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4月 23 2019

神の愛の深さ

昨日は暑かったですね。

名古屋は昨日、二十八度もあったものですから、辻説法もそこそこに(理解しない人たちばかりだからよけい暑くなるので)庄内川に行きました。

これだけ暑くなれば生き物もたくさん出てきているだろうと思ってです。

予想通りたくさん出てきていました。

鳥は大騒ぎしているし(ツバメやすずめ、ムクドリなど暑くなるとよけい元気になるようです)細かい魚はたくさん水面まで出てきていたし(声をかけるとピチャピチャやって楽しそうでした)南陽大橋の下で休んでいると、チゴガ二がわんさか出て来てバンザイをしています。(あちこちから固まって出てきました。何十匹もです。今年になってはじめてカニを観ましたので、挨拶がわりでしょうか。〔笑〕)

「お前ら久しぶりだな。元気しとったか」と声をかけているとこのカニたちもまた喜んでバンザイしているのが分かるのです。(先ほどの鳥や魚たちもそうですが、急に動きが活発になるので喜んでいるのがよく分かります)

鳥といい、魚といい、カニたちといい、本当に可愛いものです。私が声をかけると素直に喜んで楽しんでいるからです。

この生き物たちの爪の垢でも煎じてこの辺りの人たちに飲ませてあげたいくらいです。そうすれば、少しは反省する人も出てくると思うからです。(苦笑)

それにしても、バカの一つ覚えのように怒っていても仕方ないでしょう。怒っている間は、その災いは止まらないからです。

特にどこかの会社などその典型なのですが(今日も朝からすさまじい怒りようです。昨日も半狂乱みたいになっていましたから)自分たちが悪いのだから自分たちが頭を下げればいいのです。

何年たったら分かるのですか?自分たちの間違いがです。

自分たちが悪いにもかかわらず、それをいつまでも認めず、突っ張っているから悪いことが止まらないのです。

運転手連中もそうですが、潔く自分たちが悪かったと認めてください。(実際そうなんだから)そうして(自分たちは私に心が救われているのだから)感謝して布施でもしてください。

そうすれば、災いは起きなくなるからです。

反省し、心を変え、行いを変えれば、私のように愛ある奇跡が次々に起きてきます。

一度体験されてはどうでしょう。私のような奇跡をです。本当に楽しいものだからです。

今は猫カフェとか、何とかカフェとか、動物がさわれるカフェなどが人気ですが、そのような動物の癒しが、歩いているだけでそこらじゅうからもらえるのです。

これだけ楽しい話もないはずです。

そういう楽しいことがこの教えを実践するなら本当に起きるのです。これだけ癒される毎日もないでしょう。

皆さん方は神の愛の深さを知らないのです。だから、それだけ怒れるのです。神の心を全然理解しようとしないからです。

自分のことしか考えていないからダメなのです。だから、神の心など分かりもしないのです。自分のことだけで一杯一杯であるからです。しかし、それではダメなのです。

自分のことだけしか考えないでは絶対に幸せになれないのです。もっと心を広げないといけないのです。それも神の心であるからです。(広い心もです)

本当に哀れですね。心を変えるだけで百八十度違った人生が歩めるのです。

そんな自分が確実に幸せになれる方法が目の前にあるのに、それを一切無視して、わざわざ災いが起きる人生を歩き続けている、これだけバカげた行いもありません。

くだらない意地など張っている場合ではないのです。すでに皆さん方の怒りより、神の怒りの方がはるかに大きいからです。

だから、これだけ災いが起きているのです。神の怒りの現れでしょう。

しかし、その神の怒りにまるで気づいていない。哀れとか、バカとかいう言葉ではもういい表すことが出来ない、すさまじい外れようです。

いい加減、分かりませんか。そのような態度を取り続けている人々に神が怒らないわけがないということがです。

だってそうでしょう。目の前に幸せになる方法があるというのに(この教えの実践)それを無視して、わざわざ不幸になる道を歩んでいるのです。

これだけ神の心を無視した行いもないはずです。神はすべての人の幸せを願っているからです。

しかし、この辺りの人たちは、わざとその幸せの道を歩もうとしないのです。わざわざ不幸になる道を自ら望んで歩いているのです。

では、これだけ神の心に背く行為もないはずです。

だから、神はこの辺りの人たち以上に怒っているといっているのです。

これほど神の愛に背いている人たちもいないからです。

神はすべての人の幸せを常に願っているのです。それにもかかわらず、その幸せの道を自ら進まないということは、神の心を自ら裏切り続けているということになります。

それでは神の怒りも買うでしょう。自らをわざと不幸にするということは、神をも不幸にすることと同じであるからです。

この辺りの人たちは、そういう自覚がまるでないのです。「お前のいうことなどきけるか」とただ私のいうことに逆らっていると思っているだけなのです。

しかし、それは違うのです。そのような行為は(自らを不幸にする行為は)神をも不幸にしているということを知るべきなのです。

神と私たち神の子である人間とは一心同体であるからです。

そのような愛のない行いを(自らを不幸にするとはこれだけ愛のない行いもありません)続けていては、当然そこには神の愛もなくなります。(自ら神の愛を拒否しているのですから、当然そうなります)

