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3月 19 2012

仏陀をめぐる女性たち・チュダリヤ・チュダーダ

城を飛び出された釈尊は六年の間、苦行に明け暮れます。しかし、悟りを得ることはありませんでした。

「このままでは悟りを得ぬうちに肉体の方が持たなくなり、死んでしまうかもしれない」

そのような惨憺たる気持ちになっていた釈尊に、ある歌声が聞こえてきました。

   弦の音は 強く締めれば糸は切れ

   弦の音は 弱くては音色が悪い

   弦の音は 中ほどに締めて音色がよい

   調子合わせて踊ろよ 踊れ

   みんな輪になり 踊ろよ 踊れ

その歌声を聞かれた釈尊は「ハッ」とされます。

「……分かった。やっと分かった」

釈尊はこの歌を聞くことによって、偏った心を持っていては悟ることができないということを思われ、苦行を捨てられ、どちらにも偏らない『中道』という心を悟られ、その中道を物差しとした心で反省されて悟りを開かれることになるのです。

園頭先生はスジャータ(チュダリヤ・チュダーダの愛称です)の歌を聞いて釈尊が気づかれる場面を次のように書いていられます。(同じく「仏陀をめぐる女性たち」より抜粋します。以下のものも同じです)

<朝もやをついて流れてくる若く澄んだ女の美声に、すっかり心を揺り動かされてしまった。東の空は赤く染まり、まさに太陽がのぼらんとしていた。

「弦の音は、中ほどに締めれば音色がよい」

歌の文句を、心の中で反復した。

「わかった、やっとわかった」

今まで求めてこられた謎が、この歌声によって一瞬にしてわかった。

天啓即ち直観というものは、じっと座って瞑想している時だけに起こってくるものではないのである。ふとした人の話の中から、ちょっと見た新聞や本の中から、或いは、なにか仕事をしている最中とか、ある瞬間にパッとひらめくことが多い。わたくしの経験でも、じっと瞑想して考えていた時に受けたこともあれば、或いは、歩いている途中にパッと受けたこともある。大事なことは、一つのことに対してずっと思い続けているということである。

        (中   略)

釈尊の場合がそうであった。悟りのきっかけになったのは、河で身体を洗って、土手の芝生の上で心をリラックスされているところに、スジャータの歌声が聞こえてきた。それによってパッと悟られたわけである>

そうして釈尊が悟られるきっかけを与えたスジャータを次のように書いていられます。

<釈尊は男性である。男性である釈尊は、女性のスジャータによって悟りのきっかけを与えられたのである。

このことからして、わたくしはこう考える。

男性の心を神にまで開かせることができるのは、その女性の清純さであると。スジャータは清純であった。

世のすべての女性が、みなスジャータのような清純さをもって男性に接したら、男性の心も自ら浄化されてゆくであろうと。

清純さを失った、まして、女でありながら女らしさも失ってしまった、欲望と脂肪の固まりである女性も、自分の美容にだけはこだわって、自分をきれいに見せかけようとしている女性も(それも我欲の欲望であるから)ともに男性の心を開くことはできないばかりか、男性の本来の使命をもくらませて地獄の道へ走らせてしまう。

女性たちよ、スジャータのような清純さを持って、男性の前に立て。わたくしはそう叫ばずにはいられない>

一番小さい面積で一番金がかかるのが女性の顔と言われます。そこまで顔の化粧にこだわらなくても…と私たち男性は思いますが。(笑)

最近はずいぶんきれいな女性が増えたように感じますが、しかし、外見ばかりに執着し内面(心)をまったく磨いていない女性では、そんな女と一緒にいる男は決して良くはなりません。

女性が女性としての恥じらい、控えめさなどの、男にはない女らしさを忘れてしまっては、男はその女性に魅力を感じないでしょうし、女性としての清純さまで忘れてしまうようでは、そんな女に男は心を開くことはありません。

私はこの釈尊が悟られる場面を見ていて、釈尊が悟りを開くきっかけとなったのが女性の歌声であり、どれだけ偉大な聖者であろうと、一人でその聖者が現われたわけではなく、そこに女性の助けがあって、初めて偉大な聖者が生まれた、というところに神の心を感じます。

キリストの心を唯一癒されたのはマリアという女性でした。キリストの苦しみ(十字架)を一人悟ってキリストの足にキスをされ、その足に涙を流しながら髪の毛で香油を塗ったのです…その恥じらいのある控えめな行為が、どれだけキリストの心を癒されたでしょう。

