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3月 09 2016

本当の差別

今日も朝から激しくお怒りです。

毎日よくあれだけ激しく怒ります。(それだけでも体に悪そうです。怒ることは体に悪いですから)しかし、無理もないでしょう。昨夜も大変そうでしたから。(いろいろ起きたようで)

市バスやトラックの皆さんもずいぶんお怒りですが、怒っていても何も解決しません。天罰がよけい激しくなるだけです。(何せそういう人たち、嫌がらせだけは忘れませんから。自分たちが先にやっている、その嫌がらせは全部スルーですから。〔苦笑〕)

悔い改めたらどうでしょう。それが唯一の天罰を止める方法であるからです。

さて、哀れな人たちの話はこれくらいにして、何か国連が慰安婦や夫婦同姓、再婚禁止の件などで日本に文句をいってきているようですね。(皇室典範のことまでいってきているそうではないですか。明らかにやりすぎです)

しかし、国連の加盟国のほとんどが日本よりも治安は悪いし離婚率も高いのです。そういう国々に女性差別だのなんだのいわれたくありません。

そういうことをいってくる前に、国連はもう少し日本の内情を知ってほしいものです。日本はどこの国よりも治安が安定し(先進国の中では)離婚率も低いからです。(それこそ女性差別などしていない証拠です)

そういうすぐに女性差別などという世間がいかに間違っているのか。それが分かる部分を園頭先生のご著書からちょっと抜粋しておきましょう。(世間でいわれていることより如来のいわれることの方が正しと思うからです)

「正法と人生の原点」から抜粋します。

<女が家事、出産、育児に専念することは、男が外で働くのと同じように価値のあることであり、役割が違うというだけのことであり、男と対等になるためには、女の役割を捨てて、男と同じように外で働いて収入を得なければならないという考え方では、女は絶対に幸福になれないのである。女の幸福は、男には出来ない女の役割を充分に果たすことによって、男性の尊敬を勝ち得るということの中にあるのである。また男性としては、女性が家事、育児に専念しているのを見て、自分で収入を得ないから男より劣っているのであるというように女性を見てはならないのである。

従来の夫唱婦随の道徳が、亭主関白となってきたのは、男性の誤った女性観にプラスして、女性自身が自分を弱者としてみる見方がそうさせたのであるから、女性は家事、育児に専念することが、男が外で仕事する以上に価値のあることであることを認識しなければならないのである。

だからして、女が経済的理由によって外で働く心理の底には、口では男女平等といいながら、本来の女の役割である家事、育児をつまらない仕事だと見て、また女は弱い存在だと思っている心があるからではないのか。その心が潜在的にある限り、どんなに経済的に収入があっても、心の淋しさを隠すことは出来ないのである。

女が女自身を弱者だと見るのは、その肉体的構造からきている場合が多い。女はその肉体的特徴の故(ゆえ)に自分を弱者だと見てはならないのである。それは神が女に与えられた神聖な役割の象徴(勲章)なのであって、女はむしろそれを誇りとして、その与えられた役割を充分に果たさなければならないし、だからこそ女は、その役割を果たした時にはじめて心の底からの幸福感を感ずるようになっているのであり、女の役割を放棄して、どんなに他の方法で幸福を追求しても、それらの方法では幸福感を感ずることは出来ないのである。

男は、女を、女の肉体的構造、特徴、その役割の故に、男より劣っているもの、弱者と見てはならないのである。これまでの歴史の中で、女を不幸にしたのは、男のそのような見方が原因であったのであるから、男は女をよき人生のパートナーとして尊敬し、女の性を大事にしなければならないのである。男は、女の性の前に跪(ひざまず)く謙虚さを持たなければならないのである。>

女性差別などという言葉は、元々女性を弱いものとみて、だから、弱いものをいじめるな、差別をするなということになって、そのような言葉が出て来たものと思われますが、そのような見方こそ、女性差別であるのです。

本来、男と女は(人間として)対等であるからです。

それなのに、一方だけを弱者とみるのは、それは肉体だけに偏った見方であるのであり、そのような見方こそ差別的な発言なのではないでしょうか。

女性は女性としての(その精神と肉体にあった)使命と役割があるのであり、女性はその本来の立場の上で男性とは対等であるからです。

その女性の使命と役割(家事、出産、育児など)を世間が勝手に貶(おとし)めているだけです。これだけ偉大な使命と役割もないのにです。

そうではないでしょうか?

