしますし…また火事でもあったんでしょうか?)

これは本当に、恐ろしいことが起こりはじめましたが(今年に入り、また一段とサイレンが増えたようです)どうもこの現象は、名古屋に起きているだけのようです。

というのも、静岡の方からメールをもらい(その方、私のブログを読んで教育研究会未来を辞められたそうです)もしそちらでも、おかしなことが起きているようでしたら教えてください、とメールを送ったのですが、分かりました、くらいの返事しかありませんでした。

ということは、まだ静岡の辺りでは、たいして変わったことが起きていないということです。

では、これほどの現象が出ているのは、名古屋だけということになります。

名古屋の皆さんはやはり祟られているようです。名古屋の人たちは、その心当たりがあると思います。では、その逆のことをやれば、この現象は収まるはずですし、また、これほどの現象が現れているのですから、逆の行為をより以上に行うのであれば、今と逆の現象が現れるはずです。(災いの逆の現象とは、誰でも分かると思いますが奇跡です)

それをするしかないのではないでしょうか?それ以外、この現象を止める手立てはないのです。(どんな高名な宗教家も知識のある人でも、この現象を止められないのです。というか、誰もアドバイス一つしません。〔ということは止め方が分からないということです〕では、私のいうことを聞くしかないのではないでしょうか)

どこかの国ではないのですから、いつまでも突っ張っていても仕方ありません。(起きる現象が激しくなっています。突っ張っていては命にかかわります)もう心を変えるしか救われる道はないのです。(どこの国とはいいませんが、一国の総理が対話を求めているのに、それに突っ張って、いつまでも話をしようとしないのは、その国の度量を疑われます。〔個人と個人のけんかではないんですから〕対話をしようとしなければ何も解決しません。両国の〔両国だけではありませんが〕国益がかかっているのです。まず、対話を始めるべきではないでしょうか)

名古屋に、これほどの現象が現れていますので、どうしてもその話が中心になりますが、昨日のブログの続きを書きましょう。

現在している、お寺参り(仏像にお参りしたり、縁日などでお札売り、ご開帳などなど)や葬式、お墓参りなど、その時の国の政策(徳川幕府が決めた檀家制度などまさにそれです)か寺社の商売として(自分たちの生活のためだけなのですから、商売をしているのと同じでしょう。葬式仏教、観光仏教といわれる所以です)やってるだけなのですから、それをどれだけしても、自分の徳にもならなければ神の業も鎮まりません。(現実にそういうことをしている人たちが、名古屋では次々に病院に運ばれたり、火事を起こしたりしているのです。では仏像に祈っても、お札を家に貼っても、それで守られるわけでも何でもないということになります)

逆に、それは正しい信仰ではないのですから、そんなことをしていてはますます神の業はひどくなります。(現実にそうなっています)

そのような事実が名古屋にまともに現れているのです。(この名古屋に現れている現象で、現在の信仰の間違いを理解しないといけないのです。坊さんなどがよい話をするといっても、よく聞いてみてください。それは道徳的なことをいっているに過ぎないのです。そういう話を聞いても、人格の向上にはなりますが、それで救われることはありません。本当の神や霊のことを知らないのですから、当然そんな話にしかならないのですが、神、霊の話まで聞いて、それを心でしっかり理解してはじめて救われるのです。今の坊さんたちの話だけでは真に救われることはないのです)

現在は、神のこと思わない人が多いばかりか、神のことを思っている人たちでも、正しい信仰をしていないのです。(お寺参りなどして、線香を上げて仏像に祈り、道徳の話を聞いてそれで満足しているのですから)それでは神の業は収まりません。ひどくしかならないでしょう。

これは現在だけの話というわけではありません。こういう既成宗教が堕落したことで、現れてきたのが新興宗教でした。(既成宗教が堕落したといっても、日本の古来からある「古神道」これは別です)

