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5月 29 2010

感謝の心

二、三日前に二軍のプロ野球の試合を観に行ってきました。二軍の試合はトンネルありフライのエラーありノーガードの打ち合いありといろいろやってくれますので、一軍の試合とは別な意味で面白いですね。入場料も安いのでまた行こうと思っています。

私がアドバイスしたプロ野球選手も当たりが戻ってきたようで、そろそろボールが止まって見えるのではないでしょうか。今年は四割打てそうですね。(などと言えば、またプレッシャーを感じて打てなくなってもいけませんので、もちろん冗談です〔笑〕)

心配なのはアメリカにいってる投手の方です。それほど悪いピッチングをしてるわけではないのに今年は全く勝てません。何連敗かしておりますがずいぶんツキがないですね。

こういうときにツキを自分の方に持ってくる方法を、もちろん私は知っています。法(神理)を知っている私にすれば、ツキを戻すことぐらい簡単なことですが、別にこの投手がそれを私に聞きにきているわけでもないので、特別ここで書くこともないのでしょうが……まあ、しかし、お蔭様でGTS心の研究所も暇でブログを書くくらいしかやることがありませんので、一つの例として、この投手がどうしたらよくなるのかを書いておきましょう。

この投手は、小さなときからエースで四番でプロに入てもズっーとエースでした。ですから知らず知らずのうちにプライドが山のように高くなっています。アメリカに行っても、このようなプライドは残っていると思います。

しかし、もうこのようなプライドは一切いりません。すべて捨ててください。そうしてマウンドに上がるだけで有難い、そのような場所でボールを投げれるだけで有難いと、感謝の念を強く持ち、自分のチームだけでなく相手のチームにも感謝して、一球一球ボールに感謝して投げることです。勝ちたいとか打たれたらどうしようとか、そのような心を一切持たず結果を考えず、ただ感謝の心を持って投げるのです。

感謝の心が強ければ強いほど、その心が広ければ広いほどよい結果となって、自分に返ってきます。

そういう心を持てるようになりますと、不思議なことも起きてきます。今日はやたらに付いているとか、負けゲームを味方が打って逆転してくれたとか、前回の話ではないですが、天が味方についてくれるようになります。マァ唯物無神論の方々には分からないでしょうが、自分がよくなりたければくだらないプライド(くだらないプライドというのも失礼な言い方ですが、神はそのようなものはまったく評価されませんのであしからず)は捨て、謙虚に感謝の心を持つことです。そうすればよくなっていきます。

このような心になればそれが天に通じ勝ち星がつくようになります。そして天に通じるものは自分の心しかありません。

いずれにしてもその選手には、よくなってほしいと思っています。私がここに書いた心を持てるものなら持って試合に臨んでほしいと思っています。

特別この選手だけではありませんが、よい人生を送りたいのなら、感謝と調和の心を忘れてはならないでしょう。この世はそのようなよい人生を送れるように初めからなっているのです。それをよくないツキのない人生に変えているのは、私たち自身であるということを知るべきでしょう。

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5月 27 2010

天を味方に

前回に書いた唯心有神論の話をもう少ししましょう。

たとえばゴルフなどは山の中の大自然の中でやるのですが、スコアが良いか悪いかは選手の調子もありますが、その時の気象状況やら芝の生え具合やら自然も大きくかかわってきます。

たとえばOBゾーンに飛んだボールが木に当たってフェアウェイに戻ってきたり、グリーンをオーバーしそうになったボールが、向かい風に戻されグリーンにオンしたり、またはナイスショットが風にあおられてOBになったり、特にゴルフは、そのような自然がかかわる影響が大きいと思います。自然が自分の敵になるか味方になるかで、ゴルフの成績も大きく変わってくると思います。

ではその大自然を味方にできたらどうでしょう。ゴルフの成績も大分よくなるのではないでしょうか。

こういう発想は唯物無神論の人たちには絶対出てこない発想であるし、そんなことができるはずがないとバカにされそうですが、唯物無神論の人たちは物しかみてないので分からないのです。バカにする人たちの方がよほどバカなのです。

