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3月 15 2013

ピンチはチャンス

昨日あんなブログを書きましたので、あちこちでバスにブシュブシュやられるかと思いましたが、意外でしたね、そんなことするバスは一、二台でした。(十台ほどバス見たんですけどね)

何か起きてるのか、少しは心を変えた人がいるのか分かりませんが、どちらにしても、これまでどおりのことをしていれば、もう危なくて仕方ないでしょうね。(何せ名古屋は時代の最先端の現象が次々に現れだしていますから)

何回もいいますが、よいことなのではないですか、その方が何がよくて何が悪いかよく分かって、心の成長が早まります。ここらに住んでいる人私に感謝してもしきれませんね。(笑)

その分、間違ったことをし続ければ命にかかわってきますので、怒っている人も多いのですが(笑)怒っていても仕方ないでしょう。そのような時代になっているのですから、もう何をするにも命がけです。これからは悪を行わず正しいことを行う、そのように考えを変えるしかないのではないでしょうか。(もう開き直るしかないと思いますが…他に方法ありますか?)

心の低い人は、なかなか考えを変えようとせず、人のよいところは見ずに悪いところばかり見ます。だから人をよく見る(また思う)ことができないのです。よいところは見ようとせず「あいつはああいうところがあるからダメだ」「こいつはこういう悪いところがあるからダメだ」と自分の性格の悪いことを棚に上げて、人の悪口をいうのです。しかし、では自分はどうかと問われれば、自分の悪いところは一切見ようとせず反省しようともしないのです。

それでは子供と同じではないでしょうか。(子供の方がまだ反省しますね)

だから、人のことなど関係ないのです。(それはそうです。自分に何か起きるかもしれないと思っていても、それでも私に嫌がらせをしているのです。ということは、自分さえどうなってもいいと思っているのですから、人のことなど考えもしないでしょう)

どれだけ相手が嫌がることでも、どれだけ多くの人に迷惑がかかっても、自分の憂さが晴らせるならやるのです。自分が気に食わなければやるのです。そうして自分の殻に閉じこもり、勝手にそれでいいと自分を納得させているのです。

しかし、そのような人のことだけでなく、自分の体さえ粗末にしている者の考えが、いかに間違っているのか知らされる現象が、次々に起こり始めています。

神を思わず、人を思わず、自分さえも思わない、それがどれだけ小さな考えであり、間違った考えであるのか、いやでも理解しなければならない時が来ているのです。

自分のしていることは間違ってはいないのか、今考えていることが本当に正しいのか、よくよく考えなければならないのではないでしょうか。

自分のしていることや考えに間違いがないのであれば、なぜこんなに恐ろしい現象が次々に現れているのでしょうか? (救急車のサイレンどれだけ聞いたか分かりません)自分の思いと行いが間違っているから、恐ろしい現象が現れているのではないのでしょうか?

もし、自分たちの考えに間違いがなく、こんな恐ろしい現象が次々に現れてきているとしたら、もう私たちは滅びるしかないでしょう。(正しい道を進んでいるのに、わざわざ間違った道を進むわけにはいきませんからね)しかし、自分たちの考えに間違いがあるのではないか、と少しの疑問でも持てるのであれば、まだ私たちに道はあるはずです。(その疑問に思った、思いと行いを変えればいいのですからね。そうすれば恐ろしい現象は収まるかもしれないからです)

しかし、何でもそうですが、何かの目的を持って進む時に、その目的を達成するのに、一度も失敗がなく達成できることの方が少ないのではないでしょうか。失敗すればまた別の方法を考え、そうしてまたチャレンジして、何度も失敗した結果、やっと成功した、ということの方が多いのではないでしょうか。

それは私たちの人生でも同じでしょう。恐ろしいことが次々と起きているのに、こんなことが起きるのは、自分たちの考えが間違っているのではないかという、疑問一つ持たず(疑問を持つだけでいいのです。自分たちの考えに間違いはない、と決めてしまうのがいけないのであって、少し疑問を持つだけでも心は柔軟になるからです)自分たちの考えは絶対に間違いはないと、起きてる現象に怒り、人に八つ当たりしていても何も解決しないでしょう。

恐ろしい現象がこれだけ次々に起きているのです。では、自分たちの考えを少し変えてみよう、自分たちのやり方を少し変えてみようと、なぜ思わないのでしょうか? 