神の愛のないところに愛ある奇跡は起きません。だから、災いが起きるのです。

愛のないところには災いしか起きないからです。

この辺りの人たちは自分たちの浅はかさをもっとよく知るべきでしょう。神はそのようなすべての人たちに愛を与えようと常に考えていられるからです。

その神の深い愛の心も知らず、よく奇跡が起きているこの教えにいつまでも逆らい続けているものです。

それだけ神の心に背いている(報いていない)行いもないのです。

もう少し神の深い愛を理解し、その神の心に感謝して、素直にこの教えに従いませんか?

そうすれば、愛にあふれた人生を送ることが出来るからです。

(ほんと、このブログを書いている最中だけでも、どこかの会社など大騒ぎです。〔何かもう起きっぱなしのようです〕神の愛の深さ大きさをもっとよく知ってください。そうすれば、自分たちの考えがどれだけ小さいかよく分かるからです)

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4月 21 2019

正法神理の有難さ

あのフランスのノートルダム寺院の大聖堂の火災の再建に寄せられた寄付が、わずか二日間で約一千億円も集まったそうですね。(驚)

本当にうらやましい限りですが(凄いですね。偽の神の教えを説いているところにはこれだけ寄付が集まり、本物の神の教え説いている私には全然寄付が集まらないというのですから。〔苦笑〕)しかし、フランスの貧困層からはずいぶん不満が出ているようです。

それはそうでしょう。フランスは例の(厳しい生活に〔というより政府の間違った政策に〕苦しむ国民による反政権デモの)「黄色いベスト運動」が続いているところです。

大聖堂の再建にそれだけの金があっという間に集まるのなら、その半分でもこちらに回せというのは人情でしょう。

だいたい、寺院を再建する金があるなら、まず貧困な人民を救うのが先のはずです。(それが神の心です)

その金を全額、貧困層の支援に回してもよいのではないですか。その方が神は喜ばれるからです。

寺院の支援金などまだこれからいくらでも集まってくるのです。しかし、貧困層への支援はなかなか進まないからです。

しかし、こういう正論を説く(どれだけの人がこれを正論と理解するか知りませんが)本当の神の教えの方には全然寄付が集まらないというのは一体どういうことでしょう。

だから、いいことが起きないのです。本当の神の教えを説いている者に全然協力しようとしないからです。

昨日も、ずいぶん怒っているところ(会社)がありましたが(もう、烈火のごとくです)そこはこのブログを散々見ているくせに、嫌がらせをしまくっているところです。

それでは災いが止まるわけがない。そのようなこれまでの態度を反省し、感謝して布施でもされたらどうでしょう。

そうしたら、その怒って(恐れて?)いる災いはピタリと止まるからです。

それは嘘ではありません。本当にそうなりますので、いい加減、私のいうことをきくことです。

嘘をいっている者に奇跡など現れるはずがないからです。

奇跡が起きているということは、その人のいっていることは正しいということです。(釈尊やキリストがそうですから)では、信じたらどうでしょう。

私のいうことをです。そうすれば誰も奇跡が起き、救われて行くからです。

それに、それだけ災いが起きるということは、それだけ自分たちに徳がないのです。だから、徳を得るような努力をしないといけないのです。

そうしないと、いつ災いが起きるか知れないからです。

私はこれまで多くの徳を得て来ました。だからこれだけ愛ある奇跡も起きるのです。(今日も朝から、少し部屋の掃除をしようと窓を開けるとすぐそこに猫が座っていて、私の顔を見ると急に屋根の上で体をゴロゴロさせて遊んでいます。「お前そんなとこでなにしてんだ」みたいなことをいっていると、すずめが飛んできて前の電線にとまってギャーギャ鳴いていました。朝から大騒ぎです。〔笑〕)

もちろんそれは今生だけの話ではありません。それは自分の過去世を振り返ってみると分かるのです。

私は古代中国で漢という統一王朝をはじめてつくったのです。(その前に秦が統一王朝をつくったといわれますが〔今キングダムで話題のです〕秦は当時戦国七雄といわれた他の六国を滅ぼしたにすぎません。秦はそのような使命があっただけであり〔他の国々を滅ぼして秦一国とする〕その後、安定した何百年も続くような統一王朝をつくったのは劉邦です。従って古代中国で統一王朝をはじめてつくったのは劉邦の漢であったのです)

