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4月 11 2016

法の影響

しかし、今日も朝から大騒ぎですね。(朝もはよから、やかましいことしていましたし)

何かその騒ぎが、段々災いを呼ぶ儀式のようにも思えてきました。(毎日同じことをしているからです。まったく学習しないからです)どれだけ自分たちで災いを呼べば気がすむのでしょう。

滅ぼされるまで分からないとは本当に哀れなものです。

そういう人がこの辺りはたくさんいるのですが、悪いことばかりではなく私のようによいこともたくさん起きています。(よいことは私が中心ですが)

こういうことを考えると、本当に法の影響はすさまじいなとつくづく思います。

ここに法が出現したばかりにこれだけのことが起きているからです。

その法の影響が遠くアメリカにまで届いたようです。

昨日、私がこのブログに(ほんの少しだけ)そのアメリカでやっているゴルフのことを書いてしまったからです。

ここに書けば、そのゴルフをやっている選手は法のことを意識します。(このブログを読んでいる選手は確実にいますから)

そこにいる選手たちが、この法のことを意識すればするだけ法の影響はその場所に強く現れます。

今日の朝テレビを観ていましたが、法の影響は確実に現れていたようです。

この法をしっかり勉強すると誓わなかったのは残念でした。だからそういう結果となったのです。(首位との差が五打もなかったんですね。では、もっと優勝できる確率は上がったのに)

別に法のことを意識したのはこの選手だけではなかったでしょう。(私を意識するということは、法を意識するということと同じですから)

あまり法の(私の)ことをよく思わなかった選手が突然崩れたり、コースの状況がまったく変わってしまったりしたのは、法のことをより意識した選手が多かったからです。

だから、そこかしこに法の影響が(神の力が)現れたのです。(解説の人が困っていましたね。〔選手はもっと困ったんでしょうが〕昨日までキレていたコースのボールがまったくキレなかったり、戻ってくるはずのボールが戻らなかったりしてです。「傾斜がかわったんでしょうか?」とか「一日で傾斜はかわらないでしょう」などというおかしな解説をしていました。〔苦笑〕)

法は少し強く意識しただけでも、その場所に様々な影響を与えるのです。

それは、どこにいても神に祈れば、その祈りがきかれるように(ただし、正しければという条件つきですが)法を強く意識するということは神を強く意識するのと同じだからです。

だから、法を意識する人が多ければ、そこに神の力が現れるのです。本当の神の教えとは、それほど影響がある(神の力が現れる)ものであるからです。

だから、釈尊やキリストの周りにも(もちろんモーゼも同じですが)あれ程の奇跡が現れたのです。

このような偉大な方々は、当たり前ではありますが本当の神の教えを説かれていたからです。

その時、預言者といわれる方々が説いていた同じ教えが現代に現れているのです。

だからそういうことが起きるのであり、つまり、その正しい教えには、それほどの力があるのであり、だから、釈尊は「人を依りどころとせず、法を依りどころとしなさい」といわれたのです。

その法に神の力が宿っているからです。そうして、その法はなくなることがないからです。(法は自分が知って覚えている限り自分に残りますが、人はいつかはいなくなります。〔如来といえどもいつかは天上界に帰られるのです〕法を依りどころとしているのなら、自分はいつでもどこでも救われるのです。偉大な人ばかりでなくその法にも神の力が宿っているからです)

だから法を依りどころとしないといけないのです。人を依りどころにしていては、その人がいなくなったら法が分からなくなるからです。

その間違いを今回の多くの如来の弟子たちは犯したのです。だから法が分からなくなったのです。(多くの弟子たちが、高橋先生〔人〕ばかりあてにして法をしっかり学ばなかったのです。それで、高橋先生がいなくなったとたんに法が分からなくなったのです。園頭先生以外の如来の弟子たちが高橋先生がいなくなったとたん神通力がなくなったのがそのよい例です。正しい法が分からなくなったとたん神通力をなくしてしまったのです。その法に神通力が宿っていたからです)

しかし、その正しい法がここにまた復活したのです。だから、これほどの影響が現れているのです。

正しい法には、それほど大きな神通力が宿っているからです。(その神通力も人の心の大きさにより、大きく引き出せる人と小さくしか引き出せない人で違いますが)

今はまだ一部の場所にしか、このような神通力は現れていませんが、いずれ嫌でもこの法の影響は世界中に現れるのです。

すでに正法の世となっているからです。

その時になって慌てるか、それとも早めに法を実践し出来るだけ心を高めていくかで、その法の影響が現れだした時の状況は大きく変わってくるのです。(もう名古屋の辺りは半分パニックです。その法の影響が拡がり始めているのに、いつまでたっても肝心の法を誰も勉強しようとしないからです)

いつまで法から離れたところにいて(時々近いところに来ていますが)災いばかりを受けているのですか?

