>>ブログトップへ

9月 01 2010

あるたとえ話

今週は女子プロゴルフのトーナメントのゴルフ5レディースが岐阜であります。営業がてら観に行こうと思っています。(あまり営業になっていませんが)

ということで今週はあまりブログも書けませんが、キリストはよくたとえ話をして、そのたとえ話を通して福音を説きました。種まきの話や「心の貧しい人は幸いなり天国はその人のものなり」から始まる、山上の垂訓(さんじょうのすいくん)など有名は話は数ありますが、私もキリストに習って一つたとえ話を書いてみようと思います。

ある場所に、たくさんの食べ物の屋台が集まっている所がありました。多くの人がいろいろな食べ物の屋台を出しています。それを目当てにたくさんの人がその場所に集まっていました。

その多くの屋台の集まっている場所に、一人新参者が入って屋台を始めました。その新参者は非常に話が面白く、多くの人がその新参者の屋台に集まったのですが、集まってきた人たちは、その新参者の話を聞くだけで、屋台の食べ物を食べようとしません。

しかし、その新参者の屋台で売っている食べ物は、おいしくて非常に体にいいものなのです。何とか自分の屋台の食べ物を食べてもらおうと、その新参者はいろいろな話をして、自分の屋台で売っている食べ物は自然食であり、おいしくて栄養満点であるということを説明するのですが、屋台に集まってきた人はその話を聞いているだけで、買って食べようとしません。他の屋台で売ってる食べ物は、中に合成着色料やら保存料など入っていて、体にもよくありませんしあまりうまくもないのですが、そこそこ売れています。

新参の屋台の主人は仕方がないので一~二人の人に、その食べ物を試食してもらったのですが、その試食した人は「すごくおいしくて体も急に元気がでた。不思議だ」と、周りのみんなに話はしてくれるのですが、それを周りの人は「へぇー」と聞いているだけで、誰もその屋台で売っている食べ物を買って食べようとしません。

何日もそのようなことが続きました。不思議なことに買って食べないのに、毎日顔を出す人もいれば、ある人は三日に一度、またある人は一週間に一度と、顔だけは出して新参者の話を聞きに来る人がいます。しかし、その屋台に売っている食べ物は誰も買って食べようとしないのです。

そのうちに、その新参者の屋台は来なくなりました。仕事にならなかったからです。しかし、その新参者の屋台に話を聞きに来ていた人たちは、その新参者の屋台が来なくなっても「あの屋台来なくなったな」と思うだけで、他に食べるものもあるし、特別困ることはありませんでした。

しかし、その人たちは死ぬ間際に気づくことになります、その新参者の屋台に売っていた食べ物が、どれだけ貴重な食べ物であったかということを。それを食べていれば自分自身が飛躍的に成長できたのに、それを食べなかったため、むしろ自分が退化してしまったということを。そして、その食べ物は一生に一度めぐり合えるかどうか、分からないほど貴重な食べ物であったということを。

それを死ぬ間際に気づくのです。しかし、死ぬ間際に気づいてももう遅いのです。その人たちは、この世に生まれてきて飛躍的に成長できるチャンスを失っただけでなく、今度その食べ物にめぐり合うには、たくさんの時間とよほどよい運に恵まれないと、その食べ物を食べることはできないのです。

ある人が海で遭難し、ある無人島に流れつきました。その無人島には不思議なことにおいしい食べ物が山のようにあり、きれいな川が流れていて飲み水もたくさんありました。ところがその無人島に流れついた人が、自分一人では食べ物を食べようとも川のきれいな水を飲もうともしません。誰か人が来たらその人に食べ物を食べさせてもらい、飲み水を飲ませてもらおうと思っています。はたしてこのように思っている人が、この無人島で生きていけるのでしょうか?