しかし、この新興宗教も大いに問題があったのです。

その問題を具体的に書いてみましょう。

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1月 06 2014

現在ある既成宗教の始まり

園頭先生のご著書の中で「正法と現代宗教」という本があるのですが、この正法と現代宗教は、ただの批判本としかみられていませんでした。(現実にそのような批判をしていた人もいましたし、他の宗教団体をかたっぱしから批判されていますので)

しかし、今のような現象(次々にサイレンが鳴り響く…今日も朝から何度もしています)が起きだして、現代の宗教が神が起こされる業に対し、何もできないということを露呈すると、この本の批判がいかに当たっていたかよく分かります。

この「正法と現代宗教」は、正しい宗教とはどういうものなのか、その基準がよく分かる、大変貴重な本といえるのです。

新興宗教の批判の前に、現代の宗教がなぜ、このような次々現れる神の業に対し、まったく無力になってしまったのか、その理由をこの「正法と現代宗教」より抜粋しておきましょう。

<現在の日本の宗教事情を理解するためには、そんなに遠く溯(さかのぼ)らなくても江戸時代以来の宗教のあり方を少し知る必要がある。中世の鎌倉時代の仏教と比較して江戸時代は、多くの文献にも明らかにされているように教団の低俗化、高邁な教理から外れた民衆との妥協、僧侶の私生活の腐敗ぶりが顕著であった。しかし、この傾向は現在まで続いており、既成仏教の腐敗堕落が、新興宗教の出現を促したといっても過言ではない。

ではなぜ、江戸時代に仏教の腐敗堕落が顕著に現れたのかといえば、仏教の大衆化に起因するものといえる。この時代に仏教が大衆の間に広く浸透するに至ったのは、次の五つの理由が考えられると『庶民信仰の幻想』(毎日新聞社刊)の著者は書いている。

第一に、中世までの仏教は、貴族、武士、一部の町民の有力者だけのものであったが、江戸時代になり、檀家制度がつくられた。このことにより仏教が国教的なものとして、一人一人にまで信仰の対象として浸透していくようになった。

第二に、江戸時代になって寺院が多く建立された。現在われわれが目にする寺院の八割から九割までが、江戸時代に創建されたといってもよい。

第三に庶民の墓が作られてくるのも江戸時代であり、ほとんどの墓が元禄年間(一六八八~一七〇三)すなわち江戸中期以降のものである。(しかし庶民一人一人の墓が作られるのは、明治維新以後である)この墓の建立にともなって葬祭儀礼がさかんになるのも、また江戸中期以降のことである。

第四、庶民の信仰を集める流行神(はやりがみ)の登場もまた江戸時代の特色である。それは熱狂的な信仰の昻(たか)まりとひろがりをみせる。そしてこれらの人出に目をつけた寺社は、お札やお守りを売り、その賑わいに一段と拍車をかけ、霊験の権威づけもした。

第五、病気治し、安産、結婚、離婚、貧しさからの救済、家庭不和の解消など、庶民が生活のなかで抱えている様々な問題を解決してくれる神仏の登場も、江戸時代の特色である。

堕落した既成宗教は、民衆の欲求に応えるものは何ももっていなかった。民衆というのは、いつの時代でも現世利益を求めているものである。しかし、それだけでよいのかということを今一度考える必要があるのである。>

現在のように“現世利益”中心の宗教となったのは江戸中期からのことでした。その始まりは、すべて寺の維持管理のため、自分たち(坊さんたち)の生活のため始められたものであったのです。(つまり金儲けのために始めたということです)

今年も初詣はずいぶん賑わっているようですが、寺や神社などでする、おみくじやお札を買うこと、あるいは病気治しや安全祈願などは、すべて寺社維持のための金稼ぎなのです。宗教的意義があるわけではありません。

だから、そういうところにお参りに行ってもご利益がないですし、なくても別によいということで(ないのが普通だという考えで)多くの人が、ただ習慣化して、そのようなことをやっているに過ぎないのです。(あるいは縁起がいいとか悪いとかそれだけの理由です)

しかし、よく考えてみて下さい。そういうところへお参りに行き、何もよいことが起きないということはおかしいと思いませんか?それでは詐欺ではないか、と思わないでしょうか?(だってそうでしょう、金だけとって何一つその恩恵がないというのは、詐欺に等しいのではないですか?)

