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8月 21 2010

救世主が姿を現す時の条件①

「如来に会うことまことに難し」という言葉があります。

この世で如来に出会い、その法を聞くことの難しさを表した言葉ですが、今生、私はその如来にお会いし、その法を聞くことができました。すると古来から言われている話と同じ現象がいろいろ起きてきました。

曰く、悪いことをすれば気づきが与えられ、不思議な夢を何度も見て夢の中でも教えられ、心の奥から次々と法があがってくるなど、過去、法を学ばれ名を遺された方々と同じような現象がです。やはり如来の法を学ぶと、同じ現象が起きてくるというよい証拠でありますし、歴史の正しさが分かります。

本物の如来、救世主といわれる方が現れる時は、次の三つの条件がそろいます。

①言い伝え

救世主が生まれる数百~数千年も前から、そこに救世主が生まれるという言い伝えが伝わっている。

②受胎告知

救世主の母となる人の前に光の天使が現れ、救世主が生まれることを伝える。

③先に来て救世主の到来を告げる者

救世主がでてこられる前に、後から救世主が来ることを予言する人が必ず現れる。

本来はこの三つの条件がそろって、初めて救世主が我々の前に姿を現します。

釈尊、キリストの時もそうでした。ただそれが正確に後世伝わっておりません。①の言い伝えは釈尊(釈尊の時は釈尊が生まれる数千年も前から、ギリシャの方からやがてインドにブッダが生まれるという言い伝えが伝わっていました)の時は伝わっていましたが、キリストの時はそれが伝わっておりません。逆に②の受胎告知は、キリストの時はありましたが、釈尊の時はあったという記録はありません。③の先に来て救世主の到来を告げる者は釈尊もキリストも(アシタバ仙人とパブテスマのヨハネ)ありました。

しかし、本当の救世主が我々の前に姿を現す時は、この三つの条件がそろいます。

正確に言うならば、釈尊の生まれる前には釈尊の母マヤのもとに二人の大天使(キリストの生まれる前にも、実はミカエルとガブリエルの二人の大天使が姿を現し、キリストが生まれることをキリストの母であるマリアに告げたのですが、聖書にはガブリエル一人しか記されておりません)が現れ、救世主である釈尊が生まれることを告げたであろうし、キリストが生まれる前には、救世主がイスラエルに生まれることを予言した言い伝えが、(伝わっていたかどうかは別にして)あったと思われます。ただそれが後世には伝わっていないというだけでしょう。

救世主と呼ばれる方がこの世に姿を現す時は、それなりの証明が必要です。それがこの三つの条件がそろう理由でしょう。

しかし、②の受胎告知はあの世の天使が舞い降りて、救世主の母となる人に救世主が生まれることを伝えるということですし、③の救世主が来ることを先に来て伝える者は、そのような使命を与えられた者がその使命を果たす、ということで理由が分かるのですが、①の言い伝えは一体どこから伝わっているのでしょうか。その元が分からないとその言い伝えが正しいかどうか分かりません。

この①の言い伝えはどこから来ているのでしょう。

それは次の高橋先生の言葉が、救世主が生まれるという言い伝えの理由を教えてくれています。

「如来が出世して法を説き、この世を去るときには、この次何年してどこに生まれるかを予言して死ななければならない」

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8月 18 2010

ブログを書いて思ったこと

GTS心の研究所のホームページが、グーグルの「コーチングカウンセリング 名古屋」(または名古屋 コーチングカウンセリング)で検索すると100万件中一位になっています。一~二週間くらい前からなっているようですが、これは名古屋のコーチングカウンセリングの会社の中では、一番検索が多いということでしょうか?