聖書を見てもそれは分かります。モーゼは天変地変さえも起こせる力をもたれていましたし、キリストもガリラヤ湖の嵐を一喝して鎮められたことがあります。それを見た弟子たちが「この人は天さえもいうことをきくのか」と驚きますが、驚くには当たりません。ブッダであるモーゼやキリストなら、天を自在に操ることなどさして難しいことではないですし、高橋先生や園頭先生も、天気を変えてしまわれたことがあります。

弟子たちはそのことを知らなかったにすぎません。法の勉強さえしていれば、天さえも味方につけることができるのです。

では、どうすれば天が味方につくのか。

それは法(神理)の勉強をしないと分かりません。法を知りそれを実践していくうちに、ゴルフをしていて今日は自然が味方をしてくれているということが、実感されるようになるのです。それはたまたまそうなったというようなものではなく、あきらかに今のは異常だと思えることがよく起きるようになるのです。

モーゼやキリストがなぜ自然を操ることができたのか?

それはモーゼやキリストほどの偉大な心をもたれた方々の言うことは、天も百パーセント言われることに応じます。自然をコントロールしているのは天ですので、モーゼやキリストが思われたことは即座に天に通じ、この世に現されることになります。モーゼやキリストは神と等しい能力を有していました。その力を縦横に駆使して人々を救っていかれるのですから天も逆らえません。心が偉大であればあるほどこの世に不可能なことはなくなっていくのです。

天を味方につけることができるのなら、ゴルフのようなスポーツは、特に不確定要素が多いので非常に有利であると思います。

たとえば前にブログに書きました石川遼君が、ツアー最少スコアの58を出したときもそうです。あれは遼君の実力なのでしょうか。実力であるなら次の試合でも同じようなスコアが出なければなりません。しかし、遼君は自分では調子がいいといっていながら、次の試合では予選落ちしてしまったのです。

ほんの数日前には新記録を出したのに、その次の試合では予選落ちしてしまう。この天と地ほどの差はどこから出てくるのでしょう?それは、新記録を出したときには天が味方になってくれましたが、次の試合ではそういうことがなかったということです。天が味方になってくれたといっても、それは最終日だけの話で、それ以外の日は自身の力だけでやっていたと思われます。あの中日クラウンズの最終日だけ、天が遼君の味方についたのです、でなければ最終日に難しいといわれている和合で、一日で十二アンダーなどという記録が出るはずがありません。他の選手はほとんどスコアを伸ばしていなかったのですから。あの日の遼君はパターのアドレスに入っていても、ギャラリーの動きがよく分かりしかもそれが全く気にならなかった、などという不思議なことも話していました。

あの日、私も現場にいましたが何か不思議なことが起きていたのは事実のようで、あの時なぜ遼君にあのような奇跡が起きたのか、それは遼君自身が気づかなければならないのです。あのような奇跡が起きるのは起きるだけの理由があるからなのです。

モーゼやキリストほどの心の偉大性はなくても、そのような偉大な方の心に近づく努力をしていれば、天はその人の心に応じて協力してくれることになっています。天を味方につけるという方法は、唯物無神論の人には分かりませんが、唯心有神論に考えが変わり法を勉強し実践していかれるならば、自ら分かってくることになります。

それを自分自身で知ってもらいたいと思っています。

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5月 25 2010

唯物無神論と唯心有神論

久しぶりに女子プロゴルフトーナメントを観に行ってきました。ゴルフ選手は朝早くから練習していて、それから試合をして試合を終わってからも練習している選手もいて、よく練習するものだなと感心しました。

しかし、前にも書いたことがあるのですが、朝から晩まで練習してそれで故障しているようでは目も当てられません。それぐらいやらないと勝てないという人もいるでしょうが、スポーツ選手の平均寿命は普通の人に比べると短いといわれます。体を必要以上に酷使するのですから、それも仕方のないことかもしれませんが、最近の女子プロゴルファーはかわいい子が多いので、いかつい男ならともかく、そのようなかわいい子達の寿命が短いというのは残念なことですね。まさに美人薄命です。(意味は全く違いますが〔笑〕)

練習内容を見ていると、ドライバーを打ったりアプローチをしたりパターの練習に精を出している選手もいました。中にはコーチが付き切りで見ていて一球一球アドバイスされている選手もいます。