聖者といわれる方でも一人で聖者足りえるわけではありません。男と女が調和して、そこに初めて聖者が生まれるのです。女性の清純さは男の心を浄化し、恥じらいのある控えめな行為は男を癒します。

女性としての恥じらい控えめさは男の心を癒し、清純さによって男の心は浄化され神にまで昇華されるのです。

女性の心の大事さを知ってください。

(愛知県でも東日本大震災の瓦礫の受け入れを表明されたようです。さすが大村知事です。頑張ってください)

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3月 17 2012

仏陀をめぐる女性たち・ヤショダラ

園頭先生は実に女性の心理をご存知の方でした。よくここまで女の考えが分かるものだな、と感心したことが何度もあるのですが、その女性がこのような心になると男は喜んで仕事をするようになる、ということも含め、女性の心を実によく現されたご著者があります。

それが「仏陀をめぐる女性たち」なのですが、このご著書はブッダに縁があった女性の、その中でも、特に優れた心の持ち主であった女性たちの心と行いを書かれたものです。

その本を参考に何人かの女性を書いてみましょう。(たしか2009年の七月のブログでもマツリカ、ペシャキヤ、スジャータの三人の女性を書いたと思います)

最初はブッダ(ゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏)の妻でありました“ヤショダラ”から書きたいと思います。

釈迦族の王子であったゴーダマは二十九歳の時に城を飛び出し出家します。そうして六年後に悟りを開かれブッダとなられるのです。

その城を飛び出した時のゴーダマには妻のヤショダラと一子ラフラがいました。園頭先生はヤショダラのことを次のように書いていられます。(「仏陀をめぐる女性たち」より抜粋します。以下のものはすべてこのご著書よりの抜粋です)

<仏典には、カピラの城の宴会の後、ゴーダマ・シッダルタは誰にも知られずに城を出たと書かれている。しかし、私は思う。

結婚するとますます夫は瞑想にふけることが多くなった。普通の人とは違う夫の日常を見て、いつかは夫は出家するのではないかということは、聡明な妻は感じていたに違いない。ラフラが生まれても、普通の人のようにはわが子を愛さない夫を見ては、夫はいつかは城を出るに違いないと感じ、ただその時が少しでも遅くあるようにと思っていたに違いない。

ゴーダマ・シッタルタが城を出られる時のヤショダラのことを書いたものはどこにもない。だがわたくしは、ヤショダラは、最愛の夫が城を出て行くのを知らなかった筈はないと思う。

その夜、城の奥では酒宴が開かれていた。踊り子たちのかん高い嬌声や男達の笑い声が聞こえてきた。その騒ぎにまぎれて出城されたわけであるが、親や釈迦一族、妻子を捨てて出家される決心を固められた釈尊の様子が、いつもとは違っていることを愛する妻が見逃す筈はない。わたくしはヤショダラが、夫の出家の気配すら感じなかった愚鈍な女だったとは思いたくない。すべてを知っていて、その上で出城していく夫を許したのだと思う。>

この後、ヤショダラがブッダとなった夫ゴーダマと再会されるのは、十二年も後のことでした。以下抜粋します。

<放つ愛の尊さ

ヤショダラは、女の放つ愛の尊さを教えていてくれる。放つ愛は、夫や子供を偉大にするが、執着の愛は夫や子供をダメにする。

「放つ愛」それは「母の愛」である。女は母となってその人格を完成する。女が、女として妻としてだけにこだわって執着している時、そういう女は男をダメにする。

男は、大きな仕事をしようと思えば思うほど、家庭にかかわり合ってはいられない時がある。そういう時、妻は夫をして敢然として仕事に赴かせねばならない。女として、妻として、男から、夫から愛されることばかりを考え、いつも自分を中心として、自分の思い通りに、夫を子供を動かそうと思っている妻は、夫が仕事のことで家庭を留守にすることが増えてくると、それが不満のたねになり、夫は自分を愛さなくなったといって、夫に不満をいうようになる。

ヤショダラは、夫を自分だけのものとして夫を愛したかったに違いない。女は男の愛を独占したいと思うものである。愛するよりは愛されることによってより幸福感を感ずるのが女の性(さが)である。「惜しみなく愛は奪う」という。

