>>ブログトップへ

5月 17 2010

園頭広周師⑥

宇宙即我の境地にも段階があります。お釈迦様やキリストや高橋先生が悟られた境地と園頭先生が悟られた境地では、その段階が違っていました。(それでもすごい境地なのですが)

キリストや高橋先生が悟られた宇宙即我の境地は、宇宙即我の境地になられた時点で、この世のすべてのことを悟られたのですが、園頭先生がなられた宇宙即我の境地は、そこまですべてのことが分かられたわけではなく、限定的なものでした。宇宙即我の境地も心の広がりで分かることが違います。キリストや高橋先生のような心の広がりがあれば、すべてのことが分かってきますが、園頭先生はまだそこまでの心の広がりはありませんでした。

園頭先生が宇宙即我の境地になられ実感されたことの一つに、キリストが説かれた“愛”がありました。

園頭広周先生著「宇宙即我に至る道」より抜粋します。

<「神は愛なり」の真の意味

その考えの中でわかってきたことは、キリストがなぜ「神は愛なり」といわれたかということであった。

「愛」とは相手に対する全面帰投であり、自他一体の感情だといわれる。全面帰投とは、自分を相手の中に投げ入れて、自分がなくなって相手と一つになり、相手そのものになる感情である。それが自分と他人との区別がなくなって相手と一体となる感情である。

だから愛している者同志の間では、相手のすべてを受け入れ、相手のいうすべてのことに従おうとする心が働く。愛する人のいうことはどんなに困難なことであってもそれを受け入れて実現してやりたいと思う。

よその赤ちゃんのうんこは汚いと思うが、自分の赤ん坊のうんこは少しも汚くない。それは自分の赤ん坊は愛しているが、よその赤ちゃんには自分の赤ん坊ほどの切実な愛を感じていないからである。愛のあるところには「汚い」という感情はなくなるのである。

このように「愛」についていってきたことは、愛についての心理的な説明であって「なぜ愛でなければならぬのか」という説明にはなっていない。それは「真」についても「善」についても「美」についても同じである。

哲学は、知性で知的な立場で真理を追究しようという学問である。哲学では人間の理想は「真・善・美」の追求にあるという。確かに人間は不誠実より真実を、悪より善を、醜よりも美を求める。それは間違いない。それも人間の持つ心理の説明であって、「なぜ人間は真善美を求めるのか」という本質的な説明にはなっていない。

これは「悟り」についても同じことである。宗教家はよく「悟りなさい」という。悟りの状態については、心が静かになって一切の執着、怒りの炎が消えた状態、それを涅槃というという説明は行われている。だが「なぜ人間は悟りを求めるのか」という根本的な問題についてはまだ誰も説明した者はいないのである。

ではなぜ「神は愛なのか」、なぜキリストがそういわれたのであるか。

宇宙即我に到達するとはじめてわかるのは、人間すべて神の子であり、神の生命を生きている兄弟なのであるということである。人間はすべて神の生命において分(わか)かち難(がた)き一体なのである。その「生命の一体」、一体だから切り離してはならないのであって一つに結びついているものの感情、それを「愛」というのである。愛の自覚は肉体を超越した自覚である。肉体を自分だと思っている間はこの真の「愛」の自覚は得られないのである。

人と人とを結びつけている一体だという自覚、この自覚が切り離される時にわれわれは心に痛みを感ずる。それが別離の自覚、別れの悲しみであり、愛が失われる時、人々は生きていく勇気を失い、思いつめると自殺にまで至るのである。

この「生命一体」の自覚が分かったことを「悟る」というのである。

そうして「愛」が「真実」であり、それはまた「美」であることもわかるのである。>

「悟る」とは生命の一体を自覚し、「愛」が真実であり美であることも分かってくると書かれてあります。

すると愛している人とは一緒にいたいし、その人の前では正直でありきれいでありたいという感情は、悟りへの一歩ということになります。その思いが深まり広がっていくと悟りが開けるということになりますが、現在このような真の愛の心を持っている人はどれくらいいるのでしょう。