ことは命にかかわるのです(救急車がこれだけ走っているのです、そのようなことが起きているのではないですか)そんなことが起きているのに、あまりに考えが狭すぎるのではないでしょうか。甘すぎるのではないでしょうか。

そんな考えを持ち続けているのであれば、取り返しのつかないことになる、そのような現象が今次々に起きているのです。

そのような時に、ただ怒って人に嫌がらせしていれば、ことがすむのでしょうか? ここで自分の考えを変え、心を成長させなければ、もう進む道はないのではないですか?

ピンチはチャンスといわれますが、まさに現在の名古屋は、私たちの本当の目的である心を成長させる、その最大のチャンスであり、またピンチでもあるのです。(一歩間違えれば死ぬかもしれませんからね)

今、名古屋で起きてる出来事は、この先の自分の、永い輪廻転生の人生を大きく左右する出来事でもあります。(それだけ大きなことが起きているのです)

このチャンスを生かすか、殺すかで、この先の永い永い輪廻転生の進む道も決まるのです。

(他の地域の人も他人事ではないと思います。いずれ起きてくるのですから。このような心を成長させるチャンスが来てありがたい、そう思える人はご協力ください……いませんかね、そんな人〔笑〕)

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3月 14 2013

正法の世の現象

名古屋の市バスの去年(四~十二月)のミスが急増したらしいですね。(運行ルートを間違えたり、停留所を素通りしたり、などなど)何か名古屋の市バスの運転手は最近(前に書きましたが)いろいろおかしな問題も起こしていて変ですね。

それも道理でしょう、何せ神の使いに嫌がらせをしてしまったのです。きっと冷静でいられないのでしょう。それでもまだプシュプシュやってくる人いますが、どうなっているんでしょうか? (河村市長、この人たち善良な市民に嫌がらせしてくるんです〔涙〕)

電車の運転手もそうですが、嫌がらせをしなくなったらそれで終わりではないのです。(現実にはまだやってる人いますし)

それに、電車やバスの運転手の間でも、何か起き始めたのではないですか? 反省しないと、そのような現象止まらなくなりますよ。

現実にここら辺りの人、ここ一~二週間、明らかに変です。近所で前から私は嫌がられてはいたのですが、最近は特に雰囲気がおかしくなりました。というか、明らかに何か異常なことが続けて起きているように感じるのです。

ということは、そちらのこととも相俟って、異常なことが次々に起き始めているのではないかと思えるのです。

私の気のせいならいいのですが、しかし、もしです。もし、そんなことがあちこちで起き始めているとしたら、これまでどおりの考えでいるのであれば、もはや相当危険であるということです。

これは別に脅しでも何でもありません、危ないから危ないと警告しているだけです。むしろよいことなのではないでしょうか。(だって、何もいわなかったら、恐ろしい現象が次々に起きて、その理由が全然分からないんですよ。同じ起きるにしても、理由が分かっていた方がよほどいいですよね…そうではないですか?)

やはり、神を無視し、神の運動を何もしようとせず、それをしなければいけないと忠告している私に嫌がらせなどしたからでしょう。それが発端となって、恐ろしい現象が次々に起き始めた、と考えた方が正しいのではないでしょうか。現実に少し前までは救急車のサイレンが響き渡っていました。(最近は減りましたが)それもこれも、私に嫌がらせを多くの人が始めたからではなかったですか?