宗教的に何の意味もないことを、さも意味があるように見せて、人々の弱みに付け込み(病気治しとか、安産できますとか、よい結婚ができますとかいうのは、人の弱みに付け込んでいると思われないでしょうか?そういわれても、実際に病気が治らない人はごまんといますし、よい結婚ができなかった人も、これもごまんといるはずです)物を買わせているのです。これは詐欺といってもおかしくはないのではないでしょうか。

だから、そういうところへどれだけお参りしても、この名古屋で起きている現象は収まらないのです。元々そんなこと宗教的に意味があることではないからです。(まったくの金儲けそれだけだからです)

いましているような、宗教的に意義があるようなことは(墓参りやお寺参り、魔除けとしてお札をはる、などなど)そのほとんどが江戸中期につくられたもので、宗教的意義がまったくないものがほとんどなのです。(この江戸中期の仏教が拡がって、ただ一つよかった点は、庶民に仏教が拡がったというそれだけです)

その現在やっている宗教の教義などが、宗教的に意味がない、なんの効力もない、ということが、名古屋で、このような恐ろしい現象が次々に現れることにより、白日のもとにさらされることになりました。

このような宗教は皆偽の宗教であり、本物の宗教ではなかったのです。だから恐ろしい現象が収まらないのです。

では、本物の宗教とは何か、ということがこれから問われることになります。

その本物の宗教が、これから明らかになっていくのです。(本当にその宗教を実践すれば、何らかの恩恵が必ずある、それこそ本物の宗教です)

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1月 05 2014

道徳と宗教の違い

相変わらず、不気味なサイレンの音は響いていますが(昨日など、ずっとどこかでサイレンがしていたような気がします。夜遅くまでです)昨日このブログを書いてる時に、サイレンが止まらないと書きましたが、その理由は、この近くで火事があったからでした。(アパートから出火し二部屋が全焼したそうです。亡くなった人も出たそうです)

この辺り、こういう火事が最近は多いのではないでしょうか。よく消防車のサイレンも聞きますから。(病人だけではなく、こんな火事まで増えているとは。本当に名古屋は祟られています)

火事といえば、昨日のJR有楽町駅の近くの建物で起きた火事は、パチンコ店の配線が、ショートしたため起きたとかニュースでいっていましたが、その配線は年末に点検したばかりだったそうです。

奇妙な話ですね、そんな点検したばかりの配線がショートして火事になるなんて。

それでは、どこの配線がショートして火事になっても、おかしくはないという話になり危なくて仕方ありません。

こういう事件を知ると、これからは、本当に心のあり方が問われてくるなと改めて思います。悪い心のままでいると、どんな災いが起きるか知れないのです。

こういうことは偶然ではなく必然に起こされています。それは名古屋の現象を知るのであれば、理解できるのではないでしょうか。もうこのようなことを、運が悪かった、ですませる時代ではないのです。

名古屋など今日も朝からサイレンが響いています。(救急か消防か知りませんが、もう何度も聞こえてきます)心のあり方を正す、もはや待ったなしでしょう。

しかし、その心のあり方を正そうにも、では、どういう心ならいいのか?という、それが分かりません。これまでの宗教では、もうこの異常現象を抑えることができないからです。

ということは、これまでの宗教は間違っていたということになります。ではまず、そのこれまでの宗教の間違いを書いてみましょう。(間違いを知るのであれば、おのずと正しい道は見えてくるはずですから)