上記に書いた二つの文章は、自分自身が積極的に動かないと、よい縁にも恵まれないし、自分の永い輪廻転生の過程で大きな損をしますよ、ということをたとえで書いたものですが、このブログを見ている方に言っておきます。

決してここに書いた人たちのようにはなりませんように。

0コメント

8月 30 2010

異次元の世界(意識界)

唯物論の人たちが、人はこの世限りと言い張るのは、死後の世界が信じられないということと、生まれてくる前の世界が皆目分からない、ということが理由にあると思います。

しかし、(少数ではありますが)科学でも死後の世界(意識界)を認め始めた現代、人はこの世限りなどという単純な意見は、二十世紀の遺物でしかなく、そんな考えをいつまでも持っている人は、進歩向上していかないということを知るべきでしょう。

あの世とはどんな世界なのか、高橋先生と園頭先生の本を参考に少し書いてみましょう。

心の段階によっていくつもの世界に分かれているようですが、仏教的に書いてみます。()内はキリスト教的な呼び方です。

<如来界(光の大指導霊の世界)

光一元の光明の世界。仏教界では金剛界とも言われておりますが、この世とあの世を支配し神と一体(慈悲と愛の塊)の心を持たれ、万象を大調和させる使命を持たれた如来が住んでいられる世界で、この最上界に釈尊、キリスト、モーゼがいられる。常春(とこはる)のような和らぎのある美しい調和した世界で、万国人民共存の社会生活が営まれています。

菩薩界(光の指導霊の世界)

如来界に続く光の世界。ここに住む人たちは如来と同じように、智慧と慈悲の心を備えていますが如来ほどではありません。如来界とほとんど変わらない社会生活が営まれ、この世で言えば、中央都市とその近郊のような感じです。大自然の美しさはこの世の比ではないほど美しく、その文明の高さは想像を絶します。ここに住む人たちは如来の補佐をし、この世とあの世の指導もしながら自分自身も生活の中で修行をしています。

神界(光の天使の世界)

さらに一段低い霊域の世界が光の天使が住む神界です。哲学者や学者や科学者のように頭で知的に悟った人の住む世界で、頭では人間神の子で智慧と慈悲の存在であることを知っているので、ここに住む人がこの世に出てきますと、如来や菩薩と同じようなことを言いますが、しかし、それは頭で知っているだけで心全体で自覚しているわけではないので、立派なことを言っているわりには行動が伴っていません。専門的な研究者が多く、また現在の宗教の教祖になっているような人たちも、この世界から下の世界に住む人たちが多いのです。

霊界(天使の世界)

神界のさらに段階の下りた世界。芸術家やスポーツ選手、または人道的な思想集団にいた人たちが多く住んでいる世界で、世界は一つで人類皆兄弟、国境や人種差別があってはいけないことをよく自覚しています。この世界に来られる人たちは、自分の心を見つめて反省できる人たちで、偶像崇拝、すなわち形あるものを神仏として礼拝などしていなかった人たちです。普通ではこの霊界の世界に昇ることも、並大抵のことではないのです。

幽界

この世界はこの世と同様に、国や人種差別、宗教、思想の差別などのいろいろな差別があり、自分自身が望んだ人々の集団によって各国が存在しています。この世と異なるところは戦争がなく、各集団は調和された社会組織を形成しており、各自皆、足ることをよく知っています。現在のこの世の、戦争がなくて調和された世界が幽界であると考えればいいわけです。

地獄界

この世界はこの世で人を恨んだり、騙したり、争ったりして、常に心に安らぎがなかった人や、色情が強く、金や物ばかりほしがる欲望の強い人や、自殺した人が行く世界。この世界は怒りや愚痴、そしり、暴力が渦巻いている世界で、常に安らぐことはなく、この世が苦しいからと自殺してもさらに苦しい世界があの世では待っています。楽しさ、喜びなどはまったく無縁の世界で、まさに想像を絶する恐怖の世界です。この地獄界も無間、餓鬼、畜生、修羅などのいくつもの世界に分かれ、その人の心の程度によりそれぞれの世界で、自分の間違いに気づくまで苦しい修行をするのです。>

簡単にあの世の世界を書きましたが、それぞれの世界でもたくさんの段階があり、いくつもの世界に分かれているとのことです。

キリストがサタンとか、穢れし霊よ、といわれているのは、地獄界の霊たちのことで、この世で悪いことをして(または悪い思いをずっと持ち続けている人も)地獄に堕ちた霊たちが、自分たちと同じ心を持った人間に憑いて、悪さをしているのをキリストは見破り、その霊をアッというまに祓われるのですが、キリストがこの世に出ていられる二千年前のイスラエルは、穢れた霊に憑かれている人が非常に多かったということです。