男に出産が出来るわけがありませんし、男に女ほどの愛ある食事や世話は出来ません。(昨日の赤ちゃんの話ではありませんが)

では、これだけ女性として大事な使命と役割はないのではないでしょうか。男にはまったく出来ないことを女がしているからです。

その偉大な女性としての使命と役割をつまらないものにしてしまったのは、そのような間違った見方をしている世間なのです。

家庭は悪なのですか?家事、育児はたいしたことではないのでしょうか?

そうではないはずです。これ以上の善はないのであり、これ以上の場所はないのです。(私たちは家庭に帰ってはじめて安らぐのであり、成長もするのであり、疲れもとれるのです。これ以上の善の場所はありません)

私たちはすべて、その家庭から世に出て来ているのです。そのような私たちにとって、もっとも大切な(そうして元でもある)場所をつくる女性の使命と役割が、なぜ、悪なのですか?たいしたことがないのでしょう。

そういう考えはまったく逆であり、これ以上、偉大な使命と役割はないのです。

その使命を果たすことがなぜ悪いことなのでしょう。女性に対する押し付けになるのでしょう。

これ以上(女性にとって)自分の力を発揮できる場所もないはずだからです。

家事、育児は押し付け、そのような見方が間違っているのです。(しかも大変な間違いです)

女性には女性にしかできない大切な使命、役割があります。(もちろん男性も同じです)

そのような使命と役割を認めないことこそ、本当の差別なのです。

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3月 08 2016

平等論の間違い

昨日も庄内川の帰り、何か凄かったですね。

バスも目を向いて怒っている運転手がいるし、妙に怒っているトラックの運転手はいる(何とか運輸の皆さん大丈夫ですか?)何か変だなと思って帰って来たら、極めつけはどこかの会社です。

もう凄い勢いで怒っているのです。(昨日なんか夜中までですから。〔ほんと大迷惑です〕それがまだ続いています)

もうほとんどパニックですね。パニック、パニック状態です。

かなり現れて来たのではないでしょうか。天罰がです。

もしそうであるなら怒れば怒るだけ、その天罰は現れてきます。少し冷静になり反省されてはどうでしょう。そうしない限り天罰は止まらないからです。

半狂乱のようになっている会社もあるので、もう何をいってもきかないのかもしれませんが、一つだけいっておきます。

皆さん方が、災いをすべて私のせいにして怒っているのはいいのですが、実際それは私に怒っているのではないのです。

それは神に向かって怒っているということを知ってください。すべていま起きている災いは(皆さん方の心と行いを観て)神が行っていることだからです。(だいたい、人の力で多くの人を次々に不幸にさせるなどということが出来るわけがないでしょう。その起きている現象は神の力以外の何ものでもないのです)

その自分が悪いために起こされている現象を、いつまでも人のせいにして(まったく反省しようとせず)ただ怒っているだけというのであれば、この後まだどれだけ恐ろしい現象が現れてくるか分かりません。

その覚悟だけはしておいてください。

そのようなことすべて、自分たちの責任以外の何ものでもないからです。

自分たちの責任なのに、それを人のせいにしてべそをかいて怒っている人が周りに増えてきました。本当にだらしのない話です。

自分たちに悪いことが起きているのですから、自分たちが悪かったと素直に認め、反省すればよいだけの話なのにです。(そうすれば救われるのにです)

自分が悪いのに、それをなかなか認めようとしない、こういう人の道から外れたことを平気でしている人が最近は増えてきました。

これも今の世相に多くの間違いがあるからでしょう。ですから、昨日のウナッシーさんのコメントをもう少し捕足しておきます。

昨日のウナッシーさんからのコメントは簡単にいえば、なぜイクメンがいけないのか、ということだったと思いますが、それは昨日も書きましたように、男の仕事と女の仕事は別なのであり、それをごっちゃにしているからいけないと私はいっているのです。