そうして、その後もまた中国に生まれ今度は蜀漢という国もつくります。そのはるか以前にもやはり私は中国に生まれて周という王朝をつくったようです。

自分の過去世を振り返ってみると私は多くの国の基礎をつくってきたのであり(わりと同じようなことをしています。そういう順序をもらうのです。そういう使命があるからです。同じような体験をしていれば自分の使命は果たしやすいからです)そのような過去世の行いが、今の徳となって現れているようです。(今生はその徳が動物にしか通用しませんが〔笑〕過去世ではそのような徳が多くの人々を集めたのです。だから国をつくることが出来たのです)

また、そのような過去世の縁で同じようにその当時一緒に国をつくっていった人々が、今生も同じ日本に生まれて来ているようですが(三国時代でいえば、関羽や張飛、趙雲といった武将から、法正、龐統といわれた軍師、周の時代でいえば太公望といわれた人々などです)それは釈尊(高橋先生)がこの日本に出世されれば、その弟子たちも生まれてくるのと同様に(今生も舎利弗〔園頭先生〕はじめ大目連、迦葉、阿難、弥勒などなどたくさん生まれてきています)縁によるものであるのです。

このような不思議な縁も、この教えを実践していることにより分かってくることであり、皆がこの教えを実践して行くのなら、誰もが自分の過去世を知ることが可能になるのです。

こんなことは事実かどうか分からないだろう、適当なことをいっているのかもしれないではないか、と思われる人もいるのでしょうが、しかし、何度も書いていますが、適当なことを書いている者に奇跡は起きません。

奇跡が次々に起きていることが、私がここに書いていることの正しさの何よりの証拠であるのです。

この本当の神の教えである正法神理を実践して行くのなら、今のことだけではなく、このような過去世のことまで分かり、それ以外の不思議な様々な事実も段々わかってくることになり、大きく自分の視野も広がってくるということです。

この教えを実践するなら、今生、自分が知ったことだけが事実でははなく、過去世のような知らなかったことも(というか、今生では知り得えないようなことも)分かってくる、そんな順序もいただけるということを知ってください。

それだけこの教えは深く広く大きいということです。それだけの(深く広く大きい)心を私たちは持っているからです。

しかし、このような事実も、この教えがなければ気づきもしなかったことです。

それ以外でも、ここに書いたことが次々に実現するという事実もありますし、私がこの教えを半年説かなかっただけで、この辺りの車が激減してしまったということまで起きています。

この教えの偉大さ、大事さは、このようなところでも分かるのです。(本当にこの教えがなくなったら日本は滅びますよ。こういうことが起きていることでもそれは分かるはずです)

このような不思議なことが次々に起きてくるのが本当の神の教えなのであり、このような教えは日本はもとより、他の国のどこを探してもありはしないのです。

この正法神理の有難さが少しはお分かりいただけるでしょうか。

その有難い教えをいつまでも無視していてはいけないのです。

追伸…だから私は、どうもそのような過去世で縁のあった人たちの言動に影響を受けるようです。

それは仕方がない面があるのですが(それはそうでしょう。昔、その人が自分の軍師だったのであれば、その当時はその人のいうことをずいぶんきいていたはずです。その影響が今生残るということは大いにあるからです)そういう人たちも、今生はバラバラで活動しています。

だから力が出ないのです。(大きなです)

徳のある人を中心として一つにまとまらないからです。(各自で力のある人たちではありますが、そういう人たちがまとまったら大変な力が現れるのです)

そういう過去世で縁のあった人たちが一つにまとまるなら、一つの国さえつくれます。(何せ昔はつくったのですから。〔笑〕)

このブログを読み、ずいぶん気づきのあった人も多いと思います。少しくらいの布施の協力などしてもらえませんか?

そうすれば、そのような不思議な過去世の縁も分かってくるからです。

(また、そのような布施を通して〔心が〕一つにまとまってくると〔凄いメンバーが今生は同時代に生まれていますから〕日本どころか、世界を変えることが出来るのです。伝説の王朝を〔この正法神理を中心としたです〕世界につくりませんか?私たちは過去そのような世界をつくったことがあるからです)

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4月 18 2019

利口(りこう)とバカの差

フランスのパリの中心部にあるノートルダム寺院の大聖堂が大規模な火災で燃えたそうですね。

このノートルダム寺院は、世界文化遺産にまで登録されている立派な建物で残念なことではありますが、しかし、その聖堂で奇跡が起きるという話はききません。

少々きつい言い方にはなりますが、ノートルダム寺院はすでに形骸化され、正しい教えを説く場ではなくなっているのでしょう。(祈りの場とはいえ、正しい祈りをしているわけではありませんし)