心は異次元の世界につながっています。その人の心のあり方によっては、天上界(幽界以上の世界)から地獄界まで、さまざま世界につながります。少々のことですぐ腹を立てたり、人のことを妬んだりひがんだりそしったりばかりしている人は、常に心が地獄と同通していることになり、自分の心とよく似た地獄霊を引き寄せてしまうことになります。

特に法も知らず、心をきれいにしたわけでもないのに、不思議な現象が起きてきたときは気をつけてください。それは地獄霊が起こしている現象かもしれないからです。(キリストが不思議な現象ばかりに惑わされてはならない、といわれたのは、その不思議な現象は地獄霊が起こしているかも知れないからです。地獄霊も不思議な現象を起こせる力があるのです)

感謝と調和した明るい心でいつもいれば、その心は天上界に通じ、おかしな霊や不幸なことからも守られ、いろいろな指導が心の内からなされます。外面をどれだけ磨いても、心が怒りや妬みやひがみに満ちていれば、その心は地獄に通じおかしな霊に憑かれ不幸な道を進むことになります。

心を磨くことこそ肝要で、心をきれいに磨いていくならば、今生の運命を良くするだけではなく、死んだその後の幸せな生活も保障されることになるのです。

0コメント

8月 27 2010

救世主が姿を現す時の条件④

いずれにしても、私のブログで高橋先生が本物の救世主であるといくら書いても、信じる人は信じるし信じない人は信じないでしょう。

ですから私のブログを読み私のブログを信じる人に頼んでおきます。

高橋先生は「百八十年後にキリストが、アメリカのシカゴ(またはカナダ)に生まれる」という予言を遺され亡くなられました。(それから三十五年ほどたっていますので、現在からみたら百五十年後くらいのことです)

多分キリストはそのような予言を遺して亡くなられているはずですが、そのような予言は現在は伝えられておりません。キリストの時代、アメリカはまだなかったはずですから(アメリカは建国二百年ですので)キリストが亡くなられる前に、どのような形で予言を遺されたのかは分かりませんが、その予言がちゃんと伝わっていない以上、その予言を知った人たちが、そのことを五大湖周辺に住む人たちに、伝えておかなければならないと思います。

では、それをするのは誰なのか、ということになりますが、それはこのブログ見ている人の誰かなのではないでしょうか。幸いなことにこのブログを見ていられる方は、そちら方面に仕事で行かれる方も多いのではないでしょうか。見ている人がどのような方なのか私にははっきり分かりませんが、もし、そちら(アメリカ、カナダ)に仕事で行かれることが多く、そのような方が私のブログをよく見ていられるとしたら、それも天の配剤でしょう。その人にはキリストがそこに生まれるということを、伝える使命があると思います。(私は残念ですが、借金はあっても文無しです。それに英語もしゃべれないし、アメリカ、カナダに知り合いなど一人もおりません)

アメリカ、カナダに行き、キリスト教の人たちに「百五十年後に五大湖の辺りにキリストが生まれる」などといえば、キリスト教は輪廻転生を認めていないのですから、そう言った人は多くの人に笑われるでしょう。また怒り出す人もいるかもしれません「キリストを冒涜するな」と。

しかし、キリストがそこに生まれるということを誰一人信じる人がいなくとも、その場所に「百五十年後にキリストが生まれる」ということを、伝えるのは今この世にいてそれを知った人の使命であり、それをすることは、そこに住む人たちにどれだけ笑われようと、それをしたその人は天より祝福されることになります。そればかりかキリストからも感謝されることになり、その人は大きなサプライズを受けるかもしれません。

いずれにしても百五十年など、あっという間に過ぎてしまいます。そこにいる人たちが誰も信じなくても、そのような話を多くの人にしておけば、数百年も数千年も先の話ではないのですから、それが噂となってどのような形か分かりませんが必ず遺ります。