考えてみてください。

一般的にいえばです。(最近はこの限りでない人も多いのですが。〔苦笑〕)女は愛が深くて優しく細かいところまで目が届きます。

その反面、どちらかといえば男はがさつで、それほど愛も深くなくあまり細かいところにまで目が届きません。

この男女の特性の違いを考えてみてください。どちらが子育てに向いているかです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、一人では何も出来ません。そうして、心は白紙の状態で生まれて来るのです。

その赤ちゃんを男が世話したらどうなるでしょう。

がさつであまり愛もなく、細かいところまで気が回らない男が赤ちゃんの世話などしたら、その通りの子供になるのです。

つまり、がさつで愛もなく気の回らない子になるということです。

しかし、女が赤ちゃんを世話したらどうなるでしょう。

女は愛が深くて優しくて細かいところまで気が回ります。そういう女に世話をされるなら、その赤ちゃんは、そのような子になるのです。

何度もいいますが、赤ちゃんの心は白紙の状態で生まれて来ているのです。その白紙の心にどのような心を最初に入れるのか、それが大変大きな問題となるのです。

その最初に入れる心が後々まで響いてくるからです。(それはそうでしょう。白紙の紙に最初に書く文字を失敗したら、もう書き直しがききません。それと子育ても同じなのです。最初に入れられた心は後々まで影響を与えます。だからこそ、最初に深い愛と優しさと気が回る心を入れないといけないのです。その最初に入れた心が後々までその子に影響を与えるからです)

このようなことを考えるだけでも、子育ては男と女でどちらが適しているのかは分かると思います。

一つの例を上げましたが、このように、この世は男の仕事と女の仕事、そうして両方でやる仕事と三つに分かれているのであり、それをごっちゃにしてしまうのが平等論なのです。

だから私は平等論はいけないというのです。

平等論は、男の特性も女の特性も生かすことなく、そのような男女の役割をめちゃくちゃにしてしまうからです。

そのように男女の役割を無視し、両方で子育てをしてしまった結果が、最近の不幸な事件が増えたことにつながるのです。

最近は、親が平気で自分の子供を殺してしまうのです。(殴り殺したり、食べ物を与えず餓死させたりです)

考えられますか?人の子であってもそんな無慈悲はことは出来ないのに、親が自分の子供にそんなことが出来てしまうのです。

なぜでしょうか?

そういう親は小さな時に母の愛が心に入っていないからです。だからこのようなことが出来てしまうのです。

母の愛を(本当の神の愛を)知らないからです。(だから自分の子供でさえ愛せないのです。自分にその愛がないからです)

これはストーカーをする人も同じでしょう。

母の愛がたくさん心に入っているなら、このようなことはしないのです。やはりストーカーなどする人は心に愛がないから、そのような愛を求め、必要以上に人に寄って行くからです。

天なる父、母なる大地といわれますが、男は天と同じように外に働きに出て古いものを壊し、新しいものをつくり必要なものを与える愛を出し(天は大地に雨を降らせ風を起こします。そうして大地に栄養を与えるのです)女は大地と同じように、育て、慈(いつく)しみ、浄化する愛を与えるのです。(大地はすべてのものを育て、慈しみ、どんな汚物も浄化するのです)

このような男女の特性を生かし役割を守るなら、おかしな犯罪の多くを減らせ、幸せな人もたくさん出てくるということです。

いま、不幸な人が多いのは、間違った平等論など真に受け、それを行っているからです。

昔のように、男が外に働きに行き、女が家を守り、子供をしっかり育てる、そうするだけで、平和な世の中が戻ってくるのです。

そういう運動をされませんか?