だから、こんな大規模火災が起きたのです。正しい教えを説く場でなければ、そんな寺院など不要であるからです。(正しい教えを説かないのなら、その寺院がどれだけ立派な建物であってもじゃまなだけです。本来の目的を果たしていないのですから。寺院は博物館ではありません)

それに最近のカトリック聖職者の腐敗はひどいものです。(例の未成年者への性的虐待など)では、フランスの中心の(というよりヨーロッパの中心の)カトリック教会が燃えても、不思議でも何でもないわけです。

そんな不浄な場所を神が守られるわけがないからです。

それどころか天罰を食らってもおかしくはありません。それだけ現在のキリスト教は堕落しているのです。

ソロソロ、フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の人々も、正しい神の教えに目覚めなければいけない、そういう時が来ているのです。

だから、フランスの首都であるパリのど真ん中のカトリックを代表する有名な寺院で、こんな大規模火災が起きたのです。

中身のない信仰など、どれだけ立派な建物をつくろうが意味がないということを神がヨーロッパ全土に知らしめるためにです。

益々、この正法神理の重要さが増しているのですが(早くヨーロッパの人々にもこの教えを伝えなければいけませんから)しかし、その正法神理が出現している日本で、日本の人々がまるでこの教えを拡げる気がないというのですから、これほどの悲劇もありません。

これでは現れるわけです。日本に様々な神の業がです。

もう世界がこの教えを必要としているのに、日本の人々が全然やる気がないからです。

昨日でもこの辺りの人たち(今日も朝からそうですけど)アホみたいに怒って嫌がらせをしているだけです。(そういう人が多いのです)

いつまで同じ態度を繰り返しているのでしょう。だから悪いことが起きるのです。

自分たちは知らないことを散々教えてもらい(それも神に対しての正しいことを)そうして心も救われているはずなのに、それに対して一つの感謝もしない、嫌がらせしかしないではよいことが起きてくるわけがありません。

いい加減、そのような行いを反省されてはどうでしょう。そうすればよいことも起きてくるからです。

ここで、このブログを読んでいる人たちにちょっとききたいのですが、今日のブログの題でもある利口とバカの差ってどこにあるのかお分かりですか?

多分、分かっていない人がほとんどでしょう。分かっている人が多いのなら、この辺りの人たちのように、同じ態度をいつまでも繰り返している人はもっと少ないはずであるからです。

利口とバカの差は学歴の差などと思っている人も多いのかも知れませんが、そうではありません。

学歴があるないは、その人がこの世に出て来た目的の違いなだけで、それ以上でも、それ以下でもありません。(この世に勉強することを主の目的で生まれてきた人は学歴が高くなりますが、そうでない目的で生まれてきた人は〔前世であまりに勉強しすぎて今生は学校の勉強以外のことをしようというです〕そんなに学歴が高くなるわけではありません。つまり学歴だけで人を判断するのは間違いであるということです。学歴と人柄は別であるからです)

利口かバカかの違い、即ち、かしこいか愚かかの違いは、判断がいいか悪いか、この差なのです。

つまり、かしこい人は正しい判断しかしないが、愚かな人は正しい判断も間違った判断も両方してしまい、愚かであればあるほど間違った判断が多くなるということです。

だから、この辺りの人たちは同じことを繰り返しているのです。正しい判断が出来ない人たちばかりであるからです。つまり愚かな人が多いということです。

だってそうではないですか。

かしこいのであれば、同じような態度は取らないはずであるからです。同じ態度を取れば同じように悪いことが起きてくるのです。

それはもう分かっているのです。(もう何年も前から同じことが起きているのですから)

では、別の態度を取ろうと、利口であるなら(かしこいなら)そう思うはずですが(そう判断するはずですが)そのような判断がいつまでたっても出来ない。

だから悪いことがいつまでたっても止まらないのです。正しい判断がいつまでたっても出来ないからです。

誰もそんなことは認めたくはないのでしょうが、しかし、事実は事実なのです。

バカじゃないなら、これだけ悪いことが起きてきたら、態度を変えるはずであるからです。

このような態度は間違っていると、そう判断してです。

しかし、バカな人はそういう判断がまるで出来ない、自分が死ぬまで(あるいは死んでも)同じ態度を取り続けるのです。

そのような態度が間違っていると判断できないからです。(責任転嫁ばかりしてです。その責任転嫁が間違っていると判断できないのです)

つまり、この差なのです。利口とバカの差はです。

利口でかしこい人なら、悪いことばかり起きて来たのなら、これはどこかに間違いがあると(それは自分たちの行いが間違っていると)すぐに判断できるのですが、バカで愚かな人たちは、どこに間違いがあるのか全然分からないのです。