泣こうがわめこうが、もうそういう世の中に(法の世に)なっているのです。

では、出来るだけ早く法の勉強をされてはどうでしょう。

現に、それをしっかりされている人には奇跡しか起きないからです。

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4月 10 2016

正しい信仰と間違った信仰

昨日もいろいろ起きたみたいですね。怒りたくっていましたから。(どこかの会社です)

怒っているのはどこかの会社だけではありませんが、この近所のバカガキも昨日は嫌がらせをしてくるのが何人かいました。

何かの信仰でもしているのでしょうか?

親がしているのなら、自分たちも小さな時からその信仰をしているはずなので、その信仰は正しいと思い込んでいる子供たちも多いと思いますが、その信仰が正しいのなら、私と同じ(釈尊やキリストと同じ)奇跡が起きて来ないといけません。

同じ信仰をしている人たちに(あるいは自分でもいいのですが)私と同じ奇跡が起きている人がいるのですか?

いないのであれば、その信仰は間違っているのです。

親がいおうが、誰がいおうが間違いは間違いなのです。人にくだらない嫌がらせをしている暇があるなら、早くその間違いに気づくことです。

そうしないと天罰を食らうことになるからです。(そういう現象が現れることでもどちらが正しいかは分かります)

とにかく、昨日のブログで、私は一般の人だけではなく信心している人たちまで怒らせたでしょう。

また嫌がらせをする人が増えるのかもしれませんが(信仰をしていて嫌がらせをしてくるようでは話になりませんが。それでは自ら、自分の信仰は間違いだと認めているようなものだからです)間違いは間違いです。

もう間違ったことをしていては天罰がくだる時代になったのです。

無信仰もいけなければ、間違った信仰をしていてもいけない、正しい信仰をしなければ奇跡どころか、まともな生活さえ出来なくなるのです。(これだけサイレンが響いていてはそれはそうでしょう)

早く正しい信仰に目覚めてください。そうすれば幸せになれるからです。

では、正しい信仰をしているとどういうことが起きるのか?

それを少し書いておきましょう。

一昨日東山動物園に行った時のことを書きますが、相変わらず動物たちの愛想はいいです。

私が動物園に行くと、そこらじゅうで動物が鳴き出しますので、私がいるとすぐに分かります。(おまけにすずめなども騒ぐのでよけいにです)

あの愛想のなさそうなゾウやカンガルーなども嬉しそうな態度を取りますし(カンガルーなど私の前でピョンピョン飛び跳ねるのはいる、蹴りあいをしだすのはいると面白いですし、ゾウなどもこちらに寄って来て私の前で餌を食べたり、鼻をふり上げたり面白い仕草をしています)インコなどはもう園内に響き渡るような声で鳴いて、檻の中で暴れ回って(飛び回って)います。(笑)

あのコンドルやワシのような恐ろしい顔をした鳥から、おとなしそうな鶴まで、檻の中で飛び回ったり「ギャーギャー」鳴いたりして騒いでいるのです。

そうして、あのライオンやヒョウやオオカミまで可愛らしい仕草をします。

愛想のなさそうな生き物からおとなしそうな生き物、そうして怖そうな顔をした生き物から猛獣に至るまで、すべて愛想がいいのです。

法を実践して愛が出てくると、その愛が動物にまで伝わるということがよく分かります。

そのような動物たちのいろいろな愛らしい場面を、私は動画に撮ってあります。その動画を観て、自分たちに対する動物たちの態度と(あるいはテレビで観る動物たちの態度と)私に対する動物たちの態度がどれだけ違うか確認してください。

法を実践している人(愛ある人)には、動物たちがどれだけ愛ある態度を取るのか分かると思うからです。

その愛ある態度で、今回、東山動物園に行った時に一番印象深かったのはシマウマでした。

シマウマとは意外と思われる人もいるでしょうが、その意外と思われる動物が、意外にも人に対する愛が強かったと分かるのが、この法です。(笑)

だから、法を実践すると面白いのです。そのような意外なことが次々に分かってくるからです。

この前テレビでシマウマは人になつかないといっていました。

そういわれれば、たしかに東山動物園のシマウマは愛想がありません。私が行って声をかけてもただボーっと立っているだけです。(しばらくすると向こうに行ってしまいますし)