愛している人と一緒にいたいし、その人の前では正直できれいでいたいと思うのは普通の感情です。誰でも好きな人とは一緒にいたいし正直でありたいしきれいでいたいものです。しかし、現代の夫婦は好きで一緒になった人がほとんどのはずなのに、仕事に失敗して借金ができれば別れる、夫が定年退職したとたんその退職金目当てで別れる、なかには性生活をするのにもお金を取る人までいて、ほんとに夫婦なのか、強盗なのか売春婦なのか見分けがつかない人もたくさんいます。

このような人たちに「愛」とは何かを聞きたいものですが、こういう人たちは真実の「愛」というものを知らないのです。

真の愛とはキリストがいわれた「愛」であり、園頭先生が自覚された「愛」であるのです。

人と自分は皆、神の生命から別れた神の子であり一体なのである。園頭先生は、そこが戦場であることを思われました。敵が弾丸を撃ってくれば、こちらも撃たなくては殺されてしまいます。同じ神の子同士で殺し合いをしているのです。

園頭先生の世界平和への熱望は「宇宙即我」を体験したのが、戦場であったということから特に強く思われることになったのです。

0コメント

5月 14 2010

男と女の違い

二~三日前に野球の券をもらえましたので、野球を観に行ってきました。

GTS心の研究所は閑古鳥が鳴いていますので、券がもらえなければ、そんなにしょっちゅう野球も観にいけません。まったく不自由な毎日を送っています。

メンタルアドバイスに出てくる選手ですが、今年は非常によく打っているようです。この観に行った日もヒットを打っていたのですが、何かに憑かれたようにヒット量産中という感じですね。

この選手は私がしたアドバイスを、あまり疑いもせず素直に聞いたようで、それが今のような結果となって現れているように思えてなりません。(野球素人の野球に対するアドバイスを素直に聞くプロ野球選手というのも珍しいのでしょうが)

たとえば私のこのブログを、一組の男女が真剣に読んでいたとします。すると男の方には奇跡が起きますが、女の方にはなかなか奇跡が起きません。それは次のような理由があるからです。

前に書いた遼君もそうですが、男はわりと単純にできていて、自分がよいと思ったことはそれがストレートに心の奥に入ります。するとそれがほんとによいものであるのなら、そのよいものが天に通じて奇跡が起きます。それに対して女は違います。男より業が深いので仮にそれがよいものと分かっていても、それが心の奥まではなかなか届かないのです。心の奥まで届かないと奇跡は起きてきません。

それは次のようなことからでもその事実が分かります。

あるところで絶世の美女と美男子が一緒に歩いていたとします。するとそれを見た男はストレートで絶世の美女に目が行きます。横にどれほどかっこいい男が立っていようと、その男には興味がわきません。絶世の美女にしか興味がないのです。マァ、非常に男は分かりやすいのですが、これに対して女は違います。

絶世の美女と美男子が一緒に立っていたとしますと、女はまず絶世の美女の方に目が行きます。その絶世の美女をひとしきり見た後、初めて横の美男子に目をやります。男から見ると不思議でなりませんが、一人や二人の女がこのような態度をとるというのではなく、ほとんどの女が同じことをするのです。このような態度は一体何を物語っているのでしょうか?

それは、男以上に女は欲が深いということです。こう書くと女の悪口を言っているようですが、そうではありません。女の人にも奇跡を起こしてほしいので、嫌われるかもしれませんが、本当の女性の内面を書いているのです。

男と違って女は異性だけでなく同性も非常に気になるらしく、その同性がどのような化粧や服をしているのかなど、気になって仕方がないようですが、こういうよけいなことを考える分、男より欲が深いということになります。