そもそも自分たちが間違っているという判断が出来ないのではないでしょうか。そこまで考えが至らないからです。

だから自分たちが間違っているなどという判断などまったく出来ない。そういう発想がまるで出て来ないからです。

我が強いとか、意地を張っているとか、そういういい方も出来ますが、そういうのもあわせても愚かであるから、正しい判断が出来ないのです。

正しい判断が出来るのであれば、これだけ悪いことばかり起きているのなら、自分の行いをかえりみて、多少なりとも態度を変えていくはずであるからです。

ところが愚かであればあるほど、そこまで考えが至らないから、自分たちがしてきたこれまでの行いなどまったく考えよともせず、ただ、いま起きていることだけを考え、このように病気になったのはお前のせいと、それ以外の発想が出て来ないのです。

つまり、愚かであればあるほど、浅く狭い考えしか浮かんでこないということです。

残念ではありますが、この辺りの人たちは、そのような心が浅く狭い愚かな人たちが多いということです。

そうでなければ、これだけ同じ間違いを繰り返し、同じ災いばかりを受けるはずがないからです。

かしこいのであれば、いい加減、自分の悪いところに気づいてそこを直すからです。

しかし、そういう愚かな人たちでもです。成長していかないといけないのです。そうしない限り、よいことは起きて来ないし(心が)成長しなければこの世に生まれて来た意味もないからです。

いい加減、バカは(愚かは)卒業して利口に(かしこく)なりませんか?

そのようにかしこくなっていった人から救われて行くのです。

追伸…相変わらずの皇室叩きを週刊誌などしているようですね。(今週の週刊誌の新聞広告を見ましたが見るに堪えません)

先ほど祈りのことをちょっと書きましたが(ノートルダム寺院での祈りは正しくないと)こういう連中は何をいっても、このようなことはやめないでしょう。(どこかの国の工作員でも混じっているんではないですか。日本の中心である皇室を潰そうと、そうして日本を混乱させようと)

だから、祈ればいいのです。正しい祈りはきかれるからです。

このブログを見ている人たちでやる気のある人は祈ってください。このようなくだらない(皇室叩きの)広告を見た時だけでも結構であるからです。

その祈り方は「神よ、皇統を潰そうとしている者たちに様々な現象を現し、この者たちを正しくお導きください。この者たちに光をお与えください。調和と安らぎをお与えください」とです。

これだけでいいのです。簡単でしょう。(一分もかかりません。〔笑〕)

ただし、このような祈りを調和と安らぎの心でするのです。怒りや憎しみの心でしてはいけません。そんな心でするなら、その祈りは正しくなくなるからです。(これが正しい祈りの難しいところなのです。祈り方だけではなく心の在り方を間違っただけでもいけないからです)

このような祈りを多くの人がするなら、その祈りはきかれ、このような週刊誌報道は段々なくなって行くからです。(そういうことを書いている連中に様々な現象が現れてです)

私がそういう祈りをしているのですから間違いありません。(愛と調和の心で、こういう祈りをするだけで嫌がらせをしてくる人たちにボンボン現象が現れてきます)

正しい祈りは自分たちの徳にもなります。(そのような間違ったことをしている人たちを正しく導いてほしいと神に祈るのですから)

キリストの「汝の敵を愛し、責め憎む者のために祈れ」という言葉を実践しましょう。これほど愛ある行為もないからです。

(そこを勘違いしている人が多いから困るのです。悪いことが起きてきたら悪い祈りをしているなどとです。とんでもありません。悪いことをしている人たちに悪いことが起きてくるならそれは気づきの現象なのであり、これだけよい行いもないのです。だから、このような祈りはどのような時にも使えるのです。〔自分の身に何か悪いことが降りかかった時にでもです。そういう悪いことをしてくる人を愛し、正しく祈るのです。そうしたら黙っていても救われて行くからです〕このような祈りは知っていて損はありません。一度実践してみてください。そうすれば自分が困った時でもきっと役に立つからです)

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4月 16 2019

この世の人もあの世の人も救う教え

さすがに昨日など引いている人が多かったですね。前回のブログがききましたかね。(笑)

そうはいってもすぐにきかなくなります。(苦笑)今度こそ本当に反省する人が出てきてほしいものです。

間違ったことをしているのは、そちらの(私に嫌がらせをしている人たちの)方であるからです。

もう私のいうことをきいた方がいいです。私のいうことをきくなら必ず幸せになれるからです。しかし、逆らい続けるならこれもまた必ず不幸になります。

これだけ逆らっている人たちに不幸が起きているのです。そういう事実は事実としてもう認められてはどうでしょう。

そうすれば楽になる(心が安らぐ)からです。

本当の神の教えであるこの正法神理に逆らうなら何人たりとも幸せになることはないのです。そうして従うなら何人たりとも幸せになれるのです。

そうでなければ、この教えが数百年も数千年も(あるいはもっと前から)語り継がれるわけがないからです。

私が説いている教えは釈尊やキリストが説かれた教えと同じ教えであるからです。

だから、この教えの実践者になるなら誰でも奇跡が起きるのです。本当の神理はすべての人を救うからです。

いま現在、私たち以外で奇跡が起きる人がいなくなったのは、この教えをしっかり実践している人がいなくなったため(間違ったことを実践している人たちばかりになったため)奇跡が起きなくなっただけで、この教えを正しく実践している人たちには必ず奇跡が起きるのです。(だから、釈尊やキリストの弟子たちはもちろん、高橋先生や園頭先生の弟子たちにも同じように奇跡は起きていたのです。正しくこの教えを実践していた時にはです)