この仕組みはよく分かりませんが、ある程度は検索がないと上位には来ないと思いますので、GTS心の研究所のホームページはよく検索されているのでしょう。

あまり実感はありませんが(笑)。

ブログを見ている人が多いのでしょうか、それならそれで法を拡げるという、目的にはかなっているのですが、多くの人が私のホームページを見てる割には、問い合わせもないものですから、仕事もないので私の生活ができないというのが困ります(笑)。

しかし、最近ブログを書いていて不思議だなとよく思うのですが、ブログを書いている最中に書くことがなくなることがあります。書くことがなくなって、この先どう書こうと思ってパソコンの手を休めて考えるのが普通なのですが、私の場合は書いてる最中に『この先どう書こう』と思った瞬間、書くことが次々と心の中からでてきて、ブログがスラスラ書けていくのです。ブログの手が止まる時は、書くことがたくさん心からですぎて、どうやったら分かりやすく書けるだろうかと思う時ぐらいです。「不思議だな、何でこんなに書けるんだろ」と思いながらブログを書いているのですから、不思議です。

そういうことが一度や二度あったということではなく、何度もあるから不思議なのです。(何回不思議といえば気が済むのでしょう〔笑〕)

もともと私は本を書いた時でも、園頭先生や高橋先生の本を参考に、よく心で考えて書いていました。その時もたしかに、心から思いが上がってくるということはありましたが、今ほどスラスラ上がってきたことはありません。

園頭先生も「何か書こうと思えば、書くことが次々と心から浮かんでくるので、いくらでも書くことはある」と言われておりましたが、私も少しはその気持ちが分かるような気がします。

『如来の智慧は、泉のごとく心からこんこんと湧き上がり尽きることがない』といわれますが、まさに、そのような現象が起きています。(如来と比べるのは百億年早いと思いますが、一つの例えです)

私もブログを書きながら、心の中から上がってきた思いによって「あっこれはこういうことだったな」「これはこうであった」と、改めて思い出すこともあるのですから、本当に不思議です。何かブログを書きながら自分自身も教えられ、成長しているという感じです。

高橋先生が「神仏は自分の心の中にある」と言われておりましたが、自分の心の奥から教えられているようで、まさに「神仏は自分の心の中にある」ということが実感として分かります。

心の中に神仏があるならば、今は外に神仏を求めないほうがいいでしょう。本当の仏は後からきます。

イエス・キリストがアメリカに出られる前に、その方々は私たちの前に姿を現します。その方々が現れた時、人の永遠の生命、輪廻転生が証明され本物の救世主が誰であるか分かります。

これからの時代は本物が残り、偽者が滅びていく時代となるのです。これからは本当の教えを学んだ人だけが得をする時代になります。

それを自覚しなければならない時がすでに来ているのです。

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8月 16 2010

愛の心③

深い愛をキリストに感じていたマリアは、平然としているキリストの苦しみを一人見抜いていました。マリアはキリストの苦しみが、どこからきているのか(十字架にかからなければならない)は分かりませんでしたが、キリストの苦しんでいる心を思うと、いてもたってもいられなくなり、少しでもキリストの心を癒したいと、高価な香油を買いキリストの下に走ったのです。

この時キリストは、自分の苦しみのことを周りの誰にも伝えておりませんでした。しかし、愛する男の苦しみを、その男が何も言わなくても感じるのが、その男を愛する女の心でしょう。キリストの心の苦しみを思うと、マリアはジッとしてはいられなかったのです。

そのマリアの心をすべて知っていられたキリストは、マリアの愛の行為をすべて受けられます。この時キリストは、このマリアの行為によりずいぶん癒されたことでしょう。この後、受けなければならない十字架の苦しみを、マリアは大いに癒したのです。

キリストは人の心の中はもちろんのこと、その人の現在、過去、未来の三世を一瞬で見通す力をもたれた方でした。そのような偉大な方が、自分の罪を免れたいがためだけに、わざわざ高い香油を買い、自分の下に許しを請いに来た者の行為など見抜けないはずがありません。

もしマリアがそのような思いでキリストの下に来ていたら、弟子たちが言う前に「その香油を金に買え貧しい人々に施せ」とキリストは言われたでしょう。キリストは気性の激しい方でした。そんな小さな考えで食事中のキリストの下にマリアが来ていたら「私たちの食事の邪魔をするな」と叱りつけられていたでしょう。

しかし、マリアは一人キリストの苦しみを知って、キリストが食事中であろうと少しでもキリストの苦しみを癒したいと、キリストの足に香油を塗り自分の髪でそれを拭いたのです。マリアの流した涙はキリストの苦しみをおもんばかってのものでした。キリストにお金を寄付したり、食べ物を寄付したりした人は大勢いたと思いますが、ではキリストの心を癒した人が一人でもいたのでしょうか。聖書を見る限りでは、それはマリア一人だけではなかったかと思います。