男女の性質の違いといってしまえばそれまでですが、こういうところを直して法を素直に聞けるようになると、不思議な奇跡が起きてきます。

メンタルアドバイスをした選手も、その選手が四割を打ちたいと思うならば、五割打つことを目標にすることです。そうすればその目標に一割足らなくても、四割は打てることになります。過去に四割打った選手はいないから四割を打つのは無理だとは、決して思わないことです。過去のプロ野球選手は法を知らずに野球をやっていましたが、メンタルアドバイスをした選手は法を知っています。

これからは正しい法を素直に聞く人には大きな奇跡が起きてきます。そのような人が一人でも多く出てきてくれることを願っています。

0コメント

5月 13 2010

善因善果悪因悪果

あまり死ぬの生きるのと一杯一杯の話ばかりしていてもいけませんので、私の失敗談を少し書いてみます。

私はあまり悪いことはできません。

というと何か私が特別人よりいい人間で、聖人君子だからと思われそうですが、そうではなく悪いことをするとすぐにお返しが来るからです。

これは私だけがそうなるのではなくこのブログを読まれている人、皆そういうめにあっているのですが、ほとんどの人がすぐにお返しが来るわけではないので、そのことに気づいていない人が多いのです。善因善果悪因悪果の具体例を書いてみたいと思います。

もう何十年も前からでしょうか、私はある程度のことはいいのですが、度を超えた悪いことをすると、わりと早くお返しがありよく反省させられます。

たとえば、父と大ゲンカして車を運転していたときのことです。ガソリンが減ってきたのでスタンドに入ろうと歩道に乗り上げたのですが、そのとたん左の後ろ側のタイヤがパンクしました。ちょうどスタンドだったので、そのパンクも直してもらおうとスタンドの店員に頼んでおきました。

私がスタンドの売店で時間をつぶしていると、先ほどの店員が来て「パンクしたタイヤなのですが、タイヤの横が裂けていて直しようがありません。あのタイヤは新しいものとかえるしかないですね」といわれました。

車のタイヤがパンクするくらいはよくある話ですが、そのときに限ってタイヤの横の部分が裂けてしまい、タイヤを丸々一個交換することになったのです。

その時「ああっ、親父と大ゲンカしたのがよくなかったなぁ」と反省したものです。偶然そうなったのではないかと思われるかもしれませんが、私はこういうことがよく起こるのです。何か悪いことをした日に限って、乗っていた自転車がパンクしたり、あるいはどこかの店に入ると、そこの店員に嫌がらせされたり、そういう日に限って図ったように悪いことが起きるので、あきらかに何かが作用していると分かるのです。

またこんなこともありました。

私はよく不思議な夢をみるという話を前に書きましたが、実はこんなこともあったのです。

もう何年も前の話です。私はその日、立小便をしました。このブログは女性(有名な?)も見ていますので、あまり下品な事は書きたくないのですが、嘘を書いても仕方がありませんので事実を書きます。

その立小便は、もようしてきてどうしても我慢できなくなってしたものではなく、マァ、どっちでもいいけどしておけ、という程度のものでした。それも人の家の壁というか、すぐ近くでです。それでも山の中とか原っぱならまだやよかったんでしょうが、した場所もよくありませんでした。

している最中に「こりゃ、まずかったかな」と思ったのですが、いまさらやめれないし戻せません。(笑)

その後、自転車に乗ろうとすると、その自転車がひっくり返っていて少し壊れていました。何かいやな感じがしたのですが、その夜、奇妙な夢をみました。

フッと気づくと私はある洞穴に立っていました。その洞穴は私が前に来たことがある所でした。なぜ私がそのように思ったかといえば、その夢をみている数年前にも同じような夢をみていたからです。

もう、どんな悪いことをしたのか覚えていませんが、何か悪いことをしたということだけは覚えています。その時みた夢は次のようなものでした。

私は気づくと暗い洞穴の中にいました。暗いので周りがどうなっているか分かりません。何か足元がむずむずしたので下を見ると、その洞穴の床には多くの虫がびっしりと這っていました。(それだけでもゾッとしますが)その這っている虫が、私の足から上に上がってこようとしています。「ゲッ」と思った私は、その虫を払おうと片足を上げ手で虫を払い落としていましたが、そのうちによろけて手を洞穴の壁につけました。