一球打つごとにアドバイスを受けるなど、まるで赤ん坊のようですね。申し訳ありませんが、このような練習方法はもう時代遅れなのではないでしょうか。こういう練習は二十世紀の唯物無神論の考えそのままであると思います。

技術を磨き体力をつけるのは運動選手にとっては大事なことであると思います。だからそのような練習はしなければなりませんが、ゴルフなどは他のスポーツ以上に自然が大きくかかわってきます。技術と体力がいくらあっても、風の影響を強く受けたり芝目を読み違えたりしていては勝てません。

それでも技術と体力があり、闘争心や負けん気があれば勝てると言われるかも知れませんが、それで勝ってる人は、周りがそのような気持ちの人ばかりだから勝てるのです。周りが闘争心や負けん気の強い人ばかりなら、その中で技術、体力があり、負けん気が一番強い人が勝ちます。それは確かにその通りです。

しかし、そのような心の人たちばかりの中に、ある程度技術も体力もあって感謝と調和の心を持っている人が入ると、闘争心や負けん気の強いだけの人たちでは、感謝と調和の心を持っている人に勝てなくなります。

(それはあるプロ野球選手がそのような心になりつつあり、その選手が非常によい成績を上げているということでも、その事実が分かります)

私が唯物無神論的発想というのは、今のような練習方法は肉体ばかりに比重を置きすぎているからです。

とにかく肉体を鍛え技術を磨けば勝てると、心そっちのけで練習しています。この体を鍛える練習の十分の一の時間でもいいですので、心を磨く時間をとれば、どれほど自分の試合での成績が違ってくるのか、知ってほしいものです。

まだ技術も体力もない人が練習するのは大事なことですし必要でしょう。技術も体力もない人が、いくら心を調和しようと勝てるはずがありません。しかし、もう技術も体力も十分ついているのに、それをもっと伸ばそうと体ばかりに負担をかけ練習しています。これでは体がもたないのも道理だと思います。

肉体ばかりを見すぎているのです。メンタル面をアドバイスするコーチもいるといわれるかも知れませんが、そのコーチの言うメンタルのアドバイスは、唯物無神論的発想ですから、同じ考えの人ばかり集まっている人たちの中では通用しても、私が言う唯心有神論的アドバイスを受けてる人が出てくると、そういう選手には勝てなくなります。

私がアドバイスをしたあるプロ野球選手を見てもそれは分かります。失礼な書き方になりますが、だいたいプロ入りして十年もたってから活躍しだした選手など、二~三年活躍できればいい方で、一年は活躍しても翌年からダメになる選手がほとんどです。一年活躍すれば他球団がその選手を徹底的に研究しますので、ほとんどの選手が活躍した年以降は、活躍した年以上の成績は上げられなくなります。他球団が研究しても活躍できるような選手なら、プロ入りして十年もたって活躍するのではなく、もっと早くから活躍しています。プロ野球の世界はそれほど甘くありません。十年もたってから出てきた選手が、それ以降も活躍できた例はほとんどありません。

しかし、私のアドバイスを聞いたその選手は、十年目で活躍しだしたそれ以降も毎年好成績をあげ、それどころか年をおうごとに成績を上げ今年などはやたらに打っています。今は少し打てなくなっているようですが、どんな状況になろうと神を信じ、やるべきことをやっていれば道は開けてきます。これが唯心有神論の考えです。

断っておきますが、この選手は私が言う法(神理)というものを、ちゃんと分かっているわけではありません。その一部を聞いたにすぎないのです。ほんの少し考え方を変えただけで、大活躍しているのです。それほど法を知るということは素晴らしいことであるし、逆に法を知らずにいる人は恐ろしいことでもあるのです。法を知らずに生きている人は、暗い夜道を明かりもつけずに歩いているのと同じことなのです。

いくらこの選手に素質があったにせよ、プロ野球の世界でこのような活躍の仕方は、唯物無神論的考えでいけば、あきらかに異常であるといえます。

しかし、唯心有神論的考えで言えば、なるべくしてなっていると言えるのです。

唯心有神論の考え方の方が正しいので、唯物無神論の人には起きないような奇跡が起きているのです。正しい考えを持った人に悪い結果が出るはずがありません。

だから私はなるべくしてなっているといっているのです。プロゴルファーの中には、なかなかよい結果が出ない人や長くスランプで悩んでいる人もいます。そのような人は少し考え方を変えてみたらどうでしょうか。技術や体力ばかりつけるのではなく、そして現代の唯物無神論の科学に頼るでもなく、といって既存の宗教に頼るでもなく(なぜ既存の宗教がいけないのかということはいずれ詳しく書きます)真摯に神を思い、これまでの練習方法や自分の思ってきたことを振り返って、反省してみるのもよい方法だと思います。