そういう正しいことをすることが、私たちの一番の幸せであるからです。

追伸…私がここに書いたことは、あくまで一般論を書いただけで、すべての人がそうしないといけないということではありません。

人はいろいろな家庭の事情があるからです。

男が家事をやって女が外に働きに行く方がよい家庭もあります。(男女の特性が逆の夫婦もあるでしょうから。〔笑〕)共働きでないと生活できないという家庭もあるでしょう。

そういう家庭はそうすればいいのです。(しかし、そういう家庭はより以上に子供に愛を与えないといけないということです)

ただ、そのような特殊な家庭は別にして、ほとんどの家庭は男の特性や女の特性に従った方がいいのであって、そのほとんどの人のために書きました。

昔から伝わるよいことまで捨ててしまってはいけないのです。

よいことは続け、悪いことは捨てる、このよい悪いの基準をしっかり知らないといけないのです。

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3月 07 2016

しっかり実践する大事さ

しかし、地元のプロ野球球団は弱いですね。オープン戦序盤とはいえ、負けっぱなしではないですか。(何か勝てそうな感じしませんが)

まさか、あまりに負けすぎてオープン戦で監督が首になるような前代未聞のことが起きないでしょうね。

それくらい勢いがありません。(苦笑)

私のアドバイスは聞いた方がいいのではないでしょうか。私のいうことを聞く人と聞かない人では、起きていることに雲泥の差があるということは地元の人であれば誰でも分かると思うからです。

スポーツなど特にそれがよく現れます。スポーツ選手ほど私のいうことは聞いた方がいいのです。法を実践するかしないかで大きく成績も変わってくるからです。

あの何十年ぶりかで男女の団体戦で同時に決勝へ進出した卓球などもそうなのです。

どちらも決勝で敗れましたが、あの団体戦に出た選手の中で誰か一人でも法をきちっと実践している選手がいたのなら、その選手がいた方は勝っていたのです。(つまり優勝していたということです)

しかし、そこまでしっかり法を実践する選手がいなかった、それがああいう結果となって現れたのです。(両方とも準優勝)

決勝まで行けたのだから、優勝できるほどの分がある選手はたくさんいたのにです。

もちろん準優勝でもよいのですが、スポーツ選手であるなら(あそこまでいけば)誰だって優勝したいはずです。

しかし、中国の壁は相当厚いのです。(何せ、決勝で両チームともストレート負けですから)練習だけでは超えられない部分もあるでしょう。

その練習で超えられない壁を超えることが出来るのが、神の力なのです。

神の心に近づけば近づくだけ奇跡も起きてきます。そうしてその奇跡は、自分の心が向上するから起きることであり、決して悪いことでもなんでもないのです。

物心両面で向上するから結果もよくなる、これもまた当たり前のことであるからです。

法を知っているチームが法を知らないチームに負けるわけがないのです。中途半端ではなく、しっかり法を実践されたらどうでしょう。

そうすれば、必ず(もっと)よい結果が現れてくるからです。

このように法を少々知っただけではいけません。法を知ったのなら、実践しないといけないのです。

もちろん法を少々知って実践するだけでも奇跡は起こります。(そういう奇跡が起きた人はたくさんいますから)

しかし、少々の実践しかしなければ、少々の奇跡しか起きないのです。(現にそうでしょう。私ほどの奇跡が起きている人はいません)

私ほどやれとはいいませんが、少しずつでも実践を増やされたらどうでしょう。そうするだけでも十分、奇跡の実感は得られると思うからです。

ソロソロ昨日書いたことなども実践されではどうでしょう。

そうすればまた一つ、法の実践が進むと思うからです。(ということは、また次の奇跡が現れてくるということです)

追伸…最近は認知症の人が増えたそうですが、前に園頭先生が認知症は普段から勉強していない人がなるといわれていました。

先生は、普段から、しっかり本など読んで勉強している人は認知症になどならないといわれていたのです。

園頭先生の本好きは有名でしたが、先生は本当に多くの本を読まれ、どれだけ知識があるのかその知識の深さが分からないほどでした。(だから先生は、もちろん認知症などなられませんでした)

最近は本など読まない人が多いようですが、認知症の人が増え始めたのもそれが原因なのではないでしょうか。最近は本など読んで勉強する人は少ないと思うからです。(うちの父もそうでした。休みの日などテレビを観ながら寝ているか、自転車に乗って外を(犬と)走り回っているかのどちらかでした。本を読んでいる姿など見たことありませんでした)