フッと手をついた壁を見てまた驚いたのですが、その洞穴の壁一杯にうじゃうじゃ虫がいて、今度は手をついたその手から虫が這ってきました。手や足についた虫をワァーワァー言いながら払い落としているところで目が覚めたのですが、朝起きても気持ちが悪く鳥肌も立っていました。悪いことはするもんじゃないなとつくづく思いましたが、その時にいた同じ洞穴に私は立っていました。

夢の中の私は、今立っている洞穴が前に来たことがある洞穴だと知っていて「あっ、ここは前に来たことがある」と気づいています。

周りを見渡すと案の定、虫がうじゃうじゃいて気持ちが悪いこと、この上なしです。

底にも虫がうじゃうじゃいて気持ちが悪いので、私はつま先立ちで立っていました。フッと気づくと目の前に人が立っています。誰か分からなかったのですが、その人の手にパンのようなものが握られていて、それがとてもおいしそうでした。その人がその手に握られているおいしそうなパンのようなものを私に渡します。

普通この状況で、あまりものを食べるという気は起きないと思うのですが、その時私は、その渡されたパンのようなものを、あまりにおいしそうだったものですから、パクリと一口食べてしまいました。

一口食べた私は、まだ手に残っているおいしそうなパンのようなものにフッと目をやりますと、なんと私が手に持っているおいしそうなパンのようなものは、カエルの下半身に変わっていて「ゲッ」と思ってそれを捨てて、食べたものを口から吐き出すと、口からカエルの上半身が二つも三つも出てきました。

私がゲェーゲェー戻しているところで目が覚めたのですが、それから一週間ほどは、何か物を食べるとそのカエルを思い出して、気持ち悪くて食欲もわきませんでした。その時はさすがに、「立小便くらいでこれはやりすぎだろう」と天を恨む気持ちにもなりましたが、悪いことをした私が悪いのであって、天を恨むのはお門違いです。

私はこのような体験を何度もしておりますので、この世がすべてといわれる唯物論の人の考えが全く分かりません。この世界はこの世だけでなく、別な世界もあり、それが何かの作用を与えている、と体験上分かるのです。

法を知ると、このようなことも起こって大変刺激的な毎日(笑)を送れて、いろいろ教えていただけます。しかし、悪いことは何が起こるかわかりませんのでできなくなります。

法に興味をもたれた方は、ぜひ勉強してみてください。そうすればここに書いた悪いことばかりではなく、よい行いをすれば不思議な奇跡も体験できることになります。 (野球の券がもらえましたので今日は野球を見に行くことにします)     

0コメント

5月 08 2010

法を伝えるということ

最近、少しではありますが私のホームページを見る人が増えたような気がします。私のホームページを見ている人が、周りの人に勧めてくれたのかも知れませんが、ありがたいことです。人に勧められて私のブログを読み、仮にその人が「なんじゃこれ」と思われてそれ以上私のブログを読まなくなったとしても、私のブログを勧めた人は徳を積んだことになります。

なぜなら勧めた人が一度でも私のブログを読めば、高橋先生や園頭先生が説かれた法をその人は知ることになります。仮に、その人が一度私のブログを見ただけでそれ以降一切見ることがなくても、その人の心の中には法の種がまかれることになり、その種がいつか芽を出すことになるからです。人によってはそれが、今生ではなく来世になるかも知れませんが、その人の心が整ったときに確実に法の芽は出てくることになります。

すると私のブログを人に伝えた人は、今生だけでなく来世まで徳を積むことになり、これほど得な話はありません。大いに私のブログを宣伝していただきたいものですが、前回私は心の世界を説く人の責任は重大と書きました。

では責任重大な心の世界の話をしている、私の言っていることは正しいのでしょうか?

