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8月 15 2011

ヤハウェ①

暑いですね(全国的に猛暑なのですが)名古屋は連続の猛暑日が一週間を超えました。

しかし、この時期(もうお盆ですよ)これだけ暑くなりますかね?まったく異常ですね。六月後半から七月中頃にかけての猛暑の疲れが(節電疲れもでしょうが)出る頃でもあります。時期も時期だけに、お盆にドボンとならないようお気をつけください(?)。

奇妙なことに名古屋は、あの“過ぎ越しの祭り”を書いた日(八月七日ですが、もちろんこの日から徹底的に祈り始めたのですが…)から気温が35度を超え、それが今日まで続いています。普通ならこの時期ソロソロ気温が下がり始める頃ですが、逆の現象が出ています。偶然(?)とはいえ不思議なものですねぇ。(八月の名古屋の気温は一~六日までは27~33度くらいだったのに、七日から急に35・4度、八日35・3度、九日35・7度、十日36度、十一日35度、十二日36・1度、十三日36・7度、十四日36・3度と猛暑日が続いています。今年の名古屋の35度以上の猛暑日は、あれだけ暑かった六月後半でさえ二十九日と三十日の二度と、七月は九日と十五日の二度あっただけです。現在の名古屋にいかに異常なことが起きているのか、この数字を見ただけでも分かります。これだけ暑くしても誰も協力していただけない、ということになれば、次の現象を出すことになりますが…)

旧約聖書には“ヤハウェ”という存在が書かれてありますが、そのヤハウェはモーゼを通し様々な奇跡を現します。その後ヤハウェは、エリヤやエリシャと言われた預言者たちの上にも現れ、やはり多くの奇跡を現すのです。(もちろんキリストの上にも現れていますが)

このヤハウェを旧約聖書は“エル・シャダイ”という呼び方もして“全能の神”という捉え方をしていますが、ヤハウェは全能の神ではありません。

この大宇宙を創造された唯一の神が、この大宇宙から見ればチリや埃のような小さな星でしかない地球に、ワザワザ現れるというのも、また無理のある話のように思いますが皆様はどのように思われますか?(全宇宙にある無限の星々を支配し、現在においても、まるでコンピューター制御されているかのごとく、正確に動かし続けていられる神が、その無数にある星の中の、こんな小さな星にワザワザ現れるのでしょうか?)

それと同様に、地球から見たら、やはりチリか埃のような小さな存在の人間に、神が現れるというのもかなり無理のある見方であると思います。(このようなことを考えますと、少々不思議なことができるくらいで〔そんなことは地獄霊が憑いてもやれますので〕現在、我こそは神である、と声高に言っているどこかの教祖や、それを信じているその教祖の信者たちが、どれだけバカげたことを言い、またバカげた話を信じているのか、お分かりいただけると思います)

地球には地球の、その全権を任されている偉大な存在(真のメシア)があるのであり、それがヤハウェと呼ばれる存在なのです。

つまりヤハウェとは“宇宙即我”の境地に到達していられる人間である、ということです。(だから私は大きな意志と書いているのです。大きな意志、大きな意識=宇宙即我の境地)

ここで一つ考えていただきたいのは、聖書にはヤハウェの存在は書かれてありますが、仏典にはヤハウェ(またはそれに相当する存在)は書かれてありません。釈尊の前に出てこられるのは、梵天(ぼんてん)と言われるあの世の霊たちだけです。(もちろんこの方々も、宇宙即我に到達された方々ではありますがヤハウェではありません)

なぜ、仏典にはヤハウェのような存在が書かれていないのでしょうか?

仏典はヤハウェの存在を書きようがないのです。ヤハウェとは釈尊のことであり、すなわち高橋信次先生のことであったからです。

ですから、キリストが変貌の山で祈った時、その前に現れたのはモーゼとエリヤであり釈尊はいません。(この時一緒にいたペテロやヨハネが、キリストの体が太陽のように輝きモーゼとエリヤと話していた、と語ったのは、弟子たちはキリストを霊視したのであり、肉眼でキリストを見ていたわけではありません。キリストが急に変貌したように聖書には書かれてありますが、正確に言うならば、キリストの弟子たちは幽体離脱したキリストを霊視した〔当然モーゼもエリヤも霊体であったのですし〕というのが正しいのです)釈尊はエホバ(ヤハウェ)としてすでに登場していられるからです。