このような現象は、やがて日本中で起きることになります。すでに正法の世となっているからです。いつまでも末法の心でいる人には、遅かれ早かれ現象が現れだすのです。そのような心の人は時代に合わなくなるからです。

だいたい人に嫌がらせなどすることがよいことでしょうか?(どう考えたっていいわけありません)しかし、そのようなことを平気でしている人が、世の中にはたくさんいるのです。そういう人に口でやめろといったところで、聞くわけありません。何かおかしなことが起きてこないと、そのような人は反省できないのです。

だから起きたのです。そのようなことが。もちろん私がここにいるから、一番最初にそのような現象が現れたのです。やがて全国で起こるであろう、悪いことをすれば反省せざるを得ない現象が。

何度もいっていますが、これからこの世は、正法の世から最終ユートピアに向かうのです。もう末法の世はきません。ということは、皆さん菩薩界の心を持たなくてはいけないのです。(すぐにそのような心は持てなくても、少なくとも目指さなければいけないのです)であるならば、人に嫌がらせなどしていて、菩薩の心を目指すことができるでしょうか? 目指せるわけがありません。何せ菩薩の心とは(如来ほどではありませんが)愛と慈悲の塊の心なのですから。

そのような、菩薩の心を目指さなければいけない時代となっているのに、未だに旧態依然の末法の心のままで、その心を現している嫌がらせなどしていていいわけないでしょう。そのような行為はすでに時代遅れであり、罪悪以外の何ものでもないのです。(正法の世では)

だから、無理やりにでも直されているのです。もちろんここに私がいたからです。つまり、今私がいる名古屋は時代の最先端の現象が起きているということです。(いずれこのような現象は全国に拡がるからです。そうして、多くの人が神の心、菩薩の心に目覚め、この日本に菩薩界をつくっていくのです)

早く起きた方が、早く分かっていいでしょう。

そんな最先端の現象が起きているにもかかわらず、そのような現象に感謝せず、怒って私に嫌がらせするとは、どういう了見でしょうか?

結局、心の低い人たちに合わせてしまうからいけないのです。そのような人たちは感情が先にきてしまい、理性が働かないのです。(まだ心が発達していないからです)だから、恐ろしいことが次々に起きても、それでもまだ私に嫌がらせしてくるのです。(カッとなってしまって、冷静な判断ができないのです)

ところが心の発達している人は、この者に何かすれば、恐ろしいことが起きると理性で冷静に判断できますので、さわらぬ神に祟りなし、とあまり私によけいなことをしないのです。しかし、そのような心の低い人に合わせて、多くの人が嫌がらせなどしてしまうものですから、恐ろしい現象の連鎖が始まってしまったわけです。

それもこれも、心の低い人に考えを合わせてしまった結果なのです。心の高い人なら、私に嫌がらせした者に何か起きたら、即座に、こいつに手を出すと危ないということで、手を出さなくなります。ところが、心の発達していない人は、そのような冷静な判断ができないのです。(理性がまだしっかり働かないからです)だから、何度そのようなことが起きても、嫌がらせをやめることができないのです。何か起きるかもしれないという恐怖心を持ちながらでも、それでもやってしまうのです。感情が先に来て、その感情だけで動いてしまうからです。(一度何か起きても、それでも嫌がらせがやめられない人も中にはいます。そのような人はどこまで愚かか、その愚かさの底が知れませんが、そのような人にもう一度現象が現れたら、その人はもう助からないでしょう。そのような人はよくよく反省しないと、後で大変な目に遭うのです)

しかし、正法の世になっているのに、そんな心の低い人の言動に合わせていたら、危険極まりないのであって、やはり、心の高い人が立ち上がらなければならないのです。(心の低い人は冷静な判断ができないので、でたらめなことをやっているからです。そんな人たちに合わせていたら、恐ろしい現象は止まりません)

時代の最先端を行く現象が、今名古屋で次々に現れ始めました。もう末法の世の行いをしていれば、いやでもそれを直されます。

では、正法の世の行いをしなければいけません。それをいつからやるのか、今でしょ。(別に冗談ではありません。すぐやらなければいけないから、今すぐやれといってるだけです)

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3月 13 2013

神の世の始まり

今日のブログは、昨日の続きを書こうと思ったのですが…やめておきます。

どうもまた何か起きたようですね。連日ですか? 何も聞いてないので分かりませんが、本当に次々と何か起き始めたようです。

繰り返しいっておきますが、神の使いは畏れないといけないのです。

もし、それを聞かず、嫌がらせなど続けていれば恐ろしい現象が起きてきます。それは(聖書などの)過去の書物を見ても分かるはずです。

私を神の使いと認めたくなければ、認めなくていいのですが、それなら何が起きても、それはたまたま起きたとか、そういうことも起きるだろうと軽く考え、私のことなど相手にしなければいいのです。それを、私の書くものを勝手に読んで、それで自分勝手に判断し、あのようなことが起きたのもおまえのせい、このようなことが起きたのもおまえのせい、と悪いことが起きたことをすべて私のせいにしていては、それはいいこと起きません。