あれはダメこれもダメと批判して、ではお前の言うことに間違いはないのか、ということになりますが、少なくとも悟りをひらかれている高橋先生や園頭先生の法には間違いはないでしょう。間違いがあるとすればそれを伝える私にあると思います。現実に高橋先生や園頭先生の名を使って人を集めている人はたくさんいますし、高橋先生の名を使って多くの人を集め大教団になっているところもあります。そういうところが正しく法を説いているかといえば、高橋先生や園頭先生の名を利用して人を集めているのですから、高橋先生や園頭先生のいわれたことを、そのままいっている部分は正しいのですが、自分の我をいれてしゃべっている部分は正しくないということになります。つまりそのような教団は正しく法を説いている部分もあり、正しくない部分もあるということです。ということは正しくない部分があるなら、その教団は正しい法を説いている教団ではない、ということになります。

少しでも間違いがあるのなら、それを正しいとはいいません。心の世界、特に如来が説かれた法を伝えるということは、それほど厳しいことなのです。

高橋先生は、自分が説く法のことを『神理』という言葉を使われました。しかし今まで長い間、宗教、哲学、思想関係では『真理』という言葉が使われてきました。高橋先生は「正法は神がつくられた法(理)であるから人間の我の介入は許されない。だから私の説く法は神理という言葉を使うのである」といわれました。

つまり如来の説く法とは神がつくられたものであり、神の心がそのまま言い表されているものなのです。だから高橋先生は自分が説かれた法のことを『神理』といわれたのです。この『神理』という言葉は、神の心を最もよく知るブッダと呼ばれる方だけが使える言葉であり、園頭先生でさえ『神理』という言葉を使うのをためらわれていたほどです。

ところが、高橋先生の説かれた教えを真似て自分の我の入った教えをいい回り、平気でこの『神理』という言葉を使ってニセの教えを説く輩が増えたため、これ以上高橋先生の教えを曲げてはならないということで、園頭先生もやむなくこの『神理』という言葉を使われたのです。

しかし園頭先生がためらわれるほど『神理』という言葉は深く重いものなのです。

先ほどの話に戻りましょう。「では、お前の言うことに間違いはないのか」ということですが、大丈夫です。私のいうことに間違いはありません。

なぜなら私は、高橋先生と園頭先生の説かれた法を伝えようと決めたときから、既に次のような祈りをしているからです。

「神よ、もし私が法を間違うようなことがありましたら、あの世に引き上げてください」

このような祈りは正しいのできかれます。

私は自分の命などとっくに神に預けてあります。だからこそ自信を持って高橋先生や園頭先生が言われたことは正しいと言うし、ああいう言い方はおかしい、この言い方はおかしいと言っているのです。高橋先生や園頭先生の名を語り、人を集めている人の中で、一人でも私のような祈りをしている人がいるのでしょうか?現在ある宗教団体の中の教祖や神の言葉を語るといわれる人で、一人でもこのような祈りをする人がいるのでしょうか?多分いないでしょう。こんな祈りをその方々がすれば、多くの人が死ぬことになるからです。

如来でもない者が、精神の世界、心の世界を説くということは非常に危険なことなのです。間違ったことを説けば、それを聞いた人の心を腐らせます。この世で人の心を腐らせる以上の罪はないのです。心の世界を説く人は私のような祈りをしてから説いてほしいものです。「神よ、私の説いているものが間違いでしたら、私をあの世に引き上げてください」と。

少なくとも私はまだ生きております。(死のうと思っても死ねなかったくらいですから)ということは現時点では私の言っていることは正しいということになります。

ですから、このブログを読んで、これは人に伝えてもいいと思われた方は、自信を持って人に伝えてほしいと思います。

法を曲げることが、どれほど大きな罪になるのかを知らない人も多いのですが、正しい法を伝えることが、どれほど大きな徳となるかを知らない人も多いからです。

0コメント

5月 07 2010

なぜ宗教家の罪は重いのか

ある方から「園頭広周師③で、同じようなことを言っても、政治家と宗教家では宗教家の方が罪は重いと書かれてありますが、同じようなことを言ったのなら罪も同じなのではないですか」という質問がありましたので、今回はそれに答えることにします。

