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1月 13 2014

新興宗教のおかしさ⑤

同じく園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<生長の家

谷口雅春は、大本教の第一次弾圧の翌年、大本教を離れたが、アメリカ系の石油会社に勤めている時、古本屋でアメリカの光明思想家の本を読み、これに大いに触発された。そして大本教時代、出口王仁三郎の『霊界物語』を筆録した時に得た、万教帰一の教えとをもって、昭和五年から宗教雑誌『生長の家』を発刊する。

神道、仏教、キリスト教、クリスチャン・サイエンス、精神分析、精神身体医学等をまとめて、すべての宗教も生長の家にくると一つになるのであるといい、谷口雅春は釈迦、キリスト以上の偉大なる師であるといわれている。大本教の項でも書いたように、絶対的な天皇崇拝論者で、やがて日本天皇が世界の盟主となると説く。

生長の家の主宰神は立教当初、神道の住吉大神といっていたのが、仏教の観世音菩薩であるということになり、終戦直後は、住吉大神、観世音菩薩といっていたのは誤りで、宇宙創造神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であるということになり、昭和三十五年頃、生長の家政治連合をつくって政治に進出するようになると、再び、生長の家の主宰神は住吉大神であるということにされた。

このように主宰神がくるくる変わることは、正しい神の啓示によって創唱されたのではなく、谷口雅春の知的判断によって始められたものであることを証明している。さらに、信者には内密に教祖夫妻は伏見稲荷を勧請(かんじょう)していた。

生命の実相には、神に神殿はいらない、金銭の多寡によって救われるのではないと書いていながら、京都宇治に神社をつくり、自分達が祭っていた伏見稲荷も末一稲荷と称して神社に祭り、金銭の多寡によって信者のランクつけをし、会員を増やし本をたくさん売れば幸福がくるといっている。

       (中  略)

教義を全体的にみると、その内容はくるくる変わってきている。生長の家は、神道、仏教、キリスト教の上に位置する教えで、生長の家に来ると、神道も仏教もキリスト教も全部分かるのであるといっているが、それは言葉だけで内容がない。宗教百貨店でしかない。

神から与えられた観法であるといっている「神想観」は、観無量寿経の中の浄土観すなわち日想観、地想観、水想観等にヒントを得て考え出されたもので、神の啓示により与えられたとはいえない。神想観が神の啓示によって与えられた正しい観法であるとしたら、生長の家からは悟った人がたくさん出ていなければならないことになるが、残念ながら悟った人が出たのを聞かない。もし悟った人が出たとしたら、その人は現在の生長の家のあり方に真っ向から反対するはずである。>

園頭先生は、生長の家にいられましたので、生長の家の教義のおかしさは細かく書かれていますが、この生長の家の一番の問題は、創始者の谷口雅春という人が悟って始められたわけではない、ということです。

この方はいろいろ勉強されたようで(生長の家は、精神身体医学やクリスチャン・サイエンスなど取り入れて、心の持ち方が大事であると説いたことが知的階級に受け、他の宗教団体の信者層よりはレベルの高い層が信者となっています)その知的判断によって、独自の宗教を提唱されただけで、その教えが本当の神の教えではないということです。

その証拠に、いうことがコロコロ変わってずいぶん大言壮語もされています。(釈尊、キリスト以上とは、いくらなんでもいいすぎでしょう)こういうところなど、自分の頭で考えてしゃべっているとしか思えませんし、信者に隠れてコソコソ伏見稲荷を祭っていたなど、自分が提唱している神に(住吉大神やら観世音菩薩やら)自信がない証拠です。

このようなことを考えますと、この生長の家も、とても正しい宗教とはいえないのです。

正しい宗教である、本当の神の教えは一貫性があります。そうして悟られた方が必ず始められているのです。(高橋先生、園頭先生はもちろんのこと、釈尊しかり、キリストしかりです)

わけのわからないものが憑いてきてはじめたり、行者やら宗教に詳しい人たちがはじめた宗教を、簡単に信じてはならないのです。

そのような人たちの教えは、正しい部分もありますが、間違った部分が必ずあるからです。間違った部分があるのは、正しい教えとはいわないのです。(それは、釈尊やキリストの言葉に間違いがないことでも、その事実が分かります。だから如来の言葉を「法」というのです)

