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4月 12 2010

祈りと布施

祈りや布施というと何か抹香くさい響きを感じ、縁遠いもののように感じますが、そんなことはありません。お寺などに行って、お参りしてお賽銭を投げるのも祈りと布施の行為ですし、何かに寄付するというのも布施の一つの行為です。

しかし、この祈りや布施するという行為一つとってみても、現代の人は間違ってやっている人が多く、正しい祈りや布施の行為を行っていません。

普段無神論を言っている人が、正月に限っては初詣に行っています。無神論をいっている人が初詣に行って、一体何に対して祈っているのでしょう。神様などいないと言っている人たちなのですから、何もないところに祈っても意味がないのではないでしょうか。普段神などいないといっている人が、正月だけは神社やお寺に行って一生懸命祈っている、矛盾も甚だしいですね。しかも、十円か百円をお賽銭で投げただけで、家内安全、交通安全、よい大学に入れますように、大企業に入社できますように、よい結婚ができますように、なかには宝くじが当たりますように、という祈りをしている人もいます。

わずか十円や百円を賽銭として布施しただけで、何十万も何百万もかかることを普段は神などいないといっている人が、平気で神に祈るのです。厚かましいにもほどがあります。しかも欲望丸出しの心でです。現代の人々は、このような祈りが恥ずかしいことだとは露ほども思いません。それは現代は現世利益信仰が、当たり前のようになっているからです。

しかし、前にブログにも書きましたが、このような心で祈り、布施する行為は正しいものではありません。お返しを当てにしてする布施など布施ではなく、ただの取引です。正しい布施とは、お返しなど当てにせず、相手のことだけを思い、無償の心で布施したものだけが、神の心にかない自分の徳となるのです。もちろん金額も関係ありません。自分の分に応じてだせる範囲でだせばいいのです。

そのような無償の心でした布施こそ尊いのです。先ほどの欲望丸出しで神に祈ることが、どれだけ神の心に反する、自己中で恥ずかしい行為であるかを知ってください。

正しい祈りは(それが自分の分にあっていればですが)きかれますし、正しい布施には、それなりに自分の分に応じたお返しがあります。仕事が非常に調子がいいとか、何か運がいいとか、当てにしてない幸運が舞い込むとかしたときは、何かそれ以前によい行いをしているはずです。自分にそのような自覚があろうとなかろうと、よい結果が出たときはよい原因をつくったからそうなったのであり、逆の場合もまた然りであるということです。

正しい祈りや布施の行為にはいろいろあり、お金を出すことが不得手の人は、ボランテアでもそこらのごみを拾うでも何でもいいのです。よいことをしようとする心(祈り)と行為(布施)が尊いのであり、またお金を儲けることが得手の人は、お金を儲ければいいのです。(ただし悪いことをして儲けてはいけませんが)お金を儲けることは悪いことではありません。しかし、その儲けたお金をどのように使うかで、その人の価値は決まります。自分のためだけに使うのか、それとも一部でもいいので、世の為人の為に使のか、それも自分の判断であり、その自分でした正しい判断だけが、自分自身の点数となります。

よいことは積極的にやったほうが心の向上になり、自分自身も人として成長していきます。神は人に自由を与えられました。善を行うも悪を行うも自由です。しかし、神の心には善しかなく、神が悪をつくられたわけではありません。だから神の子である人間は、神と同じ心(善)と行いをすれば心が軽く気持ちよくなり進歩向上していきますが、それ以外(悪)の心と行いをすれば、それだけ神の心から離れることになり、心が重く懺悔の念が出てきて、心のレベルも下がっていくのです。心はそのことを知っています。しかし、多くの人はそのことにまだ気づいていません。だから「善いことも悪いこともするのが人間だ」とへんに妥協して、悪いこと(神の心に相反すること)をしてしまうのです。

正しい祈りと布施の行為は自分も進歩向上し、世の中も救っていくことになります。一人でも多くの人が目覚め、努力精進していかれることを願ってやみません。

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4月 10 2010

草食系男子と肉食系女子

今週は女性中心に書いた話が多かったのですが、それも現在の世相や風潮が、いかに間違った方向に向かっているのか知っていほしいために、身近な問題を書いてみました。その最後に、現在よく言われている草食系男子と肉食系女子の問題を、取り上げてみたいと思います。

最近は自分のほうからは何も女に言わないし行動しない、消極的な男のことを、草食動物のようにおとなしいということで、草食系男子といわれるようになりました。逆に自分のほうから男に話しかけ、積極的に行動する女を肉食系女子と呼んでいます。このような草食系男子や肉食系女子が近年は増えたといわれています。

しかし、このような草食系男子や肉食系女子がいかに間違った行動であるのか、それは日本最古の歴史書でもある「古事記」の中にも記されています。それが、次に書かれた部分です。