「シマウマは人になつかないのか、それであのシマウマもどれだけ声をかけても、愛想も何もないんだな」と思い、一昨日行った時に、そのシマウマに「お前、人になつかないんだってな」と声をかけたのです。

そうしたらです。何かそのシマウマがビクッとしたように感じましたが、私がそう声をかけたとたん、そのシマウマが急に頭を振りだしたり耳を前や後ろに回転させたり動きだしたのです。(まるで「それは違う」といっているようでした。〔笑〕)

そのシマウマが何か変わった動きをしだしたので、私は動画を撮り始めたました。

するとシマウマが体をぶるぶると振りだしたり、そのまま足をついて、ゴロンと地面に転がり、地面でゴロゴロし出して愛想のいい態度を取るではありませんか。

驚きました。さっきも書いたようにです。シマウマは人になつかないといわれていたからです。

しかし、私の目の前のシマウマは非常に愛想がいいのです。

人になつかないどころか、私の前で地面に寝転がり腹まで出しています。

私は「何をやってんだろう?」と奇異に感じました。まさかシマウマがこんなに可愛らしい態度を取るとは思ってもいなかったからです。

そのシマウマの意外な態度はしっかり動画に撮ってあります。

シマウマは人になつかない?そんな学者の説は嘘であると私は思います。どんな動物でも人に愛があるならいくらでもなつくのです。(このようなシマウマ以外でも、その前に東山に行った時など〔前に書きましたが〕爬虫類のオオトカゲが私の前で大暴れしました。その映像も撮ってあります)

例えばこのようなです。世の常識といわれることでも違っていることがたくさんあるのです。

それぞれの人がもっと愛を出すなら、意外な事実がまだたくさん分かってくるのです。

その人が出す愛とは(もちろん慈悲もそうですが)それだけ奇跡を現す力があるということです。

これは一つの例ですが、正しい信仰を行えば、このようなこれまでには分からなかった奇跡の事実が次々に明らかになるのです。

このようなこと以外でも、祈れば天気も変わるし、人さえも神がかり的な力を発揮することが出来るのです。

そのような奇跡も、すでに起きていることでありますのですべて事実であると分かるはずです。

正しい信仰とはこのようなもので、次々に奇跡が起きる(新しい事実が分かる)ものであるのです。

正しい信仰と間違った信仰ではこれほどの差があるのです。(正しい信仰は次々に奇跡が起き、間違った信仰は、そういう奇跡は全然起きず〔悪魔が現す、おどろおどろしい現象は起きるかもしれませんが〕災いばかりが次々に起きる)

それでもまだ間違った信仰を続けるのですか?

昔からやっているからとか、親がやっているからとかいうのであれば、それだけくだらない理由もないでしょう。

親がやっていようが、昔からやっていようが、間違っているものは間違っているからです。

間違っていることをどれだけ続けようと、それが正しいことに変わるものではないのです。正しいことをやって初めて自分は正しくなれるのです。

これまでは間違ったことをしていた人が多かったのです。(それを正しいと勘違いしてです)だから、これだけの天罰がくだっているのです。(その間違いを天が正そうとしてです)

早くその間違いに気づかなければいけないのです。そうしなければ災いは止まらないからです。

奇跡を次々に起こしてみませんか?

そうすれば、正しい信仰がいかに大事かよく分かると思うからです。

追伸…首位と五打差ですか…普通であるなら逆転は難しいのでしょうが(勢いが違うようですし)この教えをよく勉強し、私に協力すると神に誓えるなら奇跡は起こります。

どうされますか?

(このようなチャンスはめったにないですよ。〔来年以降まだいくらでもチャンスがあるといっても、人はどうなるか分からないのだし〕そう神に誓い、私が祈るなら、多分奇跡は起きるでしょう。私はこれまで祈って奇跡を起こしたことが何度もあるからです。どちらにしても、この教えは一生ものです。どっちみち一生やり続けなければいけないのです。ここらで中途半端な態度はやめて真剣に勉強すると誓われたらどうでしょう。そうすれば歴史に名を遺すことになるからです。〔笑〕)

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4月 09 2016

宗教団体の無意味さ

今日も朝から激しくお怒りです。

毎日同じことをしていてよく飽きませんが、これだけ天罰をたくさん食らう人たちもいないでしょう。(毎日何か起きているようですから)