最近はパソコンやスマホでゲームばかりやっている人が多そうですが、そういうゲームばかりやっている人は、まず年を取れば認知症になるでしょうね。

勉強していないからです。

ゲームばかりでなく、普段からためになる本など読み、勉強される癖をつけておいてはどうでしょう。

それが一番、認知症の予防となるからです。

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3月 06 2016

当たり前の行為

しかし、本当によく怒っていますね。

昨日は白鳥公園に行き横の堀川を歩いていたのですが、白鳥公園の横にある白鳥庭園の向こうで工事をしている連中がやたら怒っていました。(私が近くを通るとガンガンやってきました)

その連中は私に散々嫌がらせをしていたはずなのにです。(そうであるなら、悪いことが起きても自業自得だと思いますが…何で怒るのでしょう?)

昨夜も、どこかの会社の連中はやたら怒っていました。(この時期は〔二月中くらいから四月中くらいまでです〕この会社、ずいぶん忙しいようで夜の十二時過ぎまでやっています。本当に迷惑です。夜中でも平気ででかい音を立てるからです。これだけ常識がないのです。悪いことが起きてもある意味当然であると思いますが…)

そうかと思うと前と比べ運転手連中はずいぶん静かになりました。(こう書くとすぐにブシュブシュやってくる、このブログの愛読者もいるのですが。〔笑〕)

最近はずいぶん態度が変わった人が多いのですが、どうせならもう少し変えてはどうでしょう。その方が救われるからです。(中途半端はいけません。それでは災いは止まらないからです)

私の祈りはあまり関係ないということも分かったのであるし(ゼロではないのでしょうが。どこかの会社など寝る前の祈りをやめても災いは起き続けているようですし)自分たちの行いが悪いから悪いことが起きているのです。

では、その悪い行いを変えればよいことが起き出すのですから、変えた方がいいのではないでしょうか。誰でも、悪いことが起きるより、よいことが起きた方がよいと思うからです。

だいたい、このブログでいろいろなことを教えてもらい(正しい心の在り方などです)心を救ってもらっていながら、そのお返しが嫌がらせでは話にならないでしょう。

どうして、そんな明らかに自分が悪いと分かるような態度を取っていながら、その行いのせいで起きてきた天罰を人のせいにして、なお悪いこと(怒ってさらに嫌がらせ)を続けているのですか?

そんなことをしていてよいことが起きるわけがないでしょう。

何で、こんな簡単なことがいつまでも分からないのか本当に不思議ですが、このブログを読みいろいろ知ったことは事実であるのだし(いろいろ起きている現象も含めてです。祈ってそういうことが起きるなど誰も知らなかったんですよね)少しは私に感謝されたらどうでしょう。

感謝が足らないから(そういう行いが悪いから)そのような悪いことが起きているからです。

「お前のいうことなど聞けるか」ではなく、常識の話をしているのです。

全然知らなかったことを教えてもらっているのです。

では、感謝するのが当たり前のことなのではないでしょうか。それが人としての常識であるからです。

非常識なことばかりしているから悪いことが起きているのでしょう。それが何で人のせいになるのですか?

本当に意味が分かりません。

このブログを読んでいるのに、そのお返しが嫌がらせではあまりに人の道から外れているのです。(この前、どこかの国会議員が奥さんの妊娠中に堂々と不倫して非難されて国会議員を辞めましたが、あれと同じことを私に嫌がらせをしている人たちはしているのです。どちらも人の道から外れた行為であることにはかわりがないからです)

お返しを嫌がらせではなく、感謝の心で布施されてはどうでしょう。そうすれば災いが現れることはないからです。(どれだけ嫌な奴であろうと、その嫌な奴のブログを読み続けいろいろ教えてもらっていることは事実なのです。〔なんでそんな嫌な奴のブログを読み続けているのか、その意味もよく分かりませんが〕それには感謝の心で応えないといけないのです。よいことをしてもらったことは事実であるからです)