キリストが生まれる場所に、キリストが生まれるという言い伝えを伝えておくことは、将来的にも非常に大きな影響を及ぼし、大変大事なことであると思います。(救世主が生まれる条件の一つとして)

もし、このブログを見ていられる人で、アメリカ、カナダにいられるか、または仕事でよくいかれる方はどのような形でも結構です、イエス・キリストが百五十年後にそこに生まれるということを、現地の人に伝えておいてほしいと思います。それをすることはその人の大きな徳にもなり、また、今まで果たされていなかった大きな天からの使命を、その人自身が果たされることにもなるのです。(それに救世主がそこに生まれるということを伝えるということなど、永い輪廻転生の過程においても、早々やれることでもありません。本当にその人自身にとって貴重な体験となるはずです)

百五十年後にアメリカに生まれられたキリストが、その力を存分に発揮され、多くの人々を救い天の計画どうりにご自身の使命を全うされ、また天に帰っていかれることを願はずにはいられませんが、そのキリストが使命を全うできるかどうかの第一歩は、まさに今、この時に生まれている私たちが、キリストが生まれることを伝えておけるかどうかにかかっているといえましょう。

アメリカ、カナダの多くの人たちが、そこにキリストが生まれることを信じ、キリストが説かれた本当の福音が、多くの人々に理解され、多くの人が救われていくことを願うばかりです。

0コメント

8月 25 2010

救世主が姿を現す時の条件③

釈尊が生まれられる数千年も前から、やがてインドにブッダが生まれる、という言い伝えが伝わっていた理由は、ゼウスが亡くなられる時の予言が元になっていました。

「如来が出世して法を説き……」の言葉どうり、釈尊は「二千五百年後にジャブドウバーに生まれる」という予言を遺して昇天されます。

そのジャブドウバーとは日本のことであったのですが、その予言は正確には伝わりませんでした。それはジャブドウバーがどこであるのか分からなかったことと、釈尊の教え(仏教)がインドから中国にわたり日本に入ってきた時には、涅槃に入られた釈尊は二度と出世されることはない、と言われるように教えが変わっていて、ジャブドウバーという言葉も仏典から削られてしまっていたからです。

しかし、釈尊が予言どうりに日本に高橋信次という名で現れ、ジャブドウバーがどこで釈尊が誰であったかということを、その説かれた法と霊力で証明されました。(それがなぜ今、伝わっていないかということは後述します)

このようなことを考えますと、少なくとも①の言い伝えは、この世にいる人が正確に伝えないと救世主が予言した国に出るときに、その国に予言が伝わっていないということが間々あるということになります。

高橋先生はキリストが百八十年後にシカゴ(またはカナダ)に生まれる、ということを言われておりました。(高橋先生が、それを言われていたのは昭和五十年ころのことですので、それから三十五年ほどたっています)

しかし、ではこのことをシカゴからカナダにかけての、五大湖周辺に住む人たちは知っているのでしょうか?知らないでしょう。知っているはずがないのです。高橋先生の法が伝わっていないからです。世界中に拡がらなければならなかった、釈尊の説かれた法が拡がらなかったからです。

したがって高橋先生が釈尊であった方だ、といえば「こいつはおかしな宗教にやられている」「こいつは頭がおかしい」ということになり、そういうことを言った人の話をまともに聞く人がほとんどいません。唯物無神論がそれに拍車をかけていますが、ではそのように言う人に私に起きているような現象が起きているのでしょうか?

そのように言う人たちは、ただ日常を普通に仕事をして、普通に生活をしているだけの人たちなのではないでしょうか。そして、悪いことがあれば運が悪かった、いいことがあれば運がよかった、と目の前に起きたことだけを単純に考え、その原因を考えようともしない人たちなのではないでしょうか。

そんな人たちに分かるはずがないのです。本物の救世主が誰であるかということなど。また、ここに書いた救世主が姿を現す時の条件など考えようともせず、少し不思議なことをする人がいれば、もうその人を救世主と思い込み盲信、狂信している人たちも同じでしょう。

二千年も二千五百年も、その教えが残っている人の教えが本物なのであり、(正確には伝えられていないにせよ)その人たちの教えを基準に考えるのが、正しい考え方なのではないでしょうか。