ある意味、凄い体験をしていますね。

なかなかこういう人生も送れないでしょう。だいたいの人なら、二、三度天罰を受ければ反省するからです。

しかし、この辺り、こういう人が多いのです。

何度天罰を受けても、それでもまだ立ち上がる不屈の精神を持った人たちが多いということです。(苦笑)

しかし、それをどれだけ私のせいにされても苦しんでいるのは皆さん方なのです。その苦しみを私のせいにされても、その苦しみが取れるわけではありません。

天罰を、いつまでも私のせいにしてるのではなく、その苦しみがどうやったら取れるのか、真剣に考えてはどうでしょう。

不屈の精神でいつまでも神に逆らい続けていては、必ず滅ぼされるからです。(神に逆らっているから、それだけの苦しみを与えられているのです。いい加減それに気づいてください)

昨日は東山動物園に行ってきました。

それでブログを書かなかったのですが、特別な理由はありません。気候もよくなってきたことと、どこかの会社などが毎日のように朝から怒り狂っています。

そういう人たちに付き合うのも疲れます。だから気分転換も兼ねてです。

しかし、私が別なところに行ってもあまり気分転換にはならないんですけどね。同じように怒り狂っている人たちがあちこちにいるからです。

動物園でのことはまた後日書くとして、昨日は少し早めの二時過ぎには動物園を出てきました。(いつもは朝一に行って夕方四時過ぎくらいまでいるのですが)やはり気候もよくなり動物園に来ている人が多かったからです。(ということは、うっとうしい人が多かったということです)

うっとうしい人は確かに多かったんですが、しかし、理由はそれだけではありませんでした。

私は動物園内でも来ている人にいろいろちょっかいをかけられるのです。

では、この辺りでも私の悪い噂は相当広がっているだろうなと思い、それなら辻説法をしながら帰ろうと思ったからです。

東山動物園からある程度のところまで歩いて行って、途中から地下鉄に乗ればいいと思い歩き始めたのですが、もうすずめたちが大騒ぎです。

しばらく歩くと、そこにいるすずめたちが騒ぎ、またしばらく歩くとその場所にいるすずめたちが騒ぎます。

お蔭で、多くの人が私のいることに気づき、私の辻説法を聞いたことでしょう。(苦笑)

釈尊の時代は、釈尊が説法をされる時は鐘をガンガン鳴らして人々に知らせたといわれますが、私の場合、その鐘のかわりを鳥たちがしてくれます。

その点は楽でいいですね。(笑)

そんな感じですので、大きな工事現場の近くを通るともう遠くからでも私が歩いているのが分かるのでしょう。その工事現場の連中に遠くにいてもガンガンでかい音を立てられます。(相当私の評判は悪いようです)

そうすると少々離れたところからでも辻説法が出来るわけで(少なくとも、その工事現場の人たちは私の辻説法を聞いていますので)より多くの人に辻説法が聞いてもらえるわけです。

そういう感じで、あちこちで辻説法をしながら帰ってきたのですが、あるところを通ると、大きな建物が目に入ってきました。

それは明らかに宗教団体の建物でした。(見るからにそれっぽかったので)

それでそちらに行ってみると、それは天理教の建物でした。大きな建物が道を挟んで、二つも三つも建てられています。

「でかいなあ」と思いながら、その建物の横の道を歩いていました。

そうして「いつまでこんな間違った宗教してるんだろう」としゃべりながら歩いていたのです。

すると建物の中から「ガチャン」という大きな音が聞こえました。誰か中にいるようで、それで私の声に怒ってでかい音を立てたようでした。

私が近くにいることは、中の人には分かっていたと思います。すでにその辺りの鳥たちが騒いでいたからです。

私はチャンスと思い「間違っているから、俺に起きているのと同じ奇跡が起きないのだろう。この奇跡は、釈尊やキリストにも起きていた現象だ。正しい宗教であるなら釈尊やキリストと同じ現象が起きなきゃおかしだろう」といいました。

その言葉に返事はありませんでした。

だから私はわざと天理教の建物に挟まれている道を進みました。中に誰かいたら何かいってやろうと思ってです。

その道を歩いて行くと建物の中がよく見えました。本当に広くて大きな建物です。

右側の建物を見ると前が広い駐車場になっていて、そこで小学校の低学年くらいの子供が五、六人、遊んでいました。

「何だ子供か」と思いましたが、その子供たちに「お前ら、なんで間違った信仰してんの」と声をかけました。

その私の声を無視してその子らは遊んでいましたので、左側の建物の方に目を移しました。

すると一人の信者が(かどうかは、はっきり分かりませんが多分そうでしょう。三十歳前後の男性でした)バケツを持って歩いていました。

私が近くを通ると、その持っていたバケツを大きな音を立てて下に置いたのです。(向こうからケンカを売ってくるんですからやりやすいです。〔笑〕)