こういう嫌がらせをしている人たちもそうですが、このブログを何年も前から読んでいて、一度も布施をしようとしない人たちも同じなのです。

私に、よいことをしてもらったのはまぎれもない事実なのです。

このブログを読み、知らないことを知った人は多いと思います。(どれほど頭のいい人がこのブログを読んでいるのか知りませんが、その人は知っていましたか?正しい祈りはきかれるということをです。神やあの世の存在をです)

知らないことを知ったどころか、お蔭まで(よい方のです)あったと思われる人までいるのです。

では、感謝して快く布施くらいしてくれるのが当たり前のことなのではないでしょうか?私は何度も布施してくださいと頼んでいるのですから。

何年にもわたって、そういうことを一切しようとしないというのは、やはり人の道から外れた行為であると思われないでしょうか?(私は、その布施の金額さえ指定したことなどないのです。お気持ちだけで結構です、と何度もいっているのです。それでも頑として出そうとしないのです。ここまで来ると人の道から外れていると思われないでしょうか)

普通の社会人であるなら、それくらいの常識はあると思うからです。(子供でもこれくらいの常識はあると思います)

このブログを見ている人たちは、ことのほか常識外れの人が多いのでしょうか?そんなことはないはずです。

常識のある人が多いと思いますので書くのですが、今のような態度は(人として)大変恥ずべき態度であるのです。

そのような態度は直されてはどうでしょう。このブログを読んでいる人たちは、普通では知り得ないようなことを知らされているからです。(この世で法に巡り合うことの難しさは何度も書いています)

お寺や神社にお参りに行き、お賽銭を投げない人はまずいません。

しかし、そういう場所に行ってお参りしても、まずお蔭はありませんが、この教えを実践するなら確実にお蔭があるのです。

その確実にお蔭がある教えを毎日のように教えてもらっていながら、お賽銭を投げない人がほとんどでは話にならないでしょう。

少しくらい布施されてはどうでしょう。

それが人として当たり前の行為であるからです。

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3月 05 2016

やり方を変える

いやいや凄い怒りようでしたね。昨日の庄内川の帰りはです。(苦笑)

トラックの運転手もバスの運転手もかなり怒っているようでした。昨日のブログが原因でしょうか。(苦笑)

どこかの会社も昨日午後から急にキレ出してガタガタやってましたので、昨日のブログは、皆さんよほど気に食わなかったのでしょう。(そうして帰ってきたら、どこかの会社など昼間以上に怒っているんですから呆れました。〔また何か起きたんでしょう〕この近くまで来たら、あちこちにそういう〔やたら怒っている〕人がいましたが、一体この辺り何が起きているんでしょう?本当に怖いです。〔恐〕)

しかし、事実は事実です。(見れば分かるでしょう。現実逃避はやめましょう)

私のいうことをきかないなら天罰は止まりません。そういうことをしている人(もれなく)全員に天罰はくだることになります。

その覚悟だけはしておいてください。

よほど自分たちの間違いを認めたくないようですが、私のような下賤(げせん)の者のいうことなど聞けませんか?(やはり偉い人たちは違います)

そうして、どんな悪いことが起きても「自分たちが絶対に正しくて間違っているのはお前」そう思い続けるのですか?

まるで、どこかの国の独裁者のようですが(そういう傲慢さに気づいていない人が多いようです)しかし、よく考えてみてください。

よってたかって一人の者に嫌がらせをしているのはあなたたちの方なのです。それは悪いことではないのですか?

その者が悪いことをしているから、嫌がらせをされるのは当然だとでも思っているのでしょうか?