こういう無償の愛の行為を女からされて、そのような行為をしてくれた女を好きにならない男はいないでしょう。たとえキリストといえども例外ではなかったと思います。またキリストほど愛深い方もおられませんので、当然、キリストもこのマリアという女を愛されたと思います。

マリアはキリストが十字架にかかったと知ったときどうしたのでしょう。十字架にかかっているキリストを見に行ったのでしょうか。私はいってはいないと思います。心根の優しいマリアは、愛する人が十字架にかかっている姿を、とても見れなかったのではないでしょうか。そしてキリストが十字架にかかったことを知って、一人泣いていたのではないでしょうか。その後のマリアのことが、聖書には書かれていませんので分かりませんが、キリストのことを一人思い、生きていったのではないかと思います。

キリストは二千年前にイスラエルに出られたときは一人で法を説かれました。しかし、今度、生まれ変わられるときは、このマリアも一緒に生まれて、マリアを娶って夫婦として法を説かれてはどうでしょう。そうすればキリストの説かれる愛も、より深く人々に伝わるのではないでしょうか。

私がキリストのことを、あれこれ言うのも非常に恐れ多いことですが、今、アメリカのシカゴが銃規制をして死亡事件が激減したとのことです。

そんなシカゴを、アメリカ政府が銃の規制は違憲であると訴えて、法定で争っているようですが、現在のアメリカは銃の乱射事件が多発して頭を痛めているのに、アメリカ政府のやっている法廷闘争はおかしなことといわざるをえません。(シカゴの銃規制は違憲との判断が下ったようですが)

つい二~三日前にもニューヨークで、銃の乱射事件があったとニュースでやっていました。しかもその銃乱射事件があったところは、結婚パーティーが開かれていたところだったそうです。人生で最高の幸福の場が、最悪の場に変わってしまったのです。こういうことが多発しているのに、銃の規制は違憲とはどういうことでしょう?シカゴでは銃規制を行うことにより、死亡事件が激減しているのです。アメリカ政府は何か銃規制をしてはいけない理由でもあるのでしょうか?なぜ憲法改正をしないのでしょう。

あまり深くは追求しませんが、アメリカの憲法は人のための憲法なのか、憲法のための人なのかよく分かりません。

しかし、どれだけアメリカ政府が邪魔をしても、これからシカゴからカナダにかけての五大湖周辺は、心ある人がたくさんでて治安はよくなり浄化されていくことになります。

これより百五十年後、そこにイエス・キリストが生まれることになっているからです。

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8月 13 2010

愛の心②

愛といえばやはりイエス・キリストという名が出てまいります。

イエス・キリストは多くの人に愛(福音)を説いて正しい道に導き、神と同等の力を縦横に駆使され、多くの怪我人や病人を癒されました。キリストの伝道期間はわずかではありましたが、キリストが出ている間のイスラエルでは多くの奇跡が起こり、多くの人が救われたのでした。まさに救世主と呼ばれるにふさわしい方でありました。

しかし、ではキリストが癒されたことはなかったのでしょうか?多くの人を癒されたキリストが、自分自身が癒されたということはなかったのでしょうか……次のような話が聖書には書いてあります。

キリストが伝道先でよく泊まる、知り合いのラザロという人の家に姉妹がいました。その姉妹は姉はマルタ妹はマリア(この当時、マリアという名はよくつけられていたようで、キリストの母の名もマリアで、キリストが十字架にかけられ昇天された後、埋葬を手伝った人の中にマグダラのマリアと呼ばれる女もいました)という名で、姉のマルタはしっかり者でよく働き、妹のマリアはキリストが家に来られると、付きっ切りでキリストの話を聞いていました。

あるとき姉のマルタがキリストに「主よ、私の妹のマリアは主が来られると、私にだけもてなしをさせて自分は何もしません。なんともお思いになりませんか。妹に私の手伝いをするようおっしゃってください」といいました。

するとキリストは「マルタよ、あなたは多くのことを思い悩み心を乱している。しかし、必要なことは一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」