「何だ、何だ、天理教は人に嫌がらせをするのか」「あんたらが正しというなら、俺と同じ奇跡が起きているのがいるのか、いたら呼んで来いよ」「俺と祈りの勝負でもするか」と立て続けに文句…ではなく(苦笑)説法をしました。

向こうは何もしゃべりません。

ちょうどその時、その天理教の建物の中にいたすずめたちが騒ぎだしたものですから、これ以上の奇跡の証明はありませんでした。

その信者の人は何もいわず建物の中に入って行ってしまいましたが、目の前でこれだけ分かりやすい現象が起きているのです。

私には釈尊やキリストと同じ現象が起き、その人たちには私に起きているような現象が起きている人はいないのです。(もし、私と同じ現象が起きている人がいるのなら反論したでしょうから)

では、この人は何で「あなたがしている信仰こそ本物である」と認めて「あなたがしている信仰を教えてください」とその場で帰依しないのでしょう。

それが信仰者としてあるべき態度のはずなのにです。

信仰者であるなら、正しい現象が目の前で現れれば「ああ、この人がいっていることこそ正しい」と即座に認め、その教えに帰依するのが当たり前のことでしょう。

しかし、この人は、仏典や聖書に書かれてある奇跡が目の前で起きているにもかかわらず、それでも自分たちのしている信仰が間違っているとは認めないのです。

まだ、その間違った信仰にしがみつき、救われない教えを信じようとしているのです。

これだけ信仰者として愚かな態度もないでしょう。

正しい教えが目の前にあるのに、それを無視しているからです。

私は最後に「間違った教えにはこれだけ金が集まり、正しい教えにはまったく金が集まらない。本当に世も末だな」と捨て台詞(すてぜりふ)を残して帰りました。

その天理教の人たちにも気づいてほしかったからです。

天理教の建物から少し離れたところでサイレンが聞こえてきました。

そうしたら近くを歩いていたオバちゃんが凄い顔をして私のことを見ています。

それで私が「そこの天理教に何とかしてもらえよ。あれだけ大きな建物をつくっているんだから、それくらいのことは出来るだろう」とその人にいいました。

そのオバちゃんは少しビクッとして下を向いて歩いて行きました。

本当にこの人たち何も分かっていません。

私一人で、このようなこと(サイレン)が出来るのなら、あのような大きな宗教団体は一体何のためにあるのでしょう。

これだけ災いがあちこちで起き出したのです。では、その宗教団体はその災いを祓わなければいけないはずです。

しかし、災いは減るどころか、増えているのです。

これでは、そのようなたくさんある宗教団体は何もしていないといわれても仕方がないのではないでしょうか?(これは坊さんなどの既存の宗教も同じですが)

このようなことが起きて来て、一番責められなければいけないのは私ではなく、そのような宗教団体なのではないでしょうか。

こういう時に一番力を発揮しなければいけないのが宗教団体であるからです。

この名古屋にある宗教団体は、何もしていないわけではなく、すでに多くの信者が祈っているとでもいうのでしょうか?

しかし、何の効果もないというのでしょうか?

では、たった一人の者にやりたい放題やられているということになります。

だとしたら、そのような宗教団体は何の意味も力もなかったということになります。(そうですよね。たった一人の者の祈りさえ抑えることが出来ないのですから)

いま起きている現象は、そのような宗教団体の無能、無力さをあらわす現象でもあったということです。

いつまで間違った信仰を続け、正しい信仰にソッポを向いているのですか?