そのやり方がわからなければ、どうぞGTS心の研究所に連絡してきてください。また新しい道が開けると思います。

最後は自分のつくった心の研究所の宣伝みたいになってしまいましたが、私が言いたいことは自分の運命を変えたければ、皆と同じようなことをしていても変わらないということです。柔軟な心をもって、いろいろ自分で確かめてみることは大事なことでしょう。そのような人だけが人生の勝利者となれるのです。

そして、この世に生まれてきたすべての人が人生の勝利者となれます。人生の勝利者となるために、皆この世に生まれてきているのですから。そのことを教えるのが唯心有神論の教えである法(神理)なのです。

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5月 21 2010

園頭広周師⑧

園頭広周先生著「宇宙即我に至る道」より抜粋します。

<ソロモン群島ニュージョージア島での奇跡

ただ一回だけであったらそれは偶然といわれても仕方がない。だが中支の戦線で体験したことと同じことをニュージョージア島で体験することになったのである。

昭和十八年一月、ガナルカナル島へ転進することになっていた第六師団は、ガナルカナル島(以下ガ島と称す)の部隊が敗退してブーゲンビル島に撤退することになって、急拠予定が変更になり、ブーゲンビル島(以下ブ島と称す)に転進することになった。

           (中 略)

七月十二日、私達の第二大隊はニュージョージア島の南東支隊長の指揮下に入るべしという命令をうけて夜半駆逐艦に乗船、その夜コロンバンガラ沖の海戦と称せられる海戦があって、日米両艦隊の射ち出す砲火を右手に見て全速力でニュージョージア島めがけて南下、夜の明けないうちに上陸しないと、米軍爆撃機の爆撃をうけるので地理不案内な中を上陸、裏ムンダのバイコロ地区に布陣する。

          (中 略)

十九日米軍の爆撃が始まった。一兵も残すまいと絨毯(じゅうたん)爆撃をやる。この島は珊瑚礁(さんごしょう)でできているから深い壕は掘れないからほとんど身体はむき出しである。

        (中 略)

ジャングルは全部薙ぎ倒されて上にはなんの遮蔽物(しゃへいぶつ)もない。集団で行動するとすぐ米軍の偵察機に見つかって爆撃されるので、敵の飛行機の隙間を縫って一人づつしか行動できない。本部の位置を決めてきますといって出て行った書記も、軍医も全部爆撃でやられて戦死してしまった。一人で本部の位置にいてもなんの指揮もできないので、こうなれば第一線の兵隊と同じ壕に入って指揮しないと仕方がないと、飛行機の爆音が聞こえなくなったので第一線に向かって壕を飛び出した。珊瑚礁だから爆撃の跡は大きく穴があいて海水が溜まり、その爆撃の跡の穴の渕にいくと足を取られて這い上がることもできなくなるので爆撃の跡の穴は遠回りしなければならない。五抱えも六抱えもあるような蔦(つた)や葛(かづら)のからみ合った大木が爆撃で根元から、或いは中途から倒されている。その大木の下にジャングルの潅木が押しつぶされている。その大木を越えて向こうへ進むのがまた容易ではない。第一線陣地に向かってなかなか一直線には進めないのである。倒されている大木を乗り越えようとしているところを米軍の偵察機に見つかってしまった。米軍の偵察機は高度を高く取って、そこからエンジンを止めて空中滑走していたのであった。

私は爆音がしなくなったので飛行機がいなくなったと思って壕を飛び出したのであったが、そうではなかったのであった。

突然、頭上に爆音がするので見ると偵察機はガ島の上空に待機していた編隊に信号を送っている。あの編隊が上空にくると自分一人をめがけて爆撃が始まる。だからどこか身を隠そうと思っても隠す所もない。こうなったら仕方がない。運を天にまかせようと中支の長沙作戦の時のことを思い出して幹の中途に爆弾が当たって根元の方だけ高さ五メートル位、根廻りは三人で抱きかかえられる位の大木の根元(ねもと)を背にして坐った。