もし、ヤショダラが、十二年ぶりに帰ってきた夫(仏陀)に対して、その夫を独占しようとして夫の愛を求めたとしたら、その行為は夫を煩悩の渦の中に引き落とすことになる。出家した夫に在家となることを求め、仏陀の座から一人の夫へと引きずり落とすことになる。たくさんの弟子たちを従えて近づいてくる夫であった仏陀を見た時、ヤショダラはその夫を放ったのである。夫をして全人類のために放ったのである。夫をして自分だけのものとして夫を独占してはならないことを瞬間にして悟ったのである。

愛されることばかりを願っている女ほど、男にとってうとましいものはない。そういう女は、ああしてくれない、こうしてくれないといって夫に不足ばかりをいう。

大きな仕事をしようとする夫は、家に帰っても仕事のことで頭がいっぱいで、家庭のだんらんの大事さは知っていながら自分一人で考えていないことがある。そういう時、夫をして充分に考えさせ、大きな仕事をさせるのが、女が母となった時の愛である。

歴史を動かすほどの大きな仕事をした男は、単なる家庭の小さな愛にとどまってはいられなかった。夫をして偉大なる仕事に赴かせ、男としての役割を果たさせた。

母となった女の愛は、その夫がすべての人を愛する愛となって多くの人々を生かすのである。仏陀が仏陀として全人類のために「法」を説くことができられたのは、ヤショダラが、夫を放ったからであった。

偉大なる使命を持った一人の男を、女として妻としての小さな自分の愛の中に閉じ込めておこうなどとは思わなかった。

わたくしは仏陀を拝し、仏陀を思う時、その仏陀の背後に、仏陀を放った一人の女、ヤショダラの放つ愛の大きさを思わずにはいられない。>

少々、自分に気に食わないことをしたからと、それで嫌がらせのようなことをしている女では、それは男をダメにしてしまいます。(それは愛を出しているのではなく、我を出しているに過ぎないからです。)

母性本能という言葉はありますが、父性本能という言葉はありません。それだけ女が母となった時の愛は深いのです。妻は夫の妻としてあらねばなりませんが、時には夫の母として、そして時には夫の娘として、夫に接し尽くさねばならないのです。

ヤショダラのように、妻として母として夫に放つ愛を出した時、初めて男は大きく成長していくのです。

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3月 15 2012

女性のあり方

あまり殺伐とした話ばかり書いていてもいけません。

私のブログを読んでいる人は女性の方も多いし(?)中にはずいぶん熱心に読まれている方も何人か見えますので(一体いつ寝てるんだ?と思うような人もいますし〔笑〕)もう少々女性とはどうあるべきなのかを書いておきましょう。(もちろん私は現在の世相とはまったく違う意見です…何かいけませんか?)

前に私は性の正しいあり方を書いたのですが、昔と違い現在は自由、平等、男女平等、同権ということが強く言われるようになり、その結果何が起きてきたのかといえば、何をするのも自由なのだから、自分の体をどう使おうが自由だ、親も子も学校の先生と生徒も平等だ、男女は平等で同権であるのだから、何をするにもすべて半々で同じことしなければならない、等々言われだし、その結果、風紀は乱れ、家族の絆も失われ教育は破壊され(親や先生と平等なら子供は親や先生の言うことを素直に聞くでしょうか?)離婚率も大幅に上がるという(そりゃそうでしょう、両方とも平等で同権なのですから、意見があわなくてもお互い引きません、仕舞いには喧嘩別れです)でたらめな状況となりました。(では、よいことはなかったのかといえば、少しはよいこともあったのでしょうが、どういうよいことがあったのか、具体的なことが私には全然浮かんできません)

私は女性が社会に出るのをいけない、とは言いませんが(たしかに社会に出て男と同じような仕事をしなければならない女性はいます)しかし、そんな社会に重点を置いて生活するような女性は一部であって、ほとんどの女性は結婚して家庭に入り、家庭のことを通して女の勉強をしてこようと決めてきた人なのですから、それをほっておいて、女も男と同じように外に仕事に行って働くのが当たり前だ、という女性の社会進出を促している最近の風潮には異論がありますね。

では、家庭内(家事、育児など)のことは誰がやるのでしょうか?(マァ、だから全部半々にやれと多くの人は言われるのでしょうが)