つまりヤハウェとは高橋先生(釈尊)のことを言っているのであり、その教えが日本に出ているのに、その教え(真のメシアの教え)を知ろうとしない人が多いため、日本は現在のような異常現象が続いている、ということです。

何べんも言いますが、現在日本に起きている異常現象を、それは温暖化の影響で(私も温暖化しているということは認めていますよ、地球が温暖化していないと一度も言ったことはありませんから)日本が亜熱帯のようになってきているから、今のような異常現象が起きていると、何か勝手にそうなっているだけで、自分たちは関係ないという言い方をしている人たちが未だにいますが、では、何でこんなに寒暖の差が激しく、地震もこれほど起きているのでしょうか?(火山の噴火もそうですが)

そのように言う人たちは、今のような高温や大雨の部分だけとってそう言っているだけであり、冬も異様に寒く(今年は大震災があった三月まで、ずいぶん寒かったように感じますが)大雪が降ったり、これだけ多くの地震が起きたりしていることなど、亜熱帯の気候にはまるで当てはまらないではないですか、そのように言う人たちは一部分だけとってそう言っているだけであり、全体を見て言っているわけではないのです。

私は前にシャリー・プトラーの教えである“象喩経”(ぞうゆきょう)のことを書きました。一部分だけ見て言っても正しいことは分かりません。全体をしっかり見ないと正しいことは分かってこないのです。

(関電でまた問題が起きました。堺港火力発電がトラブルで停止してしまい再開には数ヶ月かかるとのこと、だいたい関電は半分近くの発電を原発に頼っているのですから、停止中の原発を再開させないのは土台無理のある話です。北海道の泊原発も近々再開が容認されるとのこと、関電も福井にある定期検査が終わった原発を早く動かした方がいい、関西の知事たちは原発を再稼働されるよう働きかけるべきです。でないと大変なことになるかもしれませんよ)

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8月 13 2011

肉体と意識

人には肉体と意識があります。これは誰もが認めるところでありますが、では、肉体と意識とはどのような関係なのでしょう?意識とはどこから来ているものなのでしょうか?現在の医学がいう人の意識とはすべて脳からきているものなのでしょうか?その点を法の見地から書いてみましょう。

現在の肉体だけを見ている医学では、意識は脳がつくりだしているものであり、その脳細胞が考え覚えるのであると説明されています。だから、その脳が壊れてしまうと意識もなくなってしまうと説明されますが、高橋先生は肉体と意識のことを、肉体とは車であって、意識とはそれを運転している人間を言うのである、と言われていました。

つまり脳とは、たとえて言えば車のハンドルのようなもので、ハンドル(脳)が壊れれば確かにその車は制御不能になるが、運転している中の人までおかしくなった訳ではない、肉体的に見て意識がなくなったように見えても、実際は意識はあるのである、と言われていたのです。(つまり、例えば事故などで頭などを大怪我をして、意識をなくしているような人が、肉体的には物を認識したり、考えたりまったくできなくなっているように見えるが、実際はできているのである、と高橋先生は言われているのです)

現実に、それを裏付けるような話が臨死体験の本などにはたくさん出てきます。

病院で入院していた患者の意識がなくなり、それを周りが大騒ぎして手当てしているところを(医者がその患者の蘇生を行っていたり、看護師が注射を打ったりしているところなどを)その患者が上から見ていて、医者や看護師の話していることや考えていることまで全部分かった、と言う話はよく聞くところでありますが(このような話はいくらでもありますので、臨死体験者の本を読んでご確認ください)やはり私も、肉体の脳がものを考えたり覚えたりするということは、どう考えてもおかしい、ということを再確認するような出来事がつい先日ありました。

その出来事とは、やはりスズメの話なのですが、私は白鳥公園に行くと、よくスズメが集まってくるようになってから、スズメに声をかけるのがクセになってしまいました。(笑)声をかけると喜ぶスズメが多いからです。

それは白鳥公園だけでなく、他の場所にいても近くにすずめが寄ってくると、ついつい声をかけてしまいます。(ちょっと危ない人のようですが…笑)しかし、やはり、他の場所にいるスズメでも声をかけると、驚いたような顔でこちらを見ているスズメもあり(無視するスズメもいますが、大半のスズメは何か興味を示してくれます)中には嬉しそうに寄ってくるスズメもあって、スズメの反応が面白いので人がいなければ(さすがに周りに人がいる時はそんなことしませんが)「オイ、オイ」とか「元気か」とか言って声をかけます。