「われ今、五官の世界を去って神の世界に入る。ここがこのまま神の世界である」

呼吸を整えて神の世界を念じ、神の世界は殺す者も殺される者もなく既に大調和であることを念じ、自分の坐っている背の高さよりも大き目の神の光が全身を包んでまん丸く輝いている状態を心の中に念じた。

「ここがこのまま大調和の世界である。われを殺そうとするものは、わが雰囲気の中に入ることはできないのである。」

         (中 略)

私はこの時、自分が、神の光の中に包まれていることを想念し、信じた。神の心の中には「相手をやっつけて殺す」という想念はない。中国兵が射ち出す砲弾の中にも、アメリカ兵が落とす爆弾の中にも、「日本軍をやっつけて殺そう」という想念が包まれている。

自分が、神と一体である、神に守られているという想念を持つと相手をやっつけようとする想念とは波長が合わなくなってくる。

神の想念と、相手をやっつけようとする想念と、どちらが強いかというと、それは神の想念である。だから、神の想念の前には砲弾も爆弾も破裂しなくなるのである。

上空に遮蔽(しゃへい)するものはなにもない。やはり飛行機が気になる。見るとはや爆弾が胴体から離れて「シャーッ」と空気を切って落ちてくるのが見える。逃げたい、かくれたい、死ぬかも知れぬ。一瞬浮かんだ不安の想念をパッと切り捨てる。その瞬間に「神」を想念するのである。最初二、三発落とされた時はやはり死にたくない、このまま死ぬのは残念だ、助かりたいという本能的な死を回避しようとする心が起こって上空を見上げていたが、「もう死んでもいい」と腹を決めて目をとじたまま瞑想を続けた。爆撃を受けた経験を持った人でないとその物凄さはわからないが、「グワン グワン」というその爆裂音は実に物凄い。

私一人を目がけての爆撃が一時間位続いた。その時は五機編隊だった。先の編隊の爆撃が終わる頃にはつぎの編隊はその上空に待機していて、前の編隊機の爆撃が終わるとすぐつぎの編隊が爆撃するのである。ふしぎなことが起こり始めた。私の前に後ろに遠くに落ちるのはみな破裂するのに、私の近くに落ちてそれが破裂したら木っ端微塵に吹き飛んで死んでしまうというような近い所に落ちるのは、みな破裂しないのである。

南方の夜は早い。はや地上には夕闇がしのび寄ってきた。爆弾を落とす時には飛行機が急降下してくる。急降下してくるのは飛行機のエンジンの音と、空気を切る音でわかる。するとポロッと爆弾が胴体を離れてこちらめがけて一直線に落ちてくる。その度に「神に守られている」と想念するのである。

「グワーン」と一発目が目の前に落ちた。一瞬私は気を失っていた。爆風にやられたのである。ハッと気がついた。見ると腰から下は珊瑚礁の粉々(こなごな)になった白い土に埋(うず)まっている。「どこかやられているかも知れぬ」と思って両腕を、そして手で首の辺りを撫でてみたがどこも血は出ていない。爆弾の落ちた穴は二〇メートル位前にある。あそこに落ちた爆弾が破裂してやられなかったとはふしぎである。爆弾の破片はどう飛んだんだろうかと思って背にしていた幹を見ると、私の坐っている鉄甲の高さすれすれの所から上の方へ、びっしりときらきら光っている鋭い刃物みたいな破片がいっぱい突きささっている。もう五センチでも10センチでも下に飛んでくると私は頭か顔を砕かれ死んでしまっているところであった。

爆弾は全部落とし終わって、その爆弾が最後だった。私は死なずに健在であるのを見た編隊は、今度は二00メートルの低空で私めがけて機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を始めた。五機が海岸の方へぐるっと廻っては機首を向けて突っ込んできて機銃を射ってくる。それがどういうわけかその弾丸は私の前五メートル位のところに射ち込まれて私の坐っている所までは届かないのである。私の頭の上には空(から)の薬莢(やっきょう)だけが「カラカラッ」と音を立てて落ちてくる。機銃掃射をしている間に闇は地上10メートルを覆った。上空だけはまだ明るい。それでも私がまだ坐っている。最後の一機はジャングルすれすれに五0メートル位の超低空で飛んで来て、風貌硝子(ふうぼうがらす)をあけて手榴弾を叩きつけてガ島の方へ引き上げて行った。