それはそうでしょう、人に濡れ衣をかぶせていていいこと起きるわけがありません。

もう、中途半端な態度はやめられたらいかがでしょうか。私のいうことを信じるのであればすべて信じる。信じないのであればすべて信じない。

そうしないと悪いことが次々に起きるのではないですか、どれだけ認めたくなくても、私が本物の神の使いなのですから。(でなければ、私に嫌がらせなどしている町に、恐ろしい現象が次々に現れるという説明がつかないでしょう)

何度もいっていますが、嫌がらせをする人はいても、協力してくれる人はいません。神の使いに協力するのであれば、これほど徳を得る行為はありません。嫌がらせなどされるより、協力された方がいいのではないしょうか。(逆にいえば、神の使いに嫌がらせするのは、これほどの不徳の行為はありません。だから、恐ろしい現象が次々に現れるのです)

そのような徳の得る人が増えれば、恐ろしい現象も収まっていくでしょうが、徳を得ようとする人が一向に現れないというのであれば、恐ろしい現象は続くでしょう。(多くの人が神を冒涜し続けているからです。神の運動をやらないという行為は、神を冒涜していることと同じことなのです)

マァ、私は誰からも何も聞いていません。ただの妄想ならそれでいいのであって、嫌がらせを続けたい人は続ければいいのです。態度を変えようとしなければ、今と同じ状態が続くでしょうからね。(何も起きていなければ同じ状態が続いた方がいいですもんね)

今回、何か気になったので書いておきました。

ついでに(ついでですけどね)書いておきますが、立川のオバちゃんと福岡のオジちゃんのコメントがピタリと止まりました。

これでは自ら、私は立川に住んでいます、私は福岡に住んでいます、と認めているようなものでしょう。(笑)

コメント送ってこないならこないで結構ですが、あなたたちが住んでるところも分かったことだし、これまでやったことの反省など、とてもあなたたちがするとは思えませんので、はっきり住んでる場所が分かり次第、警察が行くかファンレター(内容証明)がいくか分かりませんが、何かあなたたちのところに届くかもしれませんので、それは楽しみにお待ちください。

これ以上あなたたちの相手をしていても、時間の無駄ですから、もう相手にしません。それにしても、最後の最後まで無責任でいい加減な人たちでした。

何か次々に起きているようです。もちろん正法の世が深まれば深まるほど、神の心が世に表れますから、それにふさわしいことが起きてきます。だから、ついてこれない人はもうついてこなくていいのです。ついてこれた人だけが、神の世を見ることができるのです。

何をいっても、誰も聞かず行おうとしません。

ならば一人で進むだけです。

しかし、確実に神の世が始まり始めたように感じます。

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3月 12 2013

大調和の世界

釈尊は六神通力の最高の力を持たれていたといわれます。

六神通力とは次のような霊能力です。

天眼通(てんがんつう)    この世のこともあの世のこともすべてを見通す霊能力

天耳通(てんじつう)      この世のもの、あの世のもののすべての音・声を聞く霊能力

他心通(たしんつう)      すべての人、また動物、植物の心までも読み取る霊能力

宿命通(しゅくめいつう)    すべての人、またこの世の現在、過去、未来を見通す霊能力       

神足通(じんそくつう)      意識だけでどこへでも行って見る霊能力

漏尽通(ろじんつう)       一切の煩悩をなくす智慧の力

この六神通力は、キリストやモーゼといわれる方々も持たれていて、このような方々は、その力を縦横に駆使し世に法を拡げていかれたのです。

そのような偉大な霊能力を持たれた方々でも、そのお力の中に特に秀でた力があり、キリストは多くの人を癒され、モーゼはモーゼの大奇跡で有名なように、竜巻を起こし、海を割り、また川の水を変え、天からヒョウを降らし、様々な異常現象を現して、世の人々を正しい道に導かれたのです。