先日金山駅の北側出口にあるアスナル金山(飲む所や服やら靴やらケーキやらの店もたくさんあり、ステージもあって、芸能人やら来てショーをやってる時もあります。日に数百人位の人は出入りしているのではないでしょうか)に行って、座っていたときのことです。一羽のスズメが私の近くに下りてきて、下に落ちている誰かがこぼしたお菓子のカスのようなものをついばんでいました。

周りに誰もいなかったので、私はそのスズメに声をかけました。「オイ、元気か」と、するとそのスズメは驚いたようにこちらを見ていました。こりゃ反応ありそうだなと思った私は「オイ、オイ」とそのスズメに声をかけていると、チョンチョン飛び跳ねながらこちらにスズメが寄ってきました。しかし、私から一メートルくらいのところまで来ると、サッと飛び上がりどこかに飛んでいってしまいました。

「なんだ」と思ってしばらくその場で座っていると、そのスズメがまた戻ってきて私の近くに下りました。少し私の顔を見ていたスズメは、またチョンチョン飛び跳ねながら、こちらに寄ってきます。しかし、一メートルくらいのところまで近づくとまたサッとどこかに飛んでいってしまいました。そのようなことがもう一度あり、その後私は帰ったのですが、それから十日位したときのことです。

その日また私はアスナル金山にいました。(そのスズメがいたのは三階で座っていたときのことで、その日は二階に座っていたのですが)すると一羽のスズメが私の近くに下りてきて、やはり下に落ちている食べカスか何かをついばんでいます。

そのスズメが餌をついばみながら私の方に寄ってきました。なんとなく、こちらを意識しているようですが、といって私の方を露骨に見る風でもありません。下に落ちている餌を私のすぐ近くまで来てついばんでいます。最初私はさほどそのスズメを意識していなかったのですが(その時は周りに人もたくさんいたので、あまりスズメに興味を示すと危ない人ではないかと思われてもいけませんので〔笑〕)私の近くに来ても全然逃げません。

少しするとどこかに飛んでいってしまいましたが、しばらくするとまた戻ってきて私の近くに来て餌をついばんでいます。何かこのスズメ、私を意識しているようなのですが、私は何でこのスズメが、私の近くに来て餌をついばんでいるのかよく分かりません。するとまた、どこかにスズメは飛んでいったのですが、今度はすぐ戻ってきて近くの手すりにとまり、私の方を覗き込むように見ています。

「何だこのスズメ、周りに一杯人がいるのに何でこっちばっか見てんだろ?」

私はそのスズメを見て不思議に思いましたが、フッと十日前のことを思い出しました。

「アッ、あの時のスズメか」

私はすっかり十日前の出来事など忘れていましたが、そのスズメは覚えていたのです。「お前あの時のスズメか…」私がフッとそのような顔をしてそのスズメを見ると、そのスズメは、やっと分かったかという顔はしませんでしたが(笑)何か気づいたような風でまたこちらに寄ってきました。その時、私ははっきり分かりました、あの十日前のスズメなのだなということが。

しかし、このアスナル金山は日に何百人という人が出入りしているのです。それなのに十日前の出来事をスズメが覚えているのでしょうか?しかも私の顔まで…?スズメの脳みそなど微々たるものです。脳が覚えるということであれば、そんなスズメのような小さな脳みそで、十日も前の出来事を覚えているということは、不可能なのではないかと私には思えるのですが、それだけではありません。このスズメは日に何百という人が出入りしている、このアスナル金山で私の顔まで覚えていたのです。とても、そんな小さな脳では覚えられないと思うのですが…。(私はスズメなどよりはるかに大きな脳を持っているというのに、そのことをすっかり忘れていました。ということは私はスズメよりバカだということになります〔笑〕)

私は、そのスズメの脳が覚えていたというより、やはりそのスズメの意識が覚えていたのであり、意識が何かを考え意識が覚えていると言う方が私には正しく思えました。私の意識もスズメの意識も、神の超巨大な意識からつくられたものであり、意識の最深部の心の一番深いところは皆神と繋がっているのであり、その神に繋がっている意識がものを考え覚え、その意識をすべてのものが持っているから、すべてのものは尊いのであって、その尊さを私たちは皆知っているのです。