私はまた神に守られたのであった。>

園頭先生が神の実在を信じ、自分の体の廻りに黄金色の神の光の輪を想念して禅定されると、敵が攻撃してくる機銃掃射や爆弾が、園頭先生の体を傷つけることはありませんでした。

これはなにも園頭先生だけに特別このような現象が起きたということではなく、インドの古代史の中にも戦場で禅定し、まったく傷つかなかった兵士の話がでてきますし、戦国時代の武将で有名な上杉謙信も、自分は神に守られているということを証明するため、敵の前に座り込みそこで酒を飲んでいるだけなのに、敵が矢や鉄砲をいくら打ち込んでも、謙信に傷一つ負わせられなかったという話もあります。この場面はNHKの大河ドラマの中にも出てきましたが、謙信がなぜ神を信じていたかというのは、また機会があれば書きます。

このように神の実在を信じ神の力を信じていれば、誰にでも奇跡は起こるのです。

もし園頭先生が神の実在を信じて戦場で禅定中、途中で怖くなり逃げ出していたとしたら、機銃で撃たれるか爆死していたでしょう。なぜなら途中で逃げ出すという行為は、神を疑う行為であり神を信じきらないと奇跡も起きないからです。邪念があっては奇跡は起きません。

こういうことを知っておくと、たとえば野球の選手などがバッターボックスに入って、神の光の輪を自分の体の廻りに想念すれば、体の近くにボールが飛んでこようとデットボールにはならないということになります。デットボールの恐怖心がなくなれば、バッターはもっと打てるようになると思いますが、なかなかそのような心になるのも難しいと思います。

しかし、神を信じそのような想念をもって打席に入っていると、神に守られ奇跡が起きます。園頭先生のように鉄砲玉や爆弾が飛んでくるわけではないので、野球で命まではとられません。一杯一杯の心にならず少し余裕をもって、よけいなこと(邪念)など考えず、その時その時にベストをつくせばおのずと結果はついてくるでしょう。

話が横にそれましたが、園頭先生は神の実在を信じ、それを自分の体を通し証明せしめたまえと祈られた結果、戦場で大奇跡を体験されたのでした。

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5月 18 2010

園頭広周師⑦

軍隊では毎週月曜日に一時間、中隊長は精神訓話をすることになっていました。精神訓話をして中隊全員の意識を統一させることが、中隊長の重要な任務の一つであったからです。ところが中隊長であった園頭先生の話の内容が、宇宙即我の体験をされてからガラリと変わってしまいます。体験されたばかりの宇宙即我の話や人間は神の子であるという話をされるのですから、兵隊たちも戸惑ってしまいました。

そんな話ばかりされるようになった園頭先生の耳に聞こえよがしに入ってくるのは「うちの中隊長は病気をしてから頭がへんになった。神があるとか、人間は神の子であるとか、どうもおかしい」ということだけでした。

こうした空気、雰囲気を解消し、中隊長が話したことは事実である、ということを部下に信じさせるには自分自身が神の実在を証明する以外にない、と考えられた園頭先生は次のように祈られます。

「神よ、神が実在ましますことを、私の体を通して証明せしめたまえ」

園頭先生は、神の実在を多くの人に知ってもらえることを願い、このように祈られました。しかし、このように祈られたことにより、園頭先生ご自身が、戦場でそれこそ命がけのものすごい体験をされることになったのです。

園頭先生が所属されていた鹿児島の歩兵第四十五連隊は、昭和十六年九月、中国で第一次長沙作戦を行うことになりました。

第一次長沙作戦とは、中国第九戦区(長沙方面三十七万その他十三万)を撃破する目的を以て四ヶ師団で行われた作戦です。この時園頭先生が所属されていた鹿児島歩兵第四十五連隊は新墻河を渡河され前進しました。

園頭広周先生著「宇宙即我に至る道」より抜粋します。

<第一次長沙作戦での奇跡

      (中 略)