結婚前の女性が働くのはかまわないと思いますが、結婚し子供ができているのに、それでもまだ外に働きに行くというのは私は反対です。もちろん生活ができないのであれば、それも仕方がない話でありますが、生活ができないといわれても夫が働いているのですから、その夫の給料でやれるように女性は智慧を絞らなければならないし(昔は家計簿をつけて節約されている家庭はよくありましたし、現在はその節約方法などずいぶん進んでいると聞きますが)主婦業は男が外で働くのと同じ価値があるのですから、専業主婦が何かいけないような現在の風潮は、やはり改めるべきではないでしょうか。(子供が小さい間は、やはり母親が愛情を持ってしっかり育てた方がいいのです。保育所などでは、その子供に対する愛が足りないのです。最近よく親を殺す子供がいますが、あれなどは小さい時に、その子供に対し親の愛が足りなかった典型的な例です)

それに女性の経済力を当てにしなくても、現在の日本の経済をもっと上げる方法はあります。

簡単です。現在働いている既婚女性を皆専業主婦にすればいいのです。

何か矛盾していますかね…そうではありません、私は前に、よく仕事のできる男の後ろには良き妻や母がいて、昔は仕事のよく出来る男はその男よりも、そういう男にした妻や母がほめられた、と書いたことがありますが、女性はそのような役割を果たせばいいのです。(また多くの女性は、そのような役割を果たすため生まれて来ているのです)

働く頭数を増やせば経済力が上がる、などという単純な発想はやめにして、少しは男と女の役割を果たせる社会をつくったらどうなのでしょう。結局、働く人数が減っても、そこにいる男の能力が二倍、三倍になるのであれば、人件費は減っているのに売り上げは上がるのですから、企業にとってもこんないいことはないでしょう。

そのような役割を無視し、何でもかんでも皆一緒にして同じような仕事をさせているから、仕事もはかどらないし、天の協力も得られないのです。(それはそうです、だって男も女も自分の役割をしっかり果たしていないのですから、天が協力するはずがありません)

本当の調和ある世界とは男と女がしっかりと役割を果たし、お互いに持っている力を遺憾なく発揮できる世界であり、そのような世界になれば必然的に経済力も上がり、豊かな生活もできるということになり、それが本当の愛のあるゆとり社会(それは心と生活にゆとりがある、という意味です)なのです。現在つくろうとしている世界など、無秩序で非協力的な愛も調和もない、神の心から離れた、でたらめな世界にしかならないということを知るべきでしょう。

現在の日本は多くの天変地変が連続して起きています。これは天の警告であり、これまでの考え方を大きく見直す時期に来ているのではないでしょうか。

では、男の能力を二倍、三倍にできる女性とはどのような女性を言うのでしょうか?そのような“男を奮い立たせる”女性とはどのような女性なのか具体的に書いてみましょう。

(昨日は大きな地震が相次いだようです〔北海道、青森、千葉、茨城などで〕何か感じるものがありましたので、昨夜祈りました。すると起きましたね、今日の朝、岐阜で地震が。〔地元でも起きますようにと祈りました。もちろんあんまりデカイのが起きてもいけませんのでほどほどにですけど〕私の祈りもようやく復活したようです。〔いつまでもボケてはいられません〕まだこの法の流布の活動に多くの人はご理解いただけません。多くの人にご理解いただけるまで、また祈りを続けたいと思っています。〔しかし、私のブログを読んでる多くの人って、知らないことを知ったことに対し、感謝の心も行為もないのでしょうか?〔ほんと驚きます〕人のブログに書いてあること喋ったり書いたりして、中には記事のネタにしている週刊誌まであるというのに、感謝の気持ちも行為もないのですね…そりゃ関東で地震も起きます〕それはそうと新潟は異常な雪が降ったと思ったら、今度は地すべりですか…もうあそこの知事代えた方がいいのではないでしょうか)

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3月 13 2012

フッと思ったこと

先日、あることを思い出したのですが、それは私がまだ園頭先生の悪口ばかり言っている女講師の会にいた時の話です。

その会のある幹部の人が「何時までも亡くなった園頭先生の話ばかりしていてはいけない、何時までも亡くなった人のことを言っていてもしょうがないでしょう」と私に注意されました。(この時は園頭先生が亡くなられて一年ほど経った頃のことです)