だから、多くの人が不幸になっているのです。

追伸…昨日の夕方はひどかったですね。

ヘリがこの辺りをずっと旋回していたからです。(というか、私の頭上なんですけどね。しかも二機でです)

近所の人が何人も出て来て空を見上げていましたが、あれはうるさいでしょう。

本当にやめてもらえませんか。ただでさえ私の評判が悪いのによけい悪くなります。

未だヘリがよく飛んできますが、何度もいいますが、お金の無駄です。(本当に一体いくらかかっているんでしょう。天文学的な金額だと思いますよ。もう何年にもわたってですから)

そういう金があるなら私に回してください。

そうすれば天理教に負けないくらいの建物を建てて、そこで法を拡げるからです。

そうすれば、この名古屋で起きている災いも止めることが出来ると思うからです。

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4月 07 2016

知るべきことを知らない悪

今日は春の嵐となる予報が出ています。

暴風や激しい雨に注意とのことですが、こちらはすでに暴風雨が吹いています。(どこかの会社のことです)朝からもう凄い怒りようです。(苦笑)

何をそんなに怒っているのでしょう。また、よほどのことが起きたようですが哀れなものです。どれだけ悪いことが起きても反省しようとしないからです。

しかし、この会社の連中には呆れましたね。この連中の本心が昨日また分かったからです。

この連中、昨日もまた朝から散々このブログのじゃまをしていたのです。(ドンとかガンとか音を立ててです)

昨日は近くで家をつくっているようで、その大工たちが出す音もうるさかったので、ブログを書いていてもあまり考えがまとまりませんでした。

それで「今日は、もううるさいから書くのやめようかな」とぼそっと私がどこかの会社の連中に向けいったのです。

そうしたらです。その声を聞いたとたん、この連中、一変に静かになるではありませんか。

私は「ハァ」と思いました。

どうもこの連中、これだけこのブログを書くのをじゃましているのに、このブログが読みたいようで、それで私が「うるさいから書けない」といったとたん静かにしたようなのです。(その後も〔わりと〕静かでした。だから昨日はブログが書けたのです)

それで呆れたのです。自分たちもこのブログを読みたいくせに、ブログを書くのを散々じゃましているのです。

一体どういう神経をしているのだと思ってです。

こういうことをしているから、次々に災いが起きてくるのです。それなのに、その自分たちの行いは一切反省しようとせず、悪いことが起きるとみな私のせいにして烈火のごとく怒っています。

本当に呆れますが、こういう連中をバカといわないで一体誰をバカというのでしょう?

こういう連中こそ正真正銘のバカなのです。どれだけ自分たちがバカな行いをしているのか、いつまでたっても理解出来ないからです。

しかし、この辺りは、同じような連中が多いのです。私のブログを散々見ていながら、それでも私に嫌がらせを続けている人がたくさんいるからです。

そのような人たちも同じでしょう。正真正銘のバカというしかありませんね。

そうではないでしょうか?

私のブログを見ているということは、それだけ私にいろいろなことを教えてもらっているということです。(全然自分のためにならないようなブログなど、誰も読まないでしょうから)

それなのに、そのことにはまるで感謝せず、私のブログを読んでも、怒りやねたみやひがみの心しか持たないというのですから、そういう人はバカというしかありません。

少しの恩さえも分からないようだからです。

犬や猫でさえ、餌を与えれば恩を感じてくれます。しかし、私たち人間は何か物をもらったから恩を感じるだけではないでしょう。

知らないことを教えてもらった人には恩を感じるはずです。(学校の先生などそうですが)

私のブログを見ているということは、何かためになると自分で思っているから見続けているのであり、実際、私のブログを読んで心が救われた人も多いと思います。

では、そういうことに恩は感じないのですか?まったく感謝しないのでしょうか?

だからバカだというのです。動物たちでさえ分かる恩をその人たちは分からないからです。(私に嫌がらせしてくるということは、そういう恩も感謝もないということですよね)

そういう恩も感謝も知らない人たちばかりだから、起きているのです。これだけの災いがです。(今日も朝から何度もサイレンがしています。どうもすぐ近くで誰か運ばれて行ったようです)

自分たちは恩を知れとか、感謝しろとかいうくせに(そういうことは少し気の利く人なら誰でもいいますから)そういっている自分が一番それが出来ていないのです。(口だけなのです)

それでは罰も当たるでしょう。

その罰さえ人のせいにしています。こういう人たちはもうバカもバカ、大バカ者ですね。

昨日も私は庄内川に行きました。

そうして川に向かって叫ぶと、多くの小魚たちが出てきました。それこそ数百、数千、数万の小魚たちがです。(それは動画に撮りましたので、また確認してください)

少し川に向かい声をかけるだけで、これだけの奇跡が起きるのです。(このブログを見ている人たちはそういう光景を見たことがありますか?川で数百、数千、数万の〔数十万の〕小魚たちが一斉に浮かんでくるなどという光景をです。私はそういう光景などいくらでも見ることが出来るのです)