真の宗教とはどのようなものなのか?その基準を、少しでも分かっていただければ幸いです。

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1月 12 2014

新興宗教のおかしさ④

園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<ひとのみち・PL教団

ひとのみちは、禅僧であった御木長次郎(徳一)が、僧をやめ、金田徳光が始めた徳光教の信者となり、徳光が死んだ後、その跡をうけ、大正十年一月一日、小さな自宅に「御獄教徳光大教会創立事務所」の看板をかけた。

徳光教は、信者の病気を教祖が引き受けるという「お振替(ふりかえ)」と、教育勅語を教理とした小さな教団であったが、徳一はそれを踏襲し、昭和六年、ひとのみち教団と改称、朝参り、日の丸バッジ、新聞広告をやり、道徳の徳は損得の得だといい、都会の商人や小市民層をつかみ、教育勅語の中の親孝行や夫婦和合の道徳を強調し、昭和十二年には信者数六十万に達した。

「お振替」は、教祖が自分の病気を引き受けてくださったという催眠暗示効果は多少あって、一時、心の安心を得たとしても、それですべての病気が治るということにはならないし、また、信者の業を教祖が引き受けるということはできない。本人の業は本人以外に誰も引き受けることはできない。気休めの安心感を与えるに過ぎない。国の方針にそって教育勅語に示されている道徳を説いたとしても、道徳は道徳であって宗教ではない。

日本の教祖たちは、宗教と道徳の区別がついていない。宗教は、霊の向上、人格の向上と悟りを説くもので、道徳は霊の存在を説かず、肉体を持って生きている間の人間の生き方を説くものである。正しい人間としての生き方は、人格の向上にはなるが、悟りについては全くふれていない。だから、ひとのみちは、最初から修養団体というべきで宗教団体ではないといってよい。

        (中  略)

昭和二十一年九月、佐賀県鳥栖で、パーフェクト・リバーテーという名称をこしらえ、PL教団として開教式をあげ、ひとのみちからの引き続きで金田徳光の遺訓を掲げ、新たに「人生は芸術なり」「人の一生は自己表現である」「自己は神の表現である」「表現せざれば悩みがある」「真の自由を生きよ」などのスローガンを掲げる。

しかし、ただスローガンを掲げただけで具体的な真理を説いているわけではない。物事を深く考えることをしない、特に宗教の本質について全く考えることをしない民衆は「人生は芸術なり」というスローガンに魅せられて信者になった。宝生袋を与えてたくさん寄付するほどご利益があるといって金を集め、やがて大阪の南効羽曳野一帯にPLランドをつくり、その中にゴルフ場あり、子供遊園地あり、病院ありで、中央に正殿と脇殿とあって、正殿には大元霊(宇宙一元の根元力)と、教之祖(金田徳光と御木徳一の霊)を祀ってある。

このような神殿をつくることも正法ではないが、不可解なことは宗教団体と自称しながら、これが宗教とどういう関係があるのかと疑われるような多彩な営利事業をやっていることである。

東京と大阪にクラブ「VAN」バー「美紀」を、東京四谷には洒落たイタリヤ料理店を、その他、英会話学校、給食センター、ゴルフ場、不動産業、建設業、花火会社等を経営している。それらの資金は全部信者からの献金である。

古めかしいひとのみちを、モダンな教団にしたのが御木徳近であったが、事業欲を旺盛にして金儲けすることが人生の芸術とは、芸術という言葉さえ泣くというものである。>

人の病気を自分に振り替えるということはできません。(そんなことをしていたら、キリストなどあっという間に病気になり、死んでしまいます)

つまりこの教団は、最初からできもしないことを、さもできるようにいい、信者を集めたのです。

そうして教育勅語(明治天皇が教育に関して与えられた勅語)を教理としますが、それは道徳であって宗教ではありません。それに道徳の徳を損得の得としてしまうのですから、すでにその教えは道徳でさえもなくなり、ただの金儲けになっているのです。

その精神がPL教団と名を変えてからモロに現れます。それが宗教団体とは思えない、数々の営利事業です。

釈迦教団が、飲み屋や遊園地をつくったでしょうか?キリストが自分の教えを聞く人が増えたからと(元々キリストは大工さんでしたので)建設業など始められたでしょうか?