その前に道徳と宗教の違いを書いておきます。この道徳と宗教をゴッチャにしている人も多いからです。

園頭先生は次のようにいわれています。(「正法と現代宗教」から抜粋します)

<宗教は、神、超越的絶対者、あるいは信仰の対象とする現実世界から離れた別の次元の神聖なもの、神秘的なものと、自分一人の心のあり方とその行為を問題とするものである。ということは、神、あるいは霊と自分とどういう関係にあり、自分がどのようにあればいいのかという、自分の心のあり方と生き方を明らかにするのが宗教であり、道徳は、この世に生まれてから死ぬまでの、生きている間だけの人と人との関係、すなわち、先祖、親、夫婦、兄弟姉妹、親戚、隣人、職場の上役、同僚、部下と、自分とがどういう関係にあるのが正しいかということを教えるものである。

だから、先祖に対する感謝、親孝行、夫婦の調和などは道徳であって宗教ではない。>

つまり、宗教とは神や霊と自分との関係と、霊の向上、人格の向上と悟りを語り説くものであり、道徳とは、神や霊の存在を説かず、肉体を持って生きている間の人の生き方を説くものなのです。

正しい人としての生き方は、人格の向上にはなりますが、ただそれだけであり、現在の日本ように“別次元の神聖なもの”(神または霊)が起こされているのでないか?と思われる出来事に対しては、それだけでは救われないのです。

つまり、今起きている現象に対し、道徳をいくら実践しても救われないということです。

やはり、神を知り、霊の存在を知り、そうして自分の霊性を高めないと、現在起きている現象から逃れることはできないのです。(道徳以上の、もっと人として深いことを知らないといけないということです)

それには、神の心を知って、それを実践していかないと、救われようがないということです。だから、この法(如来の言葉、それは即ち本当の神の心)を知らないと救われようがないのです。(だから、もちろん法とは宗教ですが、これまでの宗教とは違います。はっきりいえば、これまでの宗教が本当の宗教〔本当の神の教え〕ではなかったということです)

だから、知らないといけませんが、これまでもその如来の言葉を、このブログに書いております。では、その如来の言葉と、現在ある宗教(偽)はどれくらい違うのか、具体的に書いてみましょう。

(今回のブログだけでも、すでに既存の宗教の間違いが分かります。先祖に感謝するということは、宗教ではなく道徳なのです。その道徳を既存の宗教は、さもそれが宗教的に意義があるかのように“先祖供養”としてやらせているのです)

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1月 04 2014

本当の神の教え

昨日は朝から、東京のJR有楽町駅のすぐ近くの建物が火事になり、大変なことになったようです。

JR全線で大幅にダイヤが乱れ、新幹線まで運休が続出、Uターンラッシュ直撃で、その影響は大阪まで及んだとか、新年早々えらい騒ぎです。(デパートまで臨時休業したそうですからね)

しかし、今年はその火事が全国各地で続出しているようです。乾燥しているとか、そういう問題ではなくなっていますね、今年は春からなんて縁起が悪いんでしょう。

名古屋など、縁起が悪いなどというレベルではありません。もう救急車のサイレンがしてるのか、消防車のサイレンがしてるのか分かりません。何のサイレンか分かりませんが、サイレンしっぱなしです。(今日も朝起きたとたん凄いサイレンがしてましたし、何か先ほどからあちこちでサイレンがしています)

ここまでくると祟りですね、祟り。名古屋は祟られています。名古屋の皆さん何か心当たりないのでしょうか?(大ありでしょう、きっと)

名古屋は、お祓いをしてもらった方がいいのではないでしょうか?河村市長、今年は新年早々から、名古屋全体でお祓いをするよう呼びかけていただけないでしょうか?そうしないと、この祟りは収まりそうもありません。(怖)

マァ、そんなことしても無駄でしょうけどね、ずいぶん名古屋は心の悪い人が多いようですから。その心を直さないと、この恐ろしい現象は収まらないのです。

この現象のせいで、私など皆にいじめられっぱなしです。(涙)