釈尊は、この世で一番悪い人は知るべきことを知らない人である(バカな人である)といわれていました。

人として知るべき最低のことくらい知ってはどうでしょう。

それを知らない間は不幸にしかならないからです。

追伸…「自分はそんなことはない、ちゃんと恩も感謝も知っている」という人も多いのでしょうが、そうではないのです。

私に恩も感謝も感じないという人は、実は本物の恩も感謝も知らなかったのです。

これまで自分がしていた恩や感謝は偽物であったということです。

恩や感謝に本物や偽物があるかと思う人もいるのでしょうが、本当の恩や感謝と、うわべだけの見せかけだけの恩や感謝の違いはあります。

そのような人たちは所詮は見せかけだけの恩や感謝しかしてこなかったのです。

それがこのような時代となり、はっきり分かったということです。(何度も書きますが、多くの人がうわべが善人であるだけの偽善者であったからです)

だから私に感謝できないのです。これまで人に対しうわべだけの感謝しかしてこなかったからです。

そうでなければ、感謝するところは感謝できるはずです。

悪いところは悪いところとして、しかし、自分の心が救われたのは事実なのですから、その部分は感謝するはずです。

しかし、そういうこともひっくるめて恩も感謝も感じないというのですから、これまでどれだけ薄っぺらな感謝しかしてこなかったのか、その人の人生がよく分かります。

そういうこれまでの悪いところをすべて反省しないといけないのです。

そういう時代になったからです。(自分の悪いところすべてを気づかされる、そういう時代になったということです)

元々この世の修行とはそのようなもので、この世に出てきたら自分の悪いところを直さないといけないのです。

それが、これまでのほとんどの人は、自分の悪いところを直さぬまま死んで行ったのです。(我を張ったまま)しかし、それではこの世に生まれて来た意味がないのであり、自分の悪いところをこの世で直してこそ、意味のある人生であったといえるのです。(だから、本来の修行が出来るようになったということです)

そう考えるのであれば、これだけ意味のある人生もないと思います。悪いことをし続けている人たちに次々に天罰がくだっているからです。(人の振り見て我が振り直せ、これだけ反省がしやすい環境もないということです)

これだけ分かりやすい現象が現れているのに、それでもまだ反省しないという人も多いのですが、これだけ天罰がくだっているのです。(いい加減それを認めてください。時代が変わってきたから起きて来た現象を多くの人は私のせいにしているだけなのです)

いつまでも、それを人のせいにしているのではなく「自分が悪かった」と心から反省されてはどうでしょう。

そうすれば、本当の恩も感謝も分かり、奇跡が起きてくるからです。

昨日もまだブシュブシュやっていた運転手もいましたし、嫌がらせをしていく人もいました。しかし、そのような人に一つの奇跡も起きていないのです。(それどころか災いばかりが起きています)

しかし、法に従っている私には次々に奇跡が起きています。

法に逆らっていては絶対に幸せになれません。

この法に従うことこそ、このような時代に幸せになれる唯一の方法なのです。

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4月 06 2016

正しいから奇跡が、間違っているから災いが起きる

明らかに現れている現象が激しくなっているようです。態度が変わっている人がたくさんいるからです。

もうこういう状況になっては、どうしていいのか誰も分からないでしょう。

なぜなら、今この辺りで何が起きているのか、しっかり分かる人など誰もいないからです。

これまでは末法の世であり、日本など特に唯物無神論が全盛で、神に関わることは二の次、三の次にされ神のことなど知らない人が多いのです。

そういうところに本当の神の業が次々に現れだしたら、対処の仕方など分かるわけがありません。ほとんどの人が神に関することはシロウトであるからです。

これまでは神など信じていない人が多かったのです。そうして既存の宗教は菩薩が説いたものが中心であり(親鸞、日蓮、キリスト教はパウロ)新興宗教は現世利益を中心として説かれています。これでは本当の神の業が現れだしてはどうしようもありません。

本当の神の教えがどこにもないからです。

神を信じない人と、菩薩が説かれたもの(昨日も書きましたが菩薩は、如来のように完璧に法が説けるわけではありません。つまり菩薩が説いた教えでは間違った部分がいくつもあるということです)そうして現世利益を中心に説かれたものしか、現代の日本にはないのですから、本当の神の業が次々に現れだせばどう対処していいのか分からなくなるわけです。

既存の教えでは、本当の神の業は止められないからです。(だから、お経をどれだけ上げても仏像にどれだけ祈っても、このサイレンは止まらないのです。〔間違いが混ざる〕菩薩の教えでは本当の神の業は止めることが出来ないからです。完璧な如来の教え以外ではこの神の業は止められないからです)