マルタのように、人が来たとき忙しく働いてもてなすのも大事なことであるが、それ以上に大事なことは福音を聞くことである。せっかく人をもてなしても、思い悩み心を乱しているようでは何もならない。その心の悩みをとることができるのが、キリストの福音である。だからマリアはその福音を聞くことを一としているのだ。一番よいことをしているマリアから、それを取り上げてはならない、とキリストは言われたのです。

このころのキリストの身には危険が迫っていました。十字架のときがもうそこまで来ていたのです。それにもかかわらずキリストは、多くの人に福音を説き癒しを行っていました。

ある人からキリストと弟子たちが食事の招待を受け、その人の家で食事をしていたときのことです。マリアがいきなりその家に高価な香油をもって入ってきて、キリストの足元に伏し、その香油をキリストの足に塗り始めました。そうしてキリストの足に塗った香油を、涙を流しながら自分の長い髪の毛で拭いています。

それを見た弟子たちは「なぜ、その香油を売って貧しい人に施さないのか」といって、マリアの行為を非難します。

しかし、キリストは「この人のするがままにさせておきなさい。私の葬りの日のためにそれを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」といわれ、マリアの行為を許されます。

弟子たちには分からなかったのでしょう、このマリアの行っている行為の意味が、それが分かっていたのはキリストだけでした。

キリストのことが書かれている福音書の中にも、この女(マリア)は自分の罪を許されたいがために、キリストにこのような行為を行ったと書かれたものもあり、そのように解釈している人もたくさんいますが、私はそうは思いません。

自分の罪を許されたいのなら、キリストの前にひれ伏して自分の罪を詫びればすむことです。キリストはどのような罪をその人が犯そうと、その罪を心から懺悔するなら許されました。わざわざ高い香油を買ってきてキリストの足に塗り、それを自分の髪の毛で拭く、ということまでする必要はないはずです。それにマリアから自分の罪を懺悔する言葉もありません。マリアが自分の罪の償いだけに来たのなら、キリストがマリアに対し「この人のするがままにさせておきなさい。私の葬りの日のために……」という言葉も不自然です。

なぜマリアはこのような行為をしたのでしょうか?

それはマリアがキリストを愛していたからです。マリアはキリストを愛していたため、キリストの人には言えない苦しみが分かっていたのです。

マリアはキリストが自分の家に来られると、いつも熱心にキリストの話を聞いていました。それはもちろんマリアはキリストが話される福音は、正しいと理解していましたし、多くの奇跡をキリストが起していられることも知っていました。キリストが偉大な方であるということを、十分マリアは分かっていましたが、キリストを師と尊敬する以上に、一人の男としてキリストを見たとき、マリアは深い愛をキリストに感じていたのです。

そのことをキリストも知っていました。しかし、キリストは今生は一人で法を説くと決めてこの世に出てきていますので、マリアを娶るわけにはいきません。

キリストは十字架の時が迫っていることを感じていました。キリストが十字架にかかることで、その福音が全世界に伝播していくことを、キリストは知っていましたが、それでも自分が十字架にかからなければならないという苦しみは、常にあったと思います。(それはオリーブ山の祈りの時でもキリストの苦しみがよく分かります)

しかし、キリストはその苦しみをおくびにも出さず、多くの人に福音を説き癒しを行っていたのです。周りの誰もキリストの苦しみなど分かりませんでした。救世主に苦しみがあるなど誰も思いもしませんでした。そのような人たちばかりの中で、キリストを最も愛するマリアは、その苦しみに一人気づいておりました。

「キリストの心を少しでも癒したい」それがマリアにキリストの足に香油を塗り涙を流しながらそれを拭く、という行為をさせた理由です。

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8月 11 2010

愛の心①

愛というと男女の愛を思い浮かべる方が多いと思います。中には男女の肉体関係を愛と思っている人もおりますが、夫婦の性ならともかく、それ以外の肉体関係など、愛ではなく欲望以外の何者でもありません。

また最近は夫婦の間でも、それが愛なのか恋なのか、ただの思い込みなのか分からないような人たちもあり、本当の愛とは何なのかよく分からない、というのが現状なのではないでしょうか。