そこで私は「では、イエス様やお釈迦様の話をしてもいけないのですか?」とその幹部の人に言うと、その人は何も答えることができず黙り込んでしまいました。

また別の幹部の人が「自分は園頭先生とは同じ釜の飯を食べたわけではないので関係ない」と私にあてつけるように言いました。どういう意味か分からなかったので、意味をよく聞いてみると、園頭先生とは講演会の後などで一緒に食事などしたことがないので、そんなに親しくないから関係ない、ということを言われたようでした。(しかし、この方、園頭先生の下で何十年も弟子でいて、園頭先生の弟子であった頃は、自分はずいぶん長く園頭先生の下で勉強している、と威張っていられたような気もしますが…そればかりではなく、園頭先生が参加されていた忘年会にも、たしか出席されていたようにも思いますが…?)

よほど文句を言ってやろうかと思いましたが、さすがに私もあちこちの幹部に文句ばかり言っていては、この会に居づらくなるとも思い、この時は何も言いませんでした。(この頃の私は、この会以外で法を勉強するところはないと思っていましたので)

先の幹部もこの幹部もそうですが、ずいぶんお粗末な考え方です。

先の幹部は、死んだ人のことを何時までも言っていはていけない、と私に注意してきたのですが、この人は園頭先生の教えや取られた行動など無視し、肉体だけ見て、その肉体が無くなったのであるから、園頭先生の話はするなといっているのです。

それでは、釈尊やキリストのことを言ってはいけないのでしょうか?釈尊やキリストも亡くなられていますが、釈尊やキリストのことを話す人はたくさんいます。この人は園頭先生の肉体しか見ていませんが、園頭先生は肉体が無くなっただけで、実在界にいられるのですから、そんなことを私に言っていて後々(もちろん死んだ後という意味です)大丈夫なのでしょうか?

後の幹部もそうですが、散々園頭先生に教えを学び救われたこともあったはずなのに、この人もまた園頭先生の肉体が無くなると、途端に自分は関係ないという態度をとっているのです。(それに師に対し同じ釜の飯を食べたことがない、などという言い方は、そもそも不遜極まりないのであり、同じ仲間にそういうならともかく、弟子が師に向かっていう言葉ではないのです)

この幹部たちに共通して言えることは、この人たちは園頭先生の肉体しか見ていなかった、ということです。

この人たちは園頭先生の下で何十年も勉強していたのですが、一体何を勉強していたのでしょうか?まるで法が分かっていません。

このように何十年も勉強していても、法が分からない人は分からないのです。

法はどれだけ勉強しても分からない人は分からないし、分かる人は一度見ただけでも分かります。年数ではありません。要は心の問題なのです。

私の周りで、このブログを読んでいる人がどれくらいいるのか知りませんが、その人たちに言っておきます。

多分その人たちも私の肉体しか見ていません。ですから、私のブログを読み共感できるところは共感するかもしれませんが、自分と意見の違うところを見ると面白くなかったり腹を立てたりしているのです。

ただ、それを言っても理解できないかもしれませんが、私とあなた方は違います。私は法の流布に命を懸けなければならないのですが、あなたたちはそこまですることはないと思います。

言っている意味お分かりですか?

こちらは命懸けなのですから、その邪魔をもししたとなると、必然的にその人も命を懸けなければならなくなりますよ、と言っているのです。(だから少々気に食わないことがあっても私など相手にしない方がいいのです)

私のブログを読んで、あまり腹が立つようなら読まない方がいいし、読むのは自由で、私に協力してくれとは言いませんが、読んで腹が立ったからと余計なことはしない方がいいのです。(そんなことをすればその人の罪になるからです…〔この世の罪にはなりませんが〕なるのですよ、本当に、だからあまり腹が立つ人は読まない方がいいし、私にかかわらない方がいいのです)

キリストは「救世主を尊ばないのは故郷の者たちだけである」といわれました。

なぜ、そういわれたのか?それはやはり近くに住んでいる人は肉体しか見ないからです。その心まで理解できる人は少ないのです。すると「コイツと俺で何が違うのか」ということになり、何を偉そうなことをいっているのか、ということになって、自分の思いと違うことを書けば腹も立つのでしょう。

しかし、肉体が同じでも心が違います。(祈って大雨を降らせたり、地震を起こしたり、あるいは大洪水を引かせたりできますか?私と同じようなブログが書けますか?もし、私がいい加減なことを書いていると思われるのなら、なぜ、そんないい加減なことを書く者のブログを読むのですか?)