たとえば宗教家と政治家が、同じ間違ったことを言ったりやったりしたとします。すると政治家の場合はその人が属している党や支援者以外の人たちから、それを指摘され集中砲火を浴びます。(今、問題になっている政治家たちがよい例です)したことによっては属している党や支援者の中からも間違ったことを指摘されることもあり、良い悪いがはっきり分かります。

それに対して宗教家の場合は、その人が教祖で大勢の信者がいたとしますと、その教祖が間違ったことを言っても、信者のほとんどの人たちが、教祖の言ったことを間違いと思わずそのまま信じてしまうのです。

たとえば国会で(政治家がこういうことを国会で言うはずないのですが、あくまでたとえばの話です)「性は罪悪だから、みなさんそういうことはしないようにしましょう」と言ったとします。

すると他の党の人たちから「性が罪悪で皆がしないようになったら、子供が生まれてこなくなり、この世が滅んでしまうではないか」「(性を罪悪と言った人が家庭を持ち子供がいる場合)人には罪悪でするなといいながら自分はしているのか」「性が罪悪という根拠を言え」など、まっとうな議論がなされ、そのことが間違いだと分かります。

ところが同じことを宗教家が言うと、それは正しいと皆が思ってしまうのです。

大教団の教祖が家庭を持ち子供もいるのに、「性は罪悪です」と堂々というと多くの信者が、それをそのまま信じます。これを教祖の無謬性(むびゅうせい・その教祖の言うことに誤りはない間違いはないと言う意味)といいます。(オウム真理教が起こしたサリン事件などでもその事実がよく分かります)

つまり同じ間違ったことを言っても、政治家は間違いを指摘され、宗教家はそれが正しいと思われてしまうのです。すると間違いを正しいことと信じ込まされた人たちはどうなるでしょう。性を罪悪と思わされた夫婦は、性生活を行うのも罪の意識を伴います。なかには性生活をしなくなる夫婦も出てくるでしょう。結婚しない人まで出てくるかも知れません。宗教家が間違ったことを言えば、それを聞いた人の生活はもちろんのこと、その心まで蝕んでしまうのです。

私が同じようなことを言っても、政治家より宗教家の方が罪が重いといったのは、このような理由からです。

政治家の言葉は現実社会を支配しますので、現実的に考えられまっとうな議論がなされます。たとえおかしな政治家が、おかしな政治をしても物質的には困ることはあっても、人の心まで蝕むことはありません。ところが宗教家の言葉は精神的な部分を支配します。仮にそれが物質的には損をしなくても心は蝕まれます。

人にとって一番大事なものは心です。心がいくら健康でも、食べるものがなかったり病気をしていたら不幸ではないか、だから肉体の方が大事だ、と言う人もいますが、それは違います。人は健康な(まともな)心さえ持っていれば、何とか働けますし、病気といってもその病気に負けない心をその人が持つならば、決して不幸ではないはずです。

体がどんなに健康でも、たとえばうつ病にでもなればまともに働くことができず、憂鬱(ゆううつ)な毎日が続きます。心に大きな悩みがあれば、お金がたくさんあり毎日うまいものを食べたとしても、それを幸せとは感じないでしょう。つまり、すべての元は心にあるのです。

この世で一番悪いことは、人の心を蝕むことなのです。殺人を犯す人は人の肉体を殺しますが、心までは殺しません。しかし、間違った宗教家は人の心を殺します。したがって間違った宗教家の罪は殺人者よりも重いのです。しかし、この世では殺人者の罪は裁かれますが、間違った宗教家の罪は問われません。

このことは心の世界を勉強しないと分からないかもしれませんが、それほど心の世界を説く宗教家の責任は大きいのです。

精神の世界、心の世界を説く人の責任の重大さを知ってください。

0コメント

« Prev - Next »


あなたは人目の訪問者です。