そうしてそれは、昨日のウナッシーさんのコメントにも書いたんですが、生きている人たちだけではありません。この教えを実践するなら、亡くなった人たちにも同じように奇跡が起きて救われて行くのです。

この教えの実践者は(法の実践者は)多くの人に、多くの影響を与えるということを知ってください。

実際に私など、この辺りだけでもどれだけ多くの人に影響を与えているか分かりません。(よい影響か、悪い影響かは別にして)そうして、それは生きている人だけではないのです。

亡くなった人にも同じように影響を与えているということも理解しないといけないのです。

だから、ウナッシーさんも、この前のコメントのような亡くなった人の暗示的な夢まで観るのです。(いっている意味が分からない人はウナッシーさんのコメントを読んでください)

ウナッシーさんが観た夢は、それは一種の霊夢なのであり、身内で亡くなった人が、ウナッシーさんがこの教えを実践していることにより救われたということを教えるものであったのです。

亡くなった人たちも、生きている人たちと同じように、私たちのいうことやることはきこえているし観えているのです。

ただ、亡くなった人たちは、それをこちらに伝えることは出来ません。すでにいる世界が違っているからです。(肉体を持っている私たちは三次元の世界に住み、肉体がなくなった死んだ人たちは四次元以降の世界に住んでいるからです)

一方的に観ているだけなのです。(しかし、観ることだけは出来ます。それはちょうど三次元に住む私たちは一次元〔長さだけの世界〕や二次元〔長さと幅だけの世界〕を見ることが出来るのと同じ理由なのです)

だから、深く縁があった人たちなど(例えば、親兄弟、親戚、親しかった友人などなど)自分の近くに来ている人(霊)もいるのですが、ただしそれは地獄に堕ちて苦しんでいる霊であるということを知るべきでしょう。

苦しんでいる時に頼るのはやはり縁が深かった人であるからです。(自分が苦しんでいる時に全然知らない人に助けてくださいとはいわないはずです。それは霊も同じなのです)

悟って天上界ににいる霊たちは天上界でちゃんと生活しています。そういう霊がこの世に降りてくることはめったにありません。(何かよほどのことがない限り)

あの世はあの世で自分のやることはあるからです。それにこの世にくるより天上界にいた方がずっと楽しいからです。

しかし、地獄界は違います。地獄にいても苦しいだけですので、地獄にいる霊は助けてほしいとよくこの世に出てくるのです。

多くの人がよく観ることがあるお化けや幽霊などみな地獄霊です。だから、あんなおどろおどろしい姿をしているのですが、あれは化けて出てきているのではなく、苦しんで助けを求めて出て来ているということを知るべきなのです。

まあ、たまに恨みを持ったまま死んで、それで出てくるのもいますが、そういう霊も苦しんでいるのです。

だから、そういう霊も救ってやらないといけないのですが、その救い方がです。

これまでの宗教では、お経を上げろとか、何か食べ物をお供えしろとか、祈れとかいわれていましたが、しかし、そういうやり方を何十年も何百年も続けていても、一向にお化けや幽霊は減らないのです。

実際、ポルターガイスト現象など、最近はよくテレビで出てきますし(あの東京などでよく電車のガラスなどがぶっ壊れるのも似たようなものではないのですか。〔苦笑〕)このような霊障などの話は枚挙にいとまがありません。

一向に減る気配がないのです。なんで減らないのですか?

それは、そのようなやり方をしていても霊は成仏しないからです。

つまり、そういうやり方では迷える霊を救うことは出来ないのです。

それはそうでしょう。それは生きている人を基準に考えてみれば分かるはずです。

悩んでいる人にお経を上げて、それでその人が救われるのでしょうか?食べ物を上げれば救われますか?ただ、祈るだけで救われるのでしょうか?