しかるに現代は、その聖書に書かれたことと同じ現象が現れているにもかかわらず、誰一人神の方に顔を向けようとはしません。

そのような態度を取り続けるのであれば、異常現象は次々に現れます。

また何か起きたようですね。これだけ続けて現象が起きているのです。もう平静でいられるわけもなく、何か起きれば、誰かがおかしな態度を見せますのですぐに分かります。

しかし、聖書など、昔の書物を見れば分かりますが、そのようなおかしな現象が現れている時は、神の心から遠い人たちが数多く現れ、そのような態度に気づきを与えるため、反省を促し神の側に心を向けさせるため、そのような現象が現れているのです。

天変地変、恐ろしい疫病など、そのようなものが流行る時は、必ず、人心は神の心を離れ世が退廃している時なのです。

まさに現在の日本がそうではないしょうか。唯物無神論(このような思想など、神の心から離れてしまった最たる思想です)の時代が長く続き、自由、平等の思想が拡がり(ということは無秩序で自分勝手な考えが横行している)自分さえよければいいという、愛も慈悲もない不調和な世界となっています。その結果、天変地変は次々に起き、インフルエンザ、ノロウイルス、風疹などが蔓延し、その他、恐ろしい病も次々に発症しつつあります。(この辺りは特にそうなのではないでしょうか)

現在の日本は、神の心の世界とはかけ離れたものとなっているのです。

神の心の世界とは、神の存在を認め、その神が与えてくれた環境に感謝し(この地球はもちろんのこと、空気や水や太陽の光、そのどれ一つ欠けても私たちは生きられないのです。今ある環境に感謝するのは当然のことなのです)その何でも感謝する心で人にも愛を与え調和しながら生きていく、そのような世界を、神の心が表れた大調和の世界すなわちユートピアというのであり、このような世界が実現しますと、そこかしこで奇跡が起き(天上界の光の天使たちが協力してくれますので)今の世界から見れば、信じられないような発展した平和な世界が現れるのです。

それだけではありません。そのような心に多くの人がなるのであれば、それぞれの人の過去世が分かり、人間の永遠の生命が実感でき、先ほど書いた、六神通力の中のいくつかの霊能力も現れだして(元々私たちには、そのような能力が神から与えられています。それが心に曇りをつくっているため現れていないだけです)人によっては自由にあの世とこの世を行き来したり(ということは亡くなった人とも自由に会ったり、話ができて、天上界や地獄界を自由に観ることもでき、それどころか世界のどこへでも行くことができて〔霊体でてすが〕どこでもただで観てくることができるということです。現実に高橋先生はよくそのようなことをしていられたそうです)先を見通して事前に危険を回避したり、病気の人の病気を癒してあげたり、あるいは日照りが続いてるところに雨を降らせたりできるわけで、世に奇跡が起きるだけでなく、自身でも奇跡を起こせて、しかも普通では体験できないことを次々に体験できるという、すばらしい世界がこの世に実現するのです。(今とはま逆な世界ですが、このような世界はまったくの夢物語ではなく、元々はこの地上界もそのような世界であったのです。それが多くの人が心に曇りをつくってしまったため、その心の曇りが全世界を覆い、今のような何も分からない、何もできない世界になってしまったのです)

しかし、そのような世界を現すことは、それほど難しいことではないのです。神からそっぽを向いている心を神の方に向け、すべてのことに感謝して、誰もが愛ある心を持つのであれば、すぐそこにそのような大調和の世界は実現するのです。

妬み、ひがみ、怒りの心を持っていては、そのような大調和した世界はいつまでたっても現れませんし、また、そのような心ではいけない、という現象が次々に現れています。

その神の心を現している者を冒涜するような行為は、恐ろしい現象が起きるだけでなく、そのような大調和の世界の実現をも遅らせることになります。

これだけ次々に現象が現れているのです。神の側に心を向けなくてよいのでしょうか。

         

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3月 11 2013

愛のある人の愛ある行為

今日で東日本大震災が起きて二年となります。まだまだ復興が進んでいない現状を見ると心が痛みます。一日も早い復興を望むばかりです。

東日本大震災が起きた当初は、ずいぶん皆さん絆ということをいわれて、愛のある行為をされていたようですが、本当の愛ある行為とはどのようなことをいうのでしょうか、ちょっと書いてみましょう。