<契り竟へて廻る時、伊邪那美命(いざなみのみこと)、先に「あなにやし、愛、男を」と言ひ、後に伊那岐命(いざなぎのみこと)、「あなにやし、愛、女を」、各言ひ竟へし後、其の妹に告曰げたましく、「女人先に言へるは良からず」とつげたまひき。然れども久美度邇興して生める子は、水蛭子、此の子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。是も亦、子の例には入れざりき。>

この「古事記」を分かりやすく解説していただけたのが、園頭先生でした。

園頭広周先生著「正法と人生の原点」より抜粋します。

<さて、女の神様伊邪那美命が、先ず「あなにやし、愛 男を」といわれた。「なんてまあ美しい愛すべき男であることよ」ということである。その次に男の神様伊邪那岐命が、「ああ、なんとうるわしく美しい女であることよ」と、賛嘆して互いに結び合って御子をお生みになったが、水蛭子(ひるこ)といって骨なしのぐにゃぐにゃの出来損ないの子が生まれたというのである。

女の神様が先に口を出された、そこで男の神様が、妻である女の神様にいわれた。「女が先に口を出す、口を切るということは『善い』ことではないぞ」案の定まともでない子どもが生まれた。次に生まれたのも泡のような島で、しっかりした陸地にはならなかった。

            (中  略)

『古事記』の神話篇は、天地創造と人類発生に至る歴史を物語風に記述したものであり、この中に真理が表されている。真理(神理)とは神の心の法則である。だから、真理に従うとは、神の心に従うことであり、真理に叛くのは、神の心に反することになるのである。

さて、ここで伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神様は、「どうして出来損いの子ができたのであろうか、その原因は宇宙の中心の天の神様にお聞きする以外にない」ということで、天に上って伺いを立てられた。

問題の解決を天に求める、というのが問題の解決の最上最良の方法である。人は問題が起こると、四方八方に横の方向に人に聞いて廻る。こうして横に四方八方の人に聞いて解決しようとすると、必ず一方によければ一方に悪いということで、なかなか全体を納得させられるいい解決法というものは得られないものである。たとえ四方八方塞がっていても、天は空いているのであるから、上の方へ抜ければよい。天は自由自在に開けているのであるから、四方八方塞がっていても困ることはない。その上の方に抜ける、天に上るとは、神の心即ち真理によって解決するということである。

そうすると、誰一人傷つくことなく、一方に良ければ一方が悪いということもなく、全体が納得できる円満な解決ができるというのである。

それは真理を知って祈ることである。

天の神様にお聞きしたら、「女先立ちて不良(ふさわず)」、つまり女が男の先に立ったから立派な子供が生まれなかったのである、といわれた。>

古事記にはこの世の始まりや人類発生に至る歴史が、物語風に書かれてありますが、この古事記の中に書かれてあることは真理(神理)であり、その中に「女先立ちて不良」と書かれてあります。これは男の生き方、女の生き方、が書かれてあるのであり、女が男より先に口を出してはならない、と書かれてあるのです。

今、このような言い方をすると、男尊女卑のような捕らえかたをする人も多いと思いますが、そうではなく、女が男より先に口を出し行動すると不幸になるのです。なぜ、そうなるのかはまた改めて書くことにしますが、草食系男子や肉食系女子のような最近の風潮が、いかに真理に反した行動であるか、古事記を見ても分かります。

男が男らしく積極的に女を引っ張っていかないと、この世はよくなっていきません。それが真理であり、真理に従えば幸福になるし、逆らえば不幸になります。それは歴史が証明しています。

歴史はなぜ勉強しなければならないか? それはいろいろな人々の生活してきた、例がたくさん出てくるからです。このように生活したら、幸せに暮らせたが、このようにしたら不幸になった。そのようないろいろな例が歴史書には書かれてあります。だから人は、よく歴史の勉強をしなければならないのです。

古い新しいではなく何が正しいのか、なのです。

歴史に学ぶということを忘れてはなりません。

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4月 09 2010

おかみさん

よく女の人を「おかみさん」と呼びます。なぜ、このような呼び方をするのでしょうか?女性はなぜおかみさんなのでしょう。それは次のような理由があるからです。

私の知っている人で、女性を見るとすぐ触りたがる人がいました。それで、その人のあだ名は「エロじいさん」といわれていたのですが、その人はある学校の校長先生だった人でした。学校の生徒にも触りに行くので、生徒たちはその人が現れると、また触られるということで大騒ぎをしていました。

もう何十年も前の話で、今ほどセクハラだ何だと、うるさくない時代でしたので「エロじいさん」といわれる程度ですんでいましたが、いまなら生徒から訴えられ、警察に捕まりそうですね。しかし、昔はわりとおおらかで、そういう人もよく見かけました。