そんなことはないはずです。釈尊など多くの人から布施を受けましたが、その使い道といえば、すべて釈迦教団の運営、あるいは精舎の建設などにあてられたのです。

この教団はいっていることもおかしければ、やっていることもおかしいのです。(まったく神の心ではないということです)

しかし、このPL教のような教団はいくらでもあります。そのような大教団は、皆、神の名を利用し、金儲けをしている宗教産業に過ぎないのです。(園頭先生がいわれた言葉です。こうなるともはや金儲けしている普通の会社と何ら変わりません。とても神の教えを説く宗教団体ではないのです)

このような神の心から離れた、宗教団体とは名ばかりの、ただの宗教産業の教えでは人は救われないし、神の業も収まりません。

やはり、本当の神の教えを知らないと救われないのです。

追伸…元総理のコンビで、今度の東京都知事選に出馬するとか、しないとか話題になっているようですが、あの元総理が「脱原発」を旗印に、都知事選に出られても違和感がありますし(国政じゃないんですから)それに、その「脱原発」を旗印にすること自体、すでに都政をよく見ていない証拠です。

したがって、あの元総理が出馬して、もし東京都知事にでもなるようでしたら、それこそ東京に何が起きてくるか分かりません。

このブログは東京の人も見ていると思いますが、今度の都知事選は選ぶ人を間違うと大変なことになります。

東京の方々は、よくよく選ぶ人をお考えください。

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1月 11 2014

新興宗教のおかしさ③

この辺り本当にサイレンが凄いです。(ほんとよく聞こえてきます)

やってはいけないことをやったり、やらなければいけない当たり前のことをやらないから、このような恐ろしい現象が起きてくるんですが、どれだけそれをいっても分からないようです。(怒っている人多いですから)

では、それが分かるまで待つしかありません。早くご理解ください。そうしないとこの現象、止めようがありません。

新興宗教のおかしさの続きを書きましょう。同じく園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<天理教は教祖中山みきが、明治政府を高山に、民衆を谷底の人としてとらえ、政府攻撃をして弾圧された。「学者と金持ちはあとまわし」と民衆を味方とし、天理王命を宇宙創造神と偽称して、世直しの実現を保証する甘露台といい、本部の所在地を地場(じば)、親里(おやさと)として、社会の底辺にあって苦しむ人々を信者として拡大し、金光教の金の神は金儲けの神様であるということにされて都市部へ発展していった。その後を追って大本(おおもと)教が出現した。

大本教

大本教の教祖は京都綾部の貧しい大工の未亡人、出口ナオである。娘の発狂をきっかけに明治二十五年「艮の金神」(うしとらのこんじん)がかかったとして「おふでさき」を書き始めた。明治二十六年から金光教の布教師となって病気治しの祈禱をするが永続きせず、明治三十年金光教から離れ、三十二年イナリ行者の上田喜三郎と共同してから活動も漸(ようや)く活発となる。三十三年、ナオの婿養子となって出口王仁三郎と命名し、大正六年「皇道大本」と称し、第一次世界大戦後のインフレによる不景気に悩む民衆に対し、世直しを説く。全国的に信者が増え、軍人や知識階級の中にもひろがり、大きく発展することに脅威を感じた政府は、竹槍十万本その他武器を隠しているとか、女性の信者を暴行したとか、警察がデマを流して不敬罪で逮捕し、昭和二年今上天皇即位による大赦で無罪となる。

王仁三郎は、教団名を「大本」と改めて教団再建に着手、出口ナオの「おふでさき」ー神の出現による「世の立て替え」を伏せて、大正十年頃から書き始めた『霊界物語』を前面に出して布教した。

『霊界物語』は、神道、仏教、キリスト教の教理により、すべての宗教の根本は一つであり、その大本を教理とするものであることを、物語形式で書いたもので、王仁三郎が口述するのを筆写したのが、後に生長の家教祖となる谷口雅春である。

        (中  略)

王仁三郎が、神道、仏教、キリスト教の真理は大本で一つであるといったことは正しかったが、祭神を「艮の金神」といい、呪術祈禱的な傾向があり、また常人離れした奇矯な言動があったこともあり、その呪術祈禱師的な面と予言者的な面が表に出て、すべての宗教は一つであると説いたことは広く理解されるに至らなかった。

        (中  略)