だから人や、他の生き物にに対する哀れみや慈悲の心が私たちには出てくるのであり(同じ神の意識であるということを心の奥では認識しているからです)その意識の深さ、心の不思議さを私たちは知らなくてはならないのです。

その神に繋がる意識と言うものがどれほど偉大なものであるのか、それを私たちはこれから知ることになるのです。

(ここんところやたら暑いのですが…〔おまけに福島は震度五の地震が起きるし…私が祈って大雨と地震が起きたことを思い出します、あの時も震度五の地震が起きました…マァ今回は違うのでしょうが…〕京都も陸前高田市の薪の問題で不評を買っているようですが、いろいろ悪いことも起きていますのでお気をつけください。祈っても暑いだけでなかなか現象らしい現象が出ません。賛助会員もやっと二人くらいの人がなってくれただけで、これでは賛助会員のページも作れません。最低十人くらいは賛助会員になっていただけますよう、もっと死ぬ気で祈ります)

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8月 11 2011

正しさの基準

何か徹底的に祈り始めた途端、暑さがぶり返してしまいました。それにしても昨日、一昨日は暑かったですね。(一昨日など道を歩いていたら、何か胸が苦しくなってきて頭が痛くなってきました。アレもしかしたら熱中症かなとも思いましたので、スポーツドリンクを買って日陰で休みましたが、その日は一日頭がふらついて気分が悪かったです。あのまま歩き続けていたらやばかったですかね、私が熱中症になってはシャレになりません)

一昨日は全国の八割が真夏日になり、京都の園部で38.1度の全国一位の気温が観測されたのですが、これは園部の観測史上でも一位の気温だったそうです。(前にも書きましたが、京都はこれからいろいろ起きてくるかもしれません…すでに起きていますね)昨日は一昨日よりもっと暑くて、全国一位の最高気温が群馬の館林市で38.7度を記録し、全国の151の地点で猛暑日(今夏最多)になり熱中症の人が続出しました。

しかし、このように異常に暑くなるのも仕方ないでしょう、日本の津々浦々で脱原発だの、停止中の原発を動かすなだの(動いている原発まで止めろといっているところもありますが)先の日本のことも考えず、原発は危険だとヒステリックに騒いでいる人が多いのですから。

そんなことを言っているのはお前だけだ、お前の言っていることの方がおかしいと言う人の方が多いのでしょうが、では、何で脱原発など言って節電などしている時に限って、こんな異常な暑さとなり、電力需要が必要以上に逼迫しているのでしょうか?昨日一昨日など、東北電力、東京電力管内の電気の供給率が90パーセントを超えました。停止中の原発を動かさなくて大丈夫なんでしょうか?(運の悪いことが異様に重なっていますよね、このようなときに限って火力発電所などがトラブルを起こし止まってしまったり、この前の新潟、福島の豪雨で水力発電のダムが軒並みやられ、供給がストップしたまま復旧のメドが立っていなかったり、これではただでさえ電力不足なのに、その状況に拍車がかかる一方だと思うのですが…何でこんな運の悪いことばかり起きるのでしょうか?)

そればかりではありません、脱原発やら停止中の原発を動かすな、などの発言をしている知事たちのところに限って、異常現象がやたら起きているのはどうしたわけでしょうか?

私の言うことをおかしいという人は(新聞やテレビなど観ても)たくさんいますが、では、何で現在の日本が異常に運が悪い、このような苦しい状況になっているのか?その説明をしてくれた人は一人もいません。

新聞やテレビに出ている人など、私などよりずっーと頭のいい人が多いのですから、その説明をしていただきたいのですが、不思議なことに誰一人ちゃんと説明してくれた人がいないのです。

「そんなものはただの自然現象が、偶然重なって起きているに過ぎない」では、説明になっていませんよね、だって、そのように言う人たちの方ばかり、運の悪いことが起きすぎているのですから。

私の意見は、悪いことばかり起きているのは、そこの住む人々の、考え方が間違っているのであり、間違った考えを持っているから悪いことがことが次々と起きてくるのであり、自然をコントロールしている大きな意志が存在し(そのような大きな意志はそこに住む