少なくともそのような考えがあれば、偽の救世主にだまされることはないはずです。今の新興宗教の教祖にせよ、あるいは昔からある既存の宗教にせよ、その始まりは教祖が神がかり(それが本当の神か悪魔かは知りませんが)になったとか、いきなり霊界から通信がきたとか言うものばかりで、救世主の条件など一つも満たしておりません。

既存の仏教やキリスト教も親鸞や日蓮の教えが元であったり、パウロの教え(現在のキリスト教はパウロ教と言われております)が元になっているものばかりで、大元である釈尊の教えやキリストの教えを誰も勉強していないのです。(親鸞にせよ日蓮にせよ、またパウロにせよ、百%正しく釈尊やキリストの教えを伝えたわけではありません。またそのような既存の宗教の間違いは改めて書きます)

このような末法の時代だからこそ本物の救世主が、我々の前に姿を現したのです。

0コメント

8月 23 2010

救世主が姿を現す時の条件②

救世主がこの世に生まれ法を説き、昇天される前には、必ず次は何年後にどこに生まれるのかを予言して死ななければならないのです。

この高橋先生の言葉により、①の言い伝えの出所が分かり、その正しさも分かるのですが、しかし、たとえば救世主が昇天されて、十年後にまたこの世に生まれるということは本来は(本来はです。異常事態がこの世に起きている場合はその限りではありません)あり得ないので、次に救世主がこの世に出てくるのは、数百年先から数千年先のことになります。

すると救世主が数百年後にどこの国に生まれると予言しても、数百年も先のことになりますので、それが数百年後のその国に正確に伝わっているかどうか分かりません。それが①の言い伝えが伝わっていたり、伝わっていなかったりする理由です。

言い伝えが伝わっていた釈尊の例を一つ書いておきましょう。

釈尊が生まれる数千年も前から、やがてインドにブッダが生まれるという言い伝えがギリシャの方から伝わっておりました。

このインドにブッダが生まれるという、ギリシャからの言い伝えは一体誰が伝えたのでしょうか?

それがギリシャ神話で有名なゼウスという方です。

一つ断っておきますが、前にも書きましたが、私はこのブログに嘘は書けません。いい加減なことを書くなら、私の命をあの世に引き上げてほしいという祈りを、すでにしているからです。だからこれから書くことは嘘ではありません。高橋先生、園頭先生に教えていただいた事実を書くのです。

このゼウスという方が釈尊の前世であった方です。

今から四千五百年前ギリシャに、ゼウスという悟られた方が出られ法を説いていられました。

この方もやはり多くの人を正しい道に導き、多くの奇跡を起こされました。そしてゼウスが亡くなられる時に「二千年後にインド(当時のギリシャでインドのことをどうよんでいたか知りませんが)に生まれて法を説く」という予言を息子のアポロに残して昇天されました。

ゼウスが亡くなられた後、アポロもオリンポスの山にこもって悟りを開かれ、父ゼウスの後を継いで多くの人々に法を説きます。そのアポロの弟子がアポロに命じられ、インドにシュバラー(ゼウス)が二千年後に生まれるということを伝えました。

そのアポロの弟子たちが伝えたことが元になって、釈尊が生まれる数千年も前から「やがてインドにブッダが生まれる」という言い伝えが伝わっていたのです。

釈尊が生まれた当時、インドには悟られた人という意味の言葉が、ブッダという言葉とシュバラー(アポロ・キティー・シュバラー)という言葉の二通りの呼び方があったのですが、このアポロ・キティー・シュバラーという言葉を直訳すると『アポロという悟られた人』という意味であり、これは釈尊が生まれる二千年前にアポロの弟子たちがインドに来て、ゼウスが二千年後に生まれることを伝えた時に、自分たちの師であるアポロのことも、当時のインドの人たちに語ったのでしょう。それがこのアポロ・キティー・シュバラーという言葉の語源であると思われます。

簡単に書けば以上のような経緯で、ブッダがインドに生まれるという言い伝えが、釈尊が生まれる数千年も前からインドに伝わっていたのです。

0コメント

« Prev - Next »


あなたは人目の訪問者です。