バスやトラックはもちろんのこと、人が歩いてくれば何か嫌がらせしていきますし(ほとんどの人が何かしていきますね、にらんでる人もいるし)ハンバーガーを注文すれば、入れなきゃいけないもん、ワザとぬいてるし。(その連中しっかり祈っておきました)

全部私のせいです。自分たちは少しも悪いと思っていないようです。(ここまでくると責任転嫁の権化ですね)

しかし、罰が当たっているのはそういうことをしている人たちなのです。何でその罰が当たっている人たちが何も悪くなくて、私一人が悪いのでしょう。まったく嫌がらせしている人たちの意味が分かりません。(自分たちが悪いことをしているから罰が当たるんでしょう〔そういうこと小さい時に教わらなかったんでしょうか?〕何でそれを私のせいにしてるんでしょうか?)

そのような心の人ばかりだから、このような恐ろしい現象が出続けているのです。

今年に入り、この恐ろしい現象に拍車がかかっているように感じますが、それも仕方がない話でしょう。だって、時が過ぎれば過ぎるほど法の世は深まります。その時代に合わない心の人には出る現象も早まるでしょう。

正法の世にすでになっているんですから、それは時間が経てば経つほど、正法の心に合わない人には現象が早く現れるようになります。(それだけ正法の世が進みますので)それは必然なのです。だから私は、早くこの教えを勉強しないといけない、この教えを拡げることに協力しないといけない、といっているのです。

世に多くの神の教えと称するものはありますが、他の教えをどれだけ勉強しても意味はありません。その教えのどれも本物ではないからです。つまり本当の神の教えではないということです。

それはこのような恐ろしい現象が、現れ続けていることで証明できます。

日本は無神論とはいえ、共産主義ではないのですから、皆何かの信仰はしています。しかし、どれだけ信仰をしていても、この恐ろしい現象は止まらないのです。(その信仰している人たちが、次々に救急車で病院に運ばれているくらいですから)

何でこういうことになるのでしょうか?その信仰をしている人たちは神に守られないのでしょうか?ということですが、その人たちは神に守られないのです。その人たちのしている信仰が間違っているからです。(自分が正しいと信じているだけで、その信仰は実際は間違っているのです)

もし、その人たちが正しい信仰をしているのであれば、正法の世(本当の神の心が現れる世)となったのですから、次々と奇跡が現れなければいけません。今の世と自分の心が合致するわけですから、それこそ祈れば即座にそこに神の力が働いて、奇跡が起きなければいけないのです。

ところが実際は逆の現象が現れています。

それはなぜか?それこそ、その信仰が間違っている証拠なのです。だから逆の現象が現れるのです。

神の心を間違ってしか知らないため、自分の心と今の世(それは即ち正法の世)とがまったく合わず、奇跡が現れるのではなく、逆に、次々に異常現象が現れる結果となっているのです。

それが今名古屋で現れている、恐ろしい現象の原因です。つまり、間違った心で間違った信仰をしているがため、その気づきの現象が次々に現れているということです。

だから、この現象を収めるためには、正しい心にならないといけないし、それには、その正しい心の基準を知らないとなれないのであるし、だから私はこの教えを勉強しないといけない、実践しないといけないと、いい続けているのです。

これほどの現象が現れているのです。(何か先ほどから、サイレンが止まらなくなっているようですが〔ずっと聞こえてきますが〕どうなっているんでしょうか?)もう信じるしかないのではないですか?やるしか他に道はないのではないでしょうか?このブログに書いてあることを。

とはいえ、これまで信じてきた信仰をすぐに忘れろといってもそれも無理でしょう。

ではその既存、新興宗教の教えや現在の習慣で、当たり前のようにやっていることが、いかに神の心に合致していないのか、少し具体的に書いてみましょう。(それこそ教団名を挙げてです。非常時ですからね、現在は)

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