悩んでいる人にいくらお経を上げても救われることはないのです。また、その人が腹が減っているというのならともかく、悩んでいるのですから、その悩んでいる人にいくら食べ物を与えても、その悩みが解決するわけではありません。

またそれは祈りも同じでしょう。こういう悩みがあるのです、と相談を受けている人が、その悩んでいる人に向かい、ひたすら祈っても、それでその悩みが解決することはないのです。

つまり、このようなやり方をしていては悩み苦しんでいる人を救うことは出来ないということです。

だから、迷える霊も救われないのです。人と霊の違いは、肉体があるかないかの違いなだけであるからです。

それ以外の(考え方の)違いなどないからです。

では、どうすればその悩んでいる人を救えるのですか?

それは、その悩みをきいて正しい解決策(その悩みがなくなる方法)を教えてやることです。

そうすれば、その悩みはなくなるからです。

意識、つまり自分の思いは生きていても死んでも何も変わらないのです。即身成仏(死んだとたんに何もかも悟って、成仏する)などありえませんし、また死んだら意識がなくなって無になるということもありません。

死んでいても、生きていても、自分の考えは同じであり、ただ、肉体があるかないかの違い、それだけなのです。

では、その考え方は一緒で、肉体だけがなくなった人のその悩み苦しみを取るにはどうしたらいいのですか?

だからいっているのです。これまでのようなやり方では霊は成仏しないとです。

それはそうでしょう。生きて悩んでいる人にこれまでのようなやり方をしていたところで(お経、食べ物、祈り)誰も救えないのですから、それは死んでしまった人でも同じなのです。

何度もいいますが、生きている人と死んでいる人との違いは、肉体があるかないかの違いなだけだからです。

では、死んで悩んでいる霊なども、生きている人と同じようにその悩み苦しみをよくきいてやり、その原因を取り除いてやらないといけないのです。

そうしない限り、その霊の悩みは消えず、その霊は成仏できないのです。

しかし、死んでいった人とは(先ほども書きましたが)会話は出来ません。

では、どうするのか?ということになります。

だから、この正法神理の実践が大事であるといっているのです。(ようやくここまで来ました。前置きが長すぎました。〔笑〕)つまり観て悟れということです。

この教えを実践しているのなら、次々に奇跡が起きるのですから、では、そのような迷える霊もこの教えを観て実践すればいいのです。

そうすれば、奇跡が起きて救われて行くからです。

実際、この教えをあの世で実践するのなら、この世以上に奇跡が現れてくるのです。もうこれまでも何度も書いていますが、あの世は思ったこと、行ったことが、即、自分に返ってくる世界であるからです。(それはこれまでも何度も書いて来ました。この世は、特に末法の世は何かしてもそれが自分に返ってくるのには時間がかかる、しかし、正法の世になれば、それがあの世並みに早く自分に返ってくるようになる。だから、こんなに災いばかりが起きるようになったのだとです。心が悪い人が多いためです)

だから、迷える霊が私たちのまねをして、この教えを実践するようになるなら、即、救われて行きます。

この教えを実践するようになると、私たち同様、多くの光の天使たちが集まってくるようになるからです。(私たちには光の天使がたくさん集まってくるから様々な奇跡が起きるのです)

その集まって来た光の天使たちに、その迷える霊は救われて行くのです。

だから、ウナッシーさんの癌で亡くなった身内の方が夢枕に立たれたのです。その方は、ウナッシーさんの法の実践を知る(観る)ことにより自分が救われたからです。

それをウナッシーさんに知らせるため、夢枕に立たれたのです。

その方は癌で死なれたということですので、死んだあとも苦しんでいられたことでしょう。(癌の痛みがとれずにです)それで苦しいんで身内のところに降りてこられた。

そこでウナッシーさんの行いを観て、自分の悪かったところを反省された。そうしたら、たちまち救われた。

それでウナッシーさんにお礼をいうため夢枕に立たれた、そんなところではないのでしょうか。

そういうことは(法を実践していれば)普通に起きることであるからです。

このように、この教えを実践するなら、この世で自分が救われるだけではなく、死んで行った親しかった人たちも救われて行くのです。(本当にです。これまでのような嘘ではなくです)

あの世の人たちも、この世の人たちも同じように救うのがこの教えなのです。

それなのに、多くの人々がこの教えを知りながら無視を決め込んでいます。

なんと、もったいないことをしているのでしょう。それだけ無駄な時間もないのです。

この世の人たちだけではなく、死んで行ったあの世の人たちまで救いませんか?