『霊界物語』は、全宇宙の過去、現在、未来、日本の敗戦、天皇の「人間宣言」等、日本の将来についても予言している予言書であるといわれているが、現界に起こることはその以前に霊界に現れ、霊界でまず起こったことが、ある時間経過の後に現界に現れるので、霊界と現界は照合していると説いている。これは、注目すべきことである。

大本教の使命は、宗教改革の前駆とし、また、霊的運動をとおしてのみ世界の平和は実現するものであることと、その霊的運動の中心は日本であることも知らせることにあった。

王仁三郎は遺書の中に、世界を霊的指導原理によって再編する人物が、すでに肉体を持っているかもしれないと書いている。それが高橋信次先生であったと私は思う。だから高橋先生は「出口王仁三郎は、日本の宗教の誤りを覚醒させる使命を持って生まれてきた菩薩界の人であった」といっていられた。

それは、それだけの使命であり、神道、仏教、キリスト教の真理が一つであることを示しはしたが「法」が説かれていないために、現在の大本教には法の実践が説かれていないのである。そこに大本教の欠陥がある。>

世に予言者といわれる人がいますが、その予言がなぜ当たるかと申しますと、この世に実現する前に、あの世にそれが現れるからです。それをあの世の人(天使か悪魔か分かりませんが、それを受ける人の心によります)に教えられ、それを予言者といわれる人は語っているのです。

この予言の仕組み、神道、仏教、キリスト教の真理は一つであること、世界の平和は霊的運動によってのみ実現すること、その霊的指導原理によって再編できる人物が生まれていること、そうして、その霊的運動の中心は日本であること、このようなことはすべて正しいのです。

このことを世に伝えるため菩薩界より、この世に生まれてきたのが、この出口王仁三郎という人であったのです。

しかし、それはそれだけの使命であり、神道、仏教、キリスト教などの宗教を統一し、世界平和を霊的運動で実現できる、霊的指導者は(悟りを開かれた)高橋先生であり、園頭先生であったわけです。

その神の計画、天の計画が、遅れに遅れ、現在に至っているわけですが、それだけ神の計画をこの世に実現することは難しいのです。

高橋先生と園頭先生は亡くなられましたが、その意志を継いでいる者はいます。

世界平和を実現する霊的運動の中心は日本であるのです。それをいつまでもしようとしないから、現在の日本は毎日のように異常現象が起き続けているのです。

日本の人たちは、自分たちの使命の大きさに早く気づかなければいけないのです。

(だから私は、日本には大きな使命がある、といっているのです。だから、これほどの異常現象が現在の日本に現れているのです)

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1月 10 2014

愛ある現象

今日のブログは、新興宗教のおかしさの③を書こうと思ったのですが、急遽変えます。

というのも、昨日たまたま前のブログを読んでいましたら、この名古屋で起きている救急車のサイレンが、いつ頃から始まったのか分かったからです。

この現象、前より起きるのが激しくなっています。ですから、こちらの件を今日は書くことにします。

この名古屋で起きている現象(救急車のサイレン)これが始まったのは、2012年の十月からです。

その2012年の十月のはじめから始まりました。ですからもう一年と三ヶ月、この現象が出続けているということです。

信じられませんね、一年以上の間、毎日です。毎日何十人もの人が救急車で運ばれていくのです。(実際一日に、何人の人が運ばれているのか知りませんが、名古屋の人がよそより多いのは確実でしょう。これだけ救急車のサイレンが聞こえてくるのですから)

そればかりか、最近はこの現象がさらに激しくなっています。

私は、最近のブログで新興宗教のことを書いていますが、悪魔もこのようなことを起こします。教祖といわれる人たちの周辺で不幸が続いたり、憑いてきたものが、いうことを聞かないと病気にさせるぞと脅したりです。

しかし、私に起きていることは、このような現象とはまったく異なるのです。

そうではないでしょうか、同じようなことが起きているといっても、今起きている現象は規模がまったく違うのです。私の周辺で不幸が起きている、というレベルではなく、名古屋中で不幸が起きているのです。

それに、このようなことが起きてきた原因は、私が周りの人を脅して一方的に起きてきた現象ではないのです。

私が、神の心とはこういうものです。それを行う時が来ていますので、そのような心と行いをしてください、といっているだけなのに、それに反発する人が多く、そのような人たちが、私に嫌がらせを始めたことが原因で起きはじめたことなのです。