しかし、そのような考えが間違っているということは子供でも分かります。

なぜなら、人が悪いことをしているからと、その人に悪いことをしてもいいなど誰も思わないからです。

人が悪いことをしているのなら、注意してあげなさいとか、悪いことを止めてあげることはいいことですと、誰でも教わっているからです。(小学校くらいで教わりますよね。そういうことは)

悪を悪で返すなら、それは悪でしかありません。

私が仮に悪いことをしていると思うのであれば、なぜそれを善で返す人がいないのでしょう?(その悪を注意したり、止めたりです。あなたがやっていることはよくないと、私に注意した人は一人もいません)

私への悪口や嫌がらせは悪以外の何ものでもないのです。

そういうことをしているから天罰を受けているのでしょう。なぜ、それが私のせいになるのですか?(悪いことをしているのは自分たちでしょう。何でそれで悪いことが起きたら、それが私のせいになるのでしょう。まったく意味が分かりませんね)

それに私が悪いことをしていると頭から決めつけていますが、何度もいいますが、何でそんな悪い者に奇跡が起きているのですか?

そのような簡単な質問さえ答えられる人がいないではないですか。

では私が悪いことをしているかどうかなど分からないでしょう。これだけ分からない現象が起き出しているのにです。

だいたい、少し前まで人の祈りがきかれるなど誰も信じていなかったのです。そういう人たちが、私が祈ることをじゃまするのです。

なぜでしょうか?

私の祈りはきかれると多くの人が知っているからです。だからじゃまするのです。散々いじめている私の祈りがきかれてはまずいからです。

そういう祈りが次々にきかれるなど、これまで起きなかったことではないですか。

何でこれまで起きていなかったことが起きているのに、それを悪と決めつけることが出来るのでしょう。

これまで起きなかったことが起きているということは、これまでの考えは通用しないといわれていることと同じなはずなのにです。

だから知ったかぶりはやめた方がいいのです。(知ったかぶりでしょう。これまで経験したことがないことが起きているんですから、よいも悪いも判断のしようがないからです)

こういう時は、過去の書物などもよく読んで、起きてきたことに従った方がいいのです。それが一番間違いがないことだからです。

起きてきたことに従うとは、よいことが起きてきたのなら、そのやっていることを変わらず続ければいいし、悪いことが起きてきたのなら、そのやっていることを変えればいいのです。

やっていることを変えれば、その悪は起きなくなるからです。

それを頑なに、どれだけ災いが起きてきてもやっていることを変えない、これが一番間違ったやり方であり、その一番間違ったやり方をし続けているから多くの人に災いが起き続けているのです。

そのやり方に問題があるからです。

また、それが正しいやり方であると過去の書物など読めば分かるのです。(聖書や仏典などです。それをそのまま読まなくても、聖書や仏典を分かりやすく書かれた本がいくらでもあります。そういうものを読めば分かります)

どれだけ責任転嫁をしても、この災いはなくなりません。(悪いことをしているのは自分自身であるからです。それが自分に返ってきているだけだからです)

自分のやり方(行い)を変えない限り災いは止まらないのです。

もう次々に不幸が現れてきているようです。(周りの皆さん大変そうです。やたら怒っている人、急に静かになってしまった人などたくさんいますから)その不幸を人のせいにして怒っている暇があるなら、行いを変えられてはどうでしょう。

その方がよほど幸せになれるからです。

追伸…私はこの間(ここ数年のことですが)よいことしか起きていません。奇跡しか現れていないからです。(災いなど一つも現れませんから。何で災いが現れるのか、その意味も分かりません)

これほどの差があるのに、未だお前が悪いですか?

そういうこといっている間にも、私には奇跡が、それ以外の人には災いが起きているというのにです。

釈尊が説かれた正法を正しく実践するならば、必ず、このような様々な奇跡が現れてくるのです。

私はその釈尊の説かれた正法を正しく説いているのです。(だから釈尊と同じ〔鳥が寄ってくるなどの〕奇跡が起きるのです)

この教えを実践されたらどうでしょう。そうすれば、いま起きているその災いは起きなくなるからです。

このように正法が説かれているその場所には必ず数々のお蔭が現れます。

そのような現象こそ、正しい教えを説いている証(あかし)であるからです。

現象がまったく現れない正法など本当の正法ではありません。(それは偽の教えであるということです)

口だけ正法にいつまで騙されているのですか?

如来の弟子であった方々も早く気づいてください。

自分たちの間違いにです。(本当に高橋先生も園頭先生も泣かれています)

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