もちろん、そのような災害の遭った地域に寄付をするのも愛ある行為ですし、ボランティアもそうでしょう。電車やバスなどに乗っていて、お年寄りに席を譲るなどの行為も、立派な愛ある行為であると思います。また、何かをしてもらい、それに対してお返しの行為も愛ある行為といえます。

ただ、それが純粋に愛の心からそうしているのであれば、それは愛ある行為といえますが、そこに少しでも何かを求めてする心があるのであれば、それは愛ある行為とはいえないのです。

例えば、困った人たちに寄付する行為は立派ですが、そこにこのようなことをすれば、皆の評判がよくなるとか、皆に好かれるとか、何かよいことがあるだろうとか、そのような心が少しでもあるならば、それは愛ある行為にならないのです。

だってそうでしょう、こちらが何をしても、その対価を求めているのであれば、それはただの取引なのであって、愛ある行為とはならないはずです。(自分の評判がよくなるとか、相手から好かれるとか、何かお陰があるのではないか、などということは、金や物を求めてそうすることと同じなのです。お返しの形があるかないかというだけで、そういうものを求めて、先にこちらがそのような行為をしているに過ぎないからです)

本当の愛ある行為とは、何も求めない無償の行為こそ愛ある行為といえるのです。

このようなことを考えますと、本当の愛のある人、そしてその愛ある行為をしている人が、どれくらいいるのか疑問ですね。

私のブログを見ている人たちでもそうですが、このブログを読み、法だけでなく他の知識も得ているはずなのに、そのようなことに関しては、感謝の心も持たず報恩の行為一つしないくせに、ある部分だけ捉えて、私がこうしたのだからあなたもこうしなさい、などと思っている人がもしいたとしたら、その人はなんと愛のない、愛ある行為のできない人なのでしょう。(そのような一部分の行為などとても愛ある行為とはいえませんからね)また、知識を得るだけ得て、少し自分の意に沿わないことでも書けば、報恩の行為どころか嫌がらせの行為をする人までいるのですから、もはや、そのような人など愛ある行為どころか、犯罪行為をしているに近いのではないでしょうか。(だから裁かれもするのでしょう)

このような人たちを見るにつけ、人とはどこまで厚かましくなれるのだろう、本当に愛ある人は少ないな、と改めて思います。そのような愛のない人が多ければ、東日本大震災のような大災害はまた繰り返し起きることになるのです。

本当の愛のある人の愛ある行為とは、園頭先生がされていたような、相手が喜んでくれるなら、こちらがどれだけ苦労してもそれをいとわない行為をいうのであり、こちらがこれだけしたのだからあなたもやりなさい、などという行為は、愛のある人の愛ある行為とはとてもいえないのです。まして、人の愛を受けていながらそれを愛で返さないで、嫌がらせなどで返せば、それは大きな罪をつくることになるのです。

愛のある人の愛ある行為は福(奇跡)を呼び、愛のない人の愛のない行為は災いを呼びます。

東日本大震災のようなことを、再び繰り返したくないのであれば、本当の愛ある行為を実践できる人を増やさなければならないのです。本当の愛を多くの人が知らなければならないのです。

このような大災害が起きた日は、そのような大災害を忘れない日、ではなしに、このような大災害を二度と起こさないために、本当の愛ある行為をこれからもやっていこう、本当の愛を知ろうと思える日にしたいものです。

そのような心が結局世を救うことになるからです。

追伸…そのような愛のない人の代表みたいな人たちが、どこかのオジちゃんとオバちゃんですが、前回、前々回のようなブログを書けば、即コメントが来ていたのに、最近はどうしたのでしょうか?(何か前々回書いたブログが図星だったようです)

どちらにしてもこのままではすまないでしょう。無視するなら無視するで結構ですが、こちらが送るかもしれないファンレター(内容証明)まで無視すると、ご存知だとは思いますが、問答無用で裁判に負けることになります。そんなに怖いのなら早めに詫びられたらいかがでしょうか。(笑)

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