この教えは(正法神理)それほどの力があるからです。

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4月 14 2019

悪因悪果

前回のようなブログを書かくと、いきり立って「俺はビビっていないんだ」みたいな人がたくさんいて(苦笑)嫌がらせしてくるんですが、そうはいっても車が(人も…)減っているのは確かなのです。

あまり無理しても危ないだけです。

素直に頭を下げ神理に従われてはどうでしょう。神の業が次々に現れているのは事実であるからです。

しかし、この辺りの人たち、それだけ悪いことをしていたら悪いことは起きますよ。その自覚は持った方がいいでしょう。

自分は悪いことをしているという自覚がないと「悪いことはお前のせい」という思いが消えないからです。

いっている意味が分かる人がどれだけいるのか知りませんが(この辺りは「はあ、悪いことをしているのはお前の方だろう」と思う人ばかりで)別に布施まではしてもらわなくてもいいんですが(それは自由ですから)少しくらいの感謝の心は持ってはどうでしょう。

そういう心もなくて一方的に私に嫌がらせをしているだけでは、これだけひどい人もいないからです。

だってそうでしょう。この辺りの人たちは大方、私のブログを読んでいるのです。

にもかかわらず、誰も感謝しないのです。

そういう態度はひどい態度ではないのですか?

長い間、私のブログを見ているのなら、心が救われた人もいるでしょうし、神や心の知らなかったことを教えられた人もいるでしょう。

そういうことはないと、この辺りの人たちは私のブログを見て、心が救われたこともなければ知らないことを教えられたこともないという人ばかりかもしれませんが、そういう物知りで優秀な人たちでもです。(苦笑)

このブログを長く見ているのなら、暇つぶしくらいにはなっているのではないですか。どこかよいところがなければ見る必要もないからです。

どういう心でこのブログを見ている人が多いのかは知りませんが、この辺りは、私のブログを見ている人が多いのは確かなのです。

そうであるなら、そのことについて少しの感謝くらいはするべきなのではないでしょうか。

まったく意味がないものを(あるいは自分にとってマイナスにしかならないものを)読む人はいないと思うからです。

何かプラスになっているから、このブログを読み続けていると思うからです。

では、そのプラスの分くらいは感謝されてもいいのではないですか。

それくらいの感謝もなければあまりに人として傲慢であるからです。(こっちはお前のブログを読んでやっているだけだ、などという人がいたら、どんだけ傲慢なんだと誰でも思うはずですから)

ところがこの辺りの人たちは、長年、このブログを見ている人が多いのに誰一人、私に感謝しないのです。

感謝するどころか、一方的に嫌がらせをして行く人ばかりなのです。

これ悪いことではないのでしょうか?

先ほども書きましたが、人のブログを感謝もせず、当たり前のように読んでいるだけでも傲慢なのです。

それプラス嫌がらせです。

ではそういう人は、どれだけひどい態度を取っているのか、という話にもなるはずです。(なりませんか?)

そう考えれば、バスやトラックの運転手などずいぶんひどいことをしているのではないでしょうか。

散々、私のブログを読んで、自分たちは得しているのに(心が救われたり、知らないことを知ったりして)まったく感謝もせず、逆恨みして怒りまくって一方的に(ブシュと)嫌がらせをするだけして走りさっていくからです。(物を投げられたこともありますし)

こんな自分勝手でひどい態度もないのではないでしょうか。こちらの言い分などまるできこうとしないからです。(というか、いう暇もなく行ってしまいますから)

だから、これだけトラックが減ってしまったのです。その自分たちの自分勝手で傲慢な態度が自分たちに返ってきてです。

だからいっているのです。自分たちが悪いことをしているという自覚を持たないといけないとです。

そうしないと、悪い結果がなぜ現れてきているのか、正しく理解することが出来ないからです。

悪い原因を正しく理解していないから(それを私のせいにし続けているから)ずっと出続けているのです。

悪い結果がです。

自分たちが悪い原因をつくらない限り、自分たちに悪いことが起きてくることはないのです。

悪因悪果というのは神理であるからです。

自分たちが悪い原因をつくらない限り、自分たちに悪いことが起きてくることはありません。その悪いことを止めたいのであれば、自ら悪いことの原因をつくらないことです。

そうすれば、その悪いことは黙っていても止まるからです。

この世は、そのような法則通りのことしか起きて来ないということを、せっかくこのブログを見ているのなら、よく理解してください。

そうしないと、このブログを読んでいる意味がないからです。(苦笑)

追伸…最近の週刊誌の皇室たたきは異常ですね。あまりに度が過ぎています。

まして愛子天皇という言葉まで出てくるとなると、もはや狂っているとしか思えませんね。

日本の皇統を(男系男子というです)壊そうとでもしているんでしょうか?この連中はです。

そうだとしたらずいぶん恐ろしい考えです。それは自らをも破壊する行為であるからです。

日本の人々が、日本の根本である皇統を壊そうとすれば、自分自身も壊れることになります。それは自分自身を(日本人自身を)壊そうとすることと同じ行為であるからです。

こちらでは、そのような現象が次々に現れています。(日本に必要な〔そうして世界にも必要である〕正法神理をつぶそうとしている人が多いため、自らがつぶれていっている)同じことをすれば同じ災いが起きてきます。

いい加減にしたらどうでしょう。それだけ恐れ多く危ない行為もないからです。

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