それに、このブログを読んでいても、多くの人が感謝一つしないのです。自分が知らないことをたくさん教えてもらったにもかかわらずです。

私は、先のブログの中に、財や地位を捨てることと宗教的悟りは関係ないと書きましたが、しかし、知らないことをいろいろ教えてもらい、何の感謝の心も現そうとしないのは、いくらなんでも厚かましさの度がすぎています。

やはり、そういう人に対しては、何らかの報恩の行為は行うべきなのです。(それでは、人から、あれこれ施しを受けているのに、何のお返しもしないのと同じことなのですから。自分の父や母、あるいは大変お世話になった人に、何のお返しもしないということが考えられるでしょうか?何らかのお返しは誰でもされるはずです。それと同じなのです。この世に生まれても、めったに知ることができないことを教えてもらったのです。その人にお返しの行為は当然するべきなのです)

このようなことを考えますと、今起きている現象は、私が起こしている、または、私に憑いている悪魔が起こしているというよりも、周りの多くの人の至らなさが原因で起きている、気づきの現象であると思われないでしょうか。

その証拠に、もし、悪魔が起こしている業であるなら、もっと恐怖が支配するはずです。しかし、この名古屋で起きている業は、畏れることはあっても、恐怖が支配しているという状況ではありません。

これほどの現象が起きているのに、誰も恐怖心があまりわいてこないのです。(何せ小学生や幼稚園の子供まで、私の方にわざわざ寄ってきて嫌がらせしていくくらいです。全然、私のこと怖がってません)

それはなぜか?

これこそ神が、天上界にいられる大天使たちが、起こしている現象の証拠であるのです。大天使が起こす、その現象には必ず愛があります。その愛ある現象のために、その現象がどれほど激しく起ころうと、恐怖だけが支配しないのです。大天使たちの愛の心が、その現象の中にこめられているため、その愛の力が多くの人々の心の恐怖を和らげるのです。その心を癒すのです。

だから多くの人が、これほどの現象が起きているにもかかわらず、それほどの恐怖を感じないのです。

しかし、もし、悪魔がこれほどの現象を起こしたのなら、それは想像を絶するほどの恐怖が人々の心に生ずるでしょう。この名古屋で起きている現象を、悪魔が起こしているのであれば、もう多くの人々は恐れしかなくなるのです。(それは、何かの祟りとか、あるいは外国でよくある、ポルターガイスト現象など知れば分かります。あの程度の現象でさえ、皆、恐怖しか感じないのです。その場所の雰囲気がまったく違うからです。あれこそ地獄の雰囲気そのままです。悪魔が起こす現象は愛も慈悲もありません。恐怖しかないのです)

こう考えるのであれば、今起きている現象は神が(大天使たちが)起こしている現象なのでしょうか?それとも悪魔が起こしている現象なのでしょうか?

そうして、その異常現象の起きている原因は、私なのでしょうか?それとも私のことを知っている多くの人たちなのでしょうか?

もう答えは明白なのではないでしょうか。あえていいませんが。(いったところで認めない人は認めませんので)

しかし、私が心を入れかえるか、それとも多くの人たちが心を入れかえるかしなければ、日本に起きている、この異常現象は収まりません。

名古屋のサイレンも止まりませんが、今日から日本に異常寒波も入ってきます。

これだけ災いが続いているのです。何かを変える他ないのです。

追伸…前から気になっていたのですが、一方的な見方の軽口はやめた方がいいのではないでしょうか。そうしないと、今回のことくらいではすまなくなります。お気をつけください。

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1月 09 2014

新興宗教のおかしさ②

昨夜、この前書きました静岡の方からメールをいただきました。(何か急に原因不明の停電があったそうですが)

しかし、救急車のサイレンは全然してこないそうです。ずいぶん違うんですね、名古屋など昨日も(午前中はそうでもなかったんですが)午後の三時過ぎくらいからでしょうか、救急車のサイレンが響きだし、その後、夜中までずっと聞こえていた感じでした。