その校長先生の奥さんは、まことに賢夫人で一部の隙もない人でした。触ることの好きな、その校長先生は早く亡くなったのですが、その原因は、奥さんがあまりにもりっぱでご主人に触らせなかったからでした。

私は前回、とかく男は女をほしがると書きました。なぜ男は女をほしがるのでしょう。それは男の元気は女からくるからです。

女性をなぜ「おかみさん」「お神さん」と呼ぶか、それは男にとって女は神様であるからです。

神の生命(エネルギー)は女を通して男に与えられることになっています。だから女を「おかみさん」「お神さん」と呼ぶのです。男が疲れているときに限って女がほしくなるのは、そのような理由からです。普通なら疲れているときに、よけい疲れるような事などしたくないはずですが、疲れているからこそ男は元気を得ようとして女をほしがるのです。 

先ほどの校長先生は神のエネルギー(これは食べ物からとる栄養とは違います)を得ようにも、奥さんが触らせてくれないので、得られませんでした。そのため他の女性から得ようと誰彼かまわず触りに行ったのですが、結局それではエネルギー不足となり早死にしてしまった、ということです。身持ちが悪いのも性の乱れを生じますが、善すぎるのも問題で、丁度いい(中道)のが丁度いいということになります。

男が女をほしがる(触りたがる)のは、ただ欲望のはけ口というわけではなく、本人は自覚がないかもしれませんが、神のエネルギーをもらい元気を得るためそうするのです。

だからといって、あちこちの女に手を出していいのか、といえば、もちろんそんなことはありません。何をやるにせよ、正しい心と行いが基本となることは間違いないでしょう。

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4月 08 2010

善の四要素

昨今の治安の乱れというものはひどいものがありますが、それに輪をかけて乱れているのが性の乱れであり、この性の問題をどのように考えたらいいのでしょう。教育現場でも性教育をどのようにするのか、いろいろな意見が出ているようですが、どう教えていいのか分からないというのが現状のようです。

こういうときこそ宗教の出番です。性のあり方を正しく指導していただきたいものですが、残念ながら、現在の宗教も性の問題をタブー視して、性は煩悩である、性は罪悪である、といっているところがほとんどで、性の問題にしっかりとした答えをだせていません。釈尊やキリストが結婚していられず(釈尊は出家されたのですが)一人で法を説かれたという事も、影響していると思います。

しかし、坊さんや牧師といわれる方々は、一方で性は罪悪といいながら、その一方では結婚して子供をつくるという、矛盾したことを平気でやっています。性が罪悪なら、なぜ神は罪を犯さなければ、子供が生まれないような仕組みをつくられたのでしょう。そういうことは罪悪なのだから一切しないということになれば、子供がうまれてこないことになり、人類は滅びてしまいます。

性は罪悪なのでしょうか、それとも性を罪悪と考えることが間違いなのでしょうか。

私の師である園頭先生は、宗教家で性の問題をはじめて真正面から見つめ、性に対する正しい観念を与えられた方でした。

園頭広周先生著「正法と人生の原点」より抜粋します。

<夫婦の性の結合は神が天地を創造された創造原理の人間的表現である

キリスト教でも仏教でも、「性」を罪悪だとし、また罪悪とまではいわなくても必要悪で、本来はそうあってはいけないが、しかし、それは避けることができない動物的行為だとして、忌避し嫌悪してきた。しかし、それは間違いである。キリスト、釈尊は決して性を罪悪視してはいられないのである。人間は、神の心、計画を、この地上に顕現するために、神の心のままに顕現せしめられた神の子であって、決して単なる動物ではない。

性の結合は、神の創造原理の人間的表現として、神聖なものとして扱わなければいけないので、その形だけを見ていかがわしい動物的行為と見てはならないのである。

善の四要素

倫理的に、人間の行為の善悪を判断するには四つの条件が必要である。

一、目的——目的が正しいこと。

従来の倫理学者は「善の三要素」、人と時と処の大事さを説いているが、私は「善の基準」をさらにはっきりするために「目的」を入れる。性の結合を行う目的はなにか、夫婦愛を完成し、お互いに愛情を確かめ合うためなのか、それとも単なる性欲の満足のためか、すべて行為は目的が正しくなければならない。

二、人——人の正しさを得ること。

その人は、正しい相手であるか、為すべき相手ではないのではないのか。性の結合が自分の夫であり妻である場合は罪の意識は起こらず、むしろ好ましい感情が起こるが、為すべき相手でない場合には罪の意識が伴ってくる。

三、時——正しい時を選ぶこと。

為すべき時が大事である。いかに正しい相手であるといっても、為すべき時を選ばずに、人が働いている昼間から行なったのでは、善いといわれない。隣の家を真夜中に訪問したのでは「善」とはいわれない。すべての行為には、それをしてよい時と、わるい時がある。