しかし、数十年前にすでに本当の神の教えはこの日本で説かれていたのです。

その本当の神の教えを日本の人々が(これは世界の人々も同じなのでしょうが)勉強しようとしなかったことが、このようなことが起きて来たすべての原因であるのです。

この世に出ているすべての人が、この如来の教えは勉強しないといけないからです。

最近激しくなった天変地変も同じです。本当の神の教えが出ているのに誰も真剣に勉強しようとしないことが原因なのです。

要は、本当の神の教えが出ているにもかかわらず、いつまでたってもその神の教えを真剣に勉強しようとしなかったため、激しい天罰が(世界中で)くだっているということです。

それは釈尊やキリストの教えを知ってもらえれば分かると思います。本当の神の教えは一国だけのものではないのです。世界中の人のものなのです。

その本当の神の教えが日本に出現しているのに、その教えが世界に拡がるどころか日本にも拡がっていないのです。

これだけ神に対する背信行為もありません。だから、世界中に天罰がくだり始めたのです。

この教えを知らないということは(出ている)日本だけの責任ではないからです。世界中の人の責任であるからです。(連帯責任であるということです。それはそうです。もうパソコンがある時代です。世界中の誰でも高橋先生を知ることは出来ますし、その説かれた法も知ることが出来るのです。どこの国の人であろうと、それを知ろうとしないということは本人の努力不足であるからです)

世界の人が知らないといけない教えであるから、私はこれだけのことをしているのであるし(自分の身を犠牲にしてです)それほどの教えであるからこれほどの神の業が現れているのです。

私は昨日は庄内川に行ってきました。そうしたらまた面白いことが起きました。

庄内川の川岸を歩いていると、もうツバメが飛んで来ていました。

そのツバメが鳴きながら飛んで行くのです。(例のガチャガチャとです。〔笑〕)まるでこっちを見てくれといわんばかりです。本当に可愛いものです。

そうして、他の鳥もあちこちから出て来て「ピーピー」「ギャーギャー」鳴いて飛んで行きます。

そういう鳥たちを相手にしながら歩いて、そうして南陽大橋の下で休んでいると、昨日はやけに川の水が多かったのです。

どうも一昨日の雨の影響のようなのですが、その水が多い川に向かい声をかけていると、水面のあちこちにさざ波が立ったりわっかが出来たりします。

「なんだ?」と思って水面をよく見ていると、細かい魚たちがたくさん浮かんで来ていました。水面を泳いでいるのもいます。

私の声を聞いて、川底にいた小魚たちがたくさん水面に上がってきたようでした。

これもまた可愛いもので「おう、お前ら元気か」と声をかけると嬉しそうに水面を泳いでいます。

その小魚たちを見ていて、ふと横を見ると少し大きめの魚が一匹、水面から背びれを出しながら私の方に泳いでくるではありませんか。

「あれ、大きいのが一匹来たな」と思っていると、その魚は一度もぐり、私の目の前にまた上がってきました。(鯉かなと思っていたのですが、その魚をよく見たら二十センチほどのフナかなんかでした)

その魚は私の前を背びれを出しながらスーと泳いで行きましたが(「おい、どこに行くんだ」と声をかけましたが、無視して行ってしまいました。〔笑〕)こういう不思議なことが普通に起きるのです。

私は餌をやったわけでもなんでもないのです。

しかし、歩いていればいろいろな鳥たちが飛んでくる、川に向かって呼びかければいろいろな魚たちが私のいる岸近くまでたくさん寄ってくるのです。

いま現在、皆さん方に起きていることと私に起きていることの違いはどうでしょう。

如来が説かれた法をしっかり知るなら、このような愛ある奇跡が次々に現れるのです。

これほどの教えだから私は必死に世に伝えようとしているのであり、これほどの教えがすでに世に出ているのに、それを誰も知ろうとしないから、これほどの天罰がくだっているのです。

世界の人がこの法に従うなら、世界中で起きているすべての災いが止まるのです。そうして世界中のすべての人に、私と同じ奇跡が現れるのです。

いっていること、やっていることが正しいから奇跡が起こり、いっていること、やっていることが間違っているから災いが起きるのです。

このように天罰が次々にくだる(そうして次々に奇跡も起きる)時代となりました。

もう法を知らずにいることほど危ない(もったいない)ことはないのです。

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