今日も朝からすでに何度も聞こえてきています。やはり名古屋は祟られているようです。よその都道府県の方々もお気をつけください。

その祟り、あまりにトンチンカンなことをいっていると始まるかもしれません。

それはともかく、新興宗教のおかしさの続きを書きましょう。次は金光教を書きます。これも園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<金光教の創始者、金光大神は、明治維新の二十五年前、岡山県に香取源七という名で生まれた。十二歳の時、川手家の養子となり川手文治と改名し、さらに赤沢文治と改名し、明治初年戸籍法が制定された時に、姓を金光、名を大神と届け、金光大神となった。

金光教の主宰神は「天地金乃神」で、金光大神はそれを宇宙創造の神だと信じていたふしがある。

金神は、古代中国の陰陽五行説の神の一つで、日本でははやくから祟り神として信仰され、方角、日の吉凶によって運命が左右され、特に金神の方角を犯すと祟りがあるといい、金神除け、金神封じの祈禱を山伏などがやっていた。

まだ金光大神と名乗らないで赤坂文治と名乗っていた頃、文治の周辺には不幸が続き、弟も金神の祟りだといって気狂いになる。その弟に憑ってきた金神と、文治が直接問答するというところから金光教は出発するのである。

その内に突然文治の口からも、金乃神がものをいわせた。

「まあ煙草を一服せよ。公儀のお役所でも煙草はある」。「煙草」とは休憩の意味である。

「神様が踊れといわれるから踊る。歌えとおっしゃるから歌う。麦を乾しておっても、天気なのに『雨が降るから入れい』とおっしゃるから入ると、ざっと降ってくる。なんでも信心は、神様のことを疑わぬで馬鹿になってしなされ」(『理解』五八)

金光教祖の『理解』をみると、これに類することがたくさん書いてある。

金光大神と名乗るまで不幸の連続であった。子供が疱瘡(ほうそう)をした時、金乃神のお知らせがあった。

「今朝、疱瘡でないといったのは安心させるためにいったのだ。よその家では下の子から上の子へと疱瘡がうつるが、この家では上の子から下の子へとうつさせるぞ。その方には、金乃神の広前(神前のこと)を勤めさせねばならないから、祇園宮のことはしてはならない。祇園宮には、毎日、御膳、香、花をあげ、朝夕、御馳走に『六根清浄』と『般若心経』をあげさせよ」というのである。

本人や家族を病気や不幸にして、自分をまつらないと困ったことになるぞというような恐怖心を与えるものが正しい神であろうか。

正しい神は恐怖心を与えない。心の安らぎを与える。恐怖心を与えるのは動物霊である。

やがて文治は、金乃神から「文治大明神」の名を与えられ、安政六年十月二十一日、麦まきが終わって金乃神に感謝のお礼を言上すると「麦まきが終わり、安心いたした。色紙を五枚、買うてこい」とお告げがあり「幣を切れ。幣の串は曲尺(かねじゃく)で二尺五寸、そのようにつくって神前にあげよ」。そうして幣をつくって「金乃神さま、これでいいですか、お改めください」と願ったら「これからのちは取り次ぎに専念せよ」との重大なお知らせがあって、金光教ではこの日を立教の日としているのである。>

取次ぎとは、信者の願いを届け、神のお告げを信者に伝えることですが、このお取次ぎによって、金光教の信者は増えていきます。

天理教が天理王命といったり、この金光教が天地金乃神といっている神は、宇宙創造の神ではありません。

はっきりいって何の神かさっぱり分からないのです。(神ではなく悪魔かもしれないということです)

この金光教の神も天理教同様、自分のいうことをきかないと不幸になると脅しているのです。こういう言い方をするのは、神ではなく、ほぼ間違いなく悪魔(地獄霊)です。

ということは、この金光教もやはり教祖が悟りを開き始めたものではなく、何の神か分からないものが憑いてきて、それで始めたものです。いってることのおかしさを考えますと、憑いてきたものは、悪魔に間違いありませんので、その教義は正しいものではないということです。

園頭先生は、この金乃神のことを動物霊といわれていますが、このような何が憑いてきているのか分からないようなものを、すぐ信じてはならないのです。

高橋先生は「私のいうことでもすぐ信じてはいけません。疑って疑って、もうこれ以上、疑う余地がないと思ったら、はじめて信じなさい」といわれていました。

また「自分が見えて、聞こえて、話せたら信じなさい」ともいわれていました。

得体の知れないものをすぐ信じてはならないのです。

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