もちろん法で言うところの愛はキリストの愛であり、他の思いを愛とは言いません。

キリストの愛とは「右のほほを打たれたら左のほほを出せ」「汝の敵を愛し、責め憎む者のために祈れ」という深く広い愛であり、調子のいいときは一緒にいても、調子が悪くなるとサッサと逃げ出してしまう人や、主人を散々働かせてその主人が定年退職したとたん、その退職金を奪って別れてしまうような人を愛のある人とは言いません。

しかし、キリストの言われるところの愛はすべてを生かし、育むのであり、特に女性はこのような愛の心を持たなければならないのです。

前に私は、うつ病の人のことをこのブログに書いたことがあります。そのうつ病になった人の奥さんは、その人の仕事の調子がいいときには一緒にいて、その人が父親の保証人になって会社がつぶれ、借金ができうつ病になってしまうと、子供をつれて出て行ってしまわれます。

夫が借金をつくり、うつ病にまでなってしまったのだから仕方がない、と世間の人は言うかもしれません。しかし、では、なぜこの人の夫が借金をつくりうつ病にまでなってしまったのでしょうか。

それも全部夫の責任であり、奥さんに責任はないといわれる人もいるでしょうが、それは違います。

私は前に、このうつ病になった人の奥さんが、もっと愛を出していれば、この人がうつ病になることはなかったといいました。

私はこのうつ病になられた人が、奥さんの悪口(よいことも含めてですが)を一切私に言わなかったので、この人の奥さんがどんな人かは分かりませんが、しかし、どんな人であろうと自分の夫が(自分の父親のためにです)借金をつくり、うつ病にまでなってしまったのに、それをほっておいて逃げてはいけなかったのです。

もっというなら、この奥さんにもっと智慧があったのなら、この人の夫が会社をつぶして借金ができる前に、夫の会社をつぶすことなく父親の会社もつぶすことなく、すべてうまく収まったかもしれなかったということです。

このように書けば、ではすべてこのうつ病の人の奥さんの責任なのか、ということになり父親や夫の仕事にもっと口を出せばよかったのか、ということになりますが、そういうことではありません。男の仕事に女が口など出せば、それこそうまくいきません。口を出すのではなく、愛を出さなければならなかったのです。

もし、この奥さんにキリストのような愛があればどうされたでしょう。

自分の夫を思うと同時に、その父親のことも夫と同じくらい思われたはずです。であるならば、父親と夫が仲が悪いということは分かっていたはずですので、その仲の悪さを直すため、自分の愛を父と夫の両方に同じように出されたでしょう。

そのような無償の愛を女から貰った男はどうなるでしょう。どんなに突っ張った男でも、そのような女の愛の前には素直になるのです。どんなにかたくなな心の持ち主でも、そのような愛の前には、自分の心はやわらかくなるのです。そんな心になった父親と息子が話せば、今までのような突っ張った話し合いではなく、腹を割った心から自分の意見を出し合える、有意義な話し合いができたと思います。

そのような話し合いができていれば、父親は息子の意見を素直に聞き入れ、会社をつぶすこともなかったでしょうし、父親の会社がつぶれなければ息子も借金をつくることもなく、うつ病になることもなく幸せな生活を続けていけたと思います。

そんなにうまくいくか、と思われる人もいるでしょうが、女の無償の愛は天に通じます。するとそこに奇跡が起きるのです。女の無償の愛は多くの人を救う力があるのです。

母性愛という言葉はありますが、父性愛という言葉はありません。男に女ほどの細やかで深い愛はないのです。そのような細やかで深い愛は多くの人を救えるのです。ところが最近の女は愛を貰うことばかり考え与えようとしません。これでは奇跡が起きませんし世の中も浄化されません。女の愛は母なる大地と同じように、すべての悪いもの(汚物)を浄化し、よいものに変える力があるということを知ってください。

しかし、もしそれが逆に働いた場合、鬼婆という言葉はあっても鬼爺という言葉はありません。

女が愛を出さず、自分の我を通すことばかり考えているのなら、愛のある平和な世の中は永久にめぐって来ないでしょう。一人でも多くの女性が、真の愛に目覚めてくれることを願ってやみません。

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