四、処——処の正しさを得ること。

行為には場所が必要である。為すべき場所で行うのは善いが、為すべきでない場所で行ったのでは善いとはいわれない。

為すべき正しい相手である夫と妻とが、正しい目的を持って、為すべき時と場所で行うのは「善」であるが、単に欲望を満足させるために、為すべきでない相手と、為すべきでない時に、為すべきでない場所で行為するのは「悪」となる。

以上のことを考えるならば、不純な相手との性交渉の後に、なぜほろ苦い悔恨の情が起こってくるかがわかられるであろう。いわゆる後ろめたい気がするということは、そのことが正しくないことを自分が知っている証拠である。>

性とは煩悩や罪悪視するものではなく、神聖なものなのです。ただし、それは正しい目的と人と時と処を得なければなりませんが。また、神聖なものでなければ、神がこのような仕組みをつくられるはずがありません。

この神聖な行為を、不純な悪の行為としているのは、我々人間であるということです。このようなことを考えるのならば、自分の体だから、どう使おうが自分の勝手などと言って、援助交際などしている子たちが、どれだけ神の心を踏みにじる、悪の行為をしているか分かるはずです。

性とは、お金のためや自分の欲望を満たすため、あるいは少しばかり好きだからやっていいというものではなく、神が大宇宙を創造された創造原理の人間的表現であって、結婚した夫婦のみに許された神聖な行為なのです。特に女性はこのことを、よく理解してほしいと思います。とかく男は女をほしがります。(なぜほしがるのかは、またあらためて書きます)

特別、女性だけのせいとはいいませんが、女性が、自分の体をもっと大事にし、結婚するまではダメと毅然とした態度をとるならば、現在のような性の乱れもなくなるでしょう。女性は男性以上に自分の体を大切にしなければなりません。現在のようにテレビなどで何人の男をしってます、と平気でいうような女であってはならないということです。

性の正しい基準を知ってください。

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4月 07 2010

絹の心②

同じく「正法と人生の原点」から抜粋します。

<そのすなおなおっとりした、やさしい妻は早く死んでしまった。その夫はあまりにも思い出が深く、一生独身で通すつもりであったが、年とともに会社での地位も上がると、独身でいられなくなって二度目の妻を迎えた。その人はやはり名門の出で、昔の殿様のお姫様であって、料理から裁縫から社交まで、あらゆる点で、できないことは何一つないという、実にすぐれた賢妻であった。天地が逆さまになっても、夫にご飯だけの弁当を持たしてやるというようなへまはしないという実によく気のつく人であった。

その二度目の妻を迎えたその人が、森田たまさんの所に来ていうには、

「前の妻は、絹のようなあたたかさを通わせてくれるやさしい妻でした。やることなすことへまだらけで、なんにもできない妻でしたが、そのたびに『すみません』『ごめんなさい』と、自分の失敗をすなおに認めて謝ってくれるやさしい妻でした。

しかし、それに反して二度目の今度の妻は、なんにもできないことはないというすばらしい妻ですが、前の妻が絹のような心を持っていてくれたのに比べて、今度の妻はズックの袋ですよ」と。

あなたは夫にとって、絹のようなあたたかさを通わせるやさしい思いやりのある妻なのか、それともズックみたいなごわごわした、がさがさした荒っぽい、ひとりよがりの妻なのではないのか。どのような妻であることがあなた自身にとって幸せなのか。よく考えてみられることである。

だから森田たまさんは、いわれているのである。

「気性の勝った、どんな落ち度もない女というものは、他人からはほめられるかわからないが、夫の愛情は、そういう女からはうすれてゆくものであるらしい」と。

そうして最後にこういっていられる。

「七十になろうと、八十になろうと、女というものがどういう存在であるべきかを忘れないでいる人の心には、羽二重のようなすべすべした、きめの細かな思いやりが潜んでいるのであって、お弁当にご飯ばかりを持たせた新妻の、あのおっとりとした、すなおな気持ちが一生つづいているようであって欲しい。それは、人の中へしゃしゃり出て、なんでも牛耳るという社交婦人ではなく、といって家庭の中で、子供の勉強を励ます教育ママでもなく、格別内助の功のある良妻でもなく、ただいつも涙もろく、人のあわれな話を身に沁みて聞くという普通のやさしい女、私はその心を絹の心と思うのである」>

最近は仕事のよくできる女性は増えましたが、園頭先生の本の中に書かれてある“絹の心”を持つ女性はどのくらいいるのでしょう。私の思い違いかもしれませんが、あまりいないように感じます。

仕事がそれほどできなくても、女の素直で優しい心が男を浄化し、ひいては殺伐とした世の中をも浄化していきます。女が愛の心を忘れ、男に逆らいきつい態度をとれば、不調和な殺伐とした世の中が、まだまだ続くことになります。女性の深い愛は神に通じます。

“絹の心”をもつ女性が、増えていってくれることを願ってやみません。

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