だから、納得できない部分はあるにせよ、私のブログを読むのであれば、素直に読まれた方がいいのです。おかしなことを書いている、と思われても、後々、結局それはその人のためになることであって、私は常に祈りながら(天に問いながら)このブログを書いているのですから、現在の自分の考えだけで、いい、悪いという判断を早急に出さない方がいいのです。

正しい判断(これが一番難しいのですが)をしていただきたいと思っています。

(一人の人を徹底的に祈っている件ですが、やはりやめておきます。祈ってみないと分からかったのですが、この人は今、祈らない方がいいですね。あまりはっきり書きませんが、この人早く心を変えた方がいいと思います)

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3月 11 2012

現象界と実在界、生と死

今日で東日本大震災が起きてちょうど一年になります。亡くなられた方々には心よりご冥福をお祈りいたします。

被災地の復興が一向に進んでいない現状を見るにつけ心が痛みます。被災地の瓦礫の処理だけでも早く進まないものかと思えてなりません。

しかし、その被災地の瓦礫などを見て、では、その瓦礫の山をそのままそこに放置しておけば、その瓦礫の山が永遠にそこにあるのかといえばそうではありません。

多くの人は錯覚していますが、この世の物で永遠に存在し続ける物など一つもないのです。(瓦礫のような)石や鉄といった長い時間同じ形をして、形が変わらないように見える物でも、実際は数十年、数百年と経つうちに風化し、土や大気に還元されてしまいます。

この物質界の物は同じ形を永遠に保つことはできません。時間が経てば必ず他のエネルギーに変換されてしまうのです。それがこの物質界の法則だからです。

それゆえ高橋先生はこの物質界を現象界(げんしょうかい・一時的には物として現れるが、時間が経つと消えてしまう、現われの世界)と言われ、あの世である意識の世界を実在界(じつざいかい・意識界にあるものは永遠に存在する、実存の世界)と言われたのです。

もちろん人の肉体も同じです。一時的には現れますが、時間が経てば他のエネルギーに変換されてしまうのです。それが死という状況ですが、この世の肉体が無くなっても(他のエネルギーに変換されても)人の本質である意識、心というものは無くなりません、他のエネルギー同様永遠不滅なのです。(物理学でいうエネルギー不滅、保存の法則)

私たち人間は、

心=意識

肉体=意識によって反復されるところの物質

この二つを合わせ持った存在であり、人間の本質は意識、心にあるのです。(それはそうでしょう、時間が経てば消えてしまうような肉体に本質があるわけありません)

とはいえ、いくら人間の本質が意識、心であるからと、では人が死んで実在界に帰れば、光の球のようになってしまうのかといえばそうではなく、ちゃんとした光の肉体が備わっているのであり(霊体のことですが、この霊体のことを高橋先生は光の体である光子体と呼ばれていました)この光子体(こうしたい)で、この世の物質界の生活が終われば、今度はあの世、実在界で生活をすることになるのです。

私たちの意識、心の永遠を知るのであれば、肉体の死だけを見てそれを不幸だと思うのは間違いであるし、生きることにばかり執着して死を嫌がるのも間違いであるのですから、この世に生まれてきたことを喜ぶのは当然として、死に逝く時も喜んで死んで逝く、ということが本来あるべき姿なのです。

人間は永遠に無くならない心、意識こそ尊いのであり、肉体はこの現象界を渡っていくただの乗り舟に過ぎないのです。(もし肉体がそれほど尊いものであるなら、手や足のない人は、その分、人として尊くなくなるのでしょうか?姿形で人の評価ができるのでしょうか?手がなくても足がなくても人の尊さに変わりはないのであるし、また姿形だけで人の評価などできるわけありません。では、一体どこで人の評価や尊さは分かるのでしょう?それはその人の心であり人格、人柄なのです。人としてのその生命こそ尊いのです)

この世に一時的に現れている物に、どれほどの価値があるというのでしょうか。

人間の本質である意識、心こそ永遠に存在する尊いものであり、本当の価値があるものなのです。本当に価値あるものとはなんなのか、ということをよくよく知るべきでしょう。

(最近どうも祈りに集中できませんので、現在一人の人を徹底的に祈っています。当分その祈りに集中したいと思っています。)

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