私は配属されていた山砲中隊(砲二門)を山の上に上げて退路遮断のために砲撃を命じ、大隊長の命令でいつでも攻撃前進できるように山の上に布陣した。

敵はそのままだと追いつめられて殲滅(せんめつ)させられるから、日本軍の前進を食いとめるために向こう岸に迫撃砲を据えてこちらに向けて射ち出した。ポーンと発射音がするとそこから砲煙が上がるから敵の迫撃砲の位置がよくわかる。そこにめがけてこちらから山砲を射ち込む。敵の迫撃砲は十三門にふえた。こちらは二門である。そのうち敵の迫撃砲の一発が山砲の直前で破裂して、山砲の砲身の中に砂が入って発射できなくなった。迫撃砲弾で山砲の馬がやられた。最初は山の前方に後方に遠くに落ちていた迫撃砲弾が、だんだん私のいる山頂に集中しだした。私が「ここにおれ」と命じていた兵隊達が、余りに砲弾が飛んでくるので、その砲弾を避けようとして私が命じていた場所から山の下へ下りかけようとした。そのとたんその真ん中に一発炸裂して一ぺんに八人重軽傷者が出た。負傷者の仮手当てをして後方へ担架に乗せて下げる。

負傷者が出たことで中隊は一瞬動揺した。連隊主力が前進してくるのを待ったが、二キロ後方にいた連隊主力は第二十三連隊寄りに方向を変えてしまって、私の中隊は孤立することになった。その時である。「坐れ」という声が天から聞こえてきた。

こちらから敵の迫撃砲陣地が見えたのであるから、双眼鏡で見れば向こうからは私が山上で瞑想、禅定している姿が見えた筈である。

「坐れ」という声を聞いたとき、これで神の実在を証明できるんだと、一瞬の間に思った。

鉄甲(てつかぶと)をかむったまま、胡坐(あぐら)をかいて軍刀を肩に立て掛けて私は坐った。

「今、ここがこのまま神の世界である。われは神に守られている。この瞬間われは敵と戦うという意識を捨てて、神の大調和の世界に入るのである。神の世界は平和である」と、自分の身体の回りに神の光の輪を描き、この神の光の輪の中には絶対に敵の砲弾は入ることができないのであると念じたのである。恐らく敵の方からは山上に坐っている私の姿は見えたであろう。一門残っていた山砲もそのうちに射てなくなってしまった。

「ボーン」という発射音がするとすぐ頭上を空気を切って飛んでくる迫撃砲弾の「ヒュルヒュル」という音が聞こえる。すると前と後ろで「グワン」と破裂してその砂塵が身体を覆う。

「ヒュルヒュル」と空気を切って飛んでくる砲弾の音が耳に入るとその瞬間、あの砲弾が破裂したら自分のこの肉体は木っ端微塵(こっぱみじん)にふき飛んで戦死だ、どこかへ隠れよう逃げ出そうという思いに駆られるのである。恐怖心が起こるのである。恐怖心が起こった瞬間、その恐怖心をパッと切り捨てるのである。切り捨てた瞬間、「ここがこのまま神の実相の世界だ」と呼吸をとめて想念するのである。書くと大分時間がかかるように感ぜられるけれども、それはまさに一瞬の間である。

遠くに落ちたか近くに落ちたかは目をつむっていても音でよくわかる。地面にずしんと突きささったその振動が尻に伝わってくる。今に爆発しはしないかと思っていると、ふしぎにも近くに落ちたのは破裂しなかった。何十発砲弾が飛んできたかわからない。

すると、砲弾が飛んで来なくなった。砲煙が薄れた。見ると廻りには部下は誰もいなかった。あまりにも砲弾が飛んでくるので部下達は砲弾の飛んでこない山の下の方へ退避していたのであった。一番先に山の下から私のところへ上がってきたのは指揮班長の加藤准尉であった。「中隊長殿、ご無事でしたか」といった。

敵の砲弾が飛んでこなくなったのは、都城の第二十三連隊が敵よりも早く渡河して敵の背後に出たためであった。この殲滅戦で第二十三連隊は感状をもらったのであった。

私はこの体験によって、神と一体感を持った時の人間の想念の力が、どんなに偉大なものであるかを教えられた。

このことがあってから「うちの中隊長は若いが豪胆だ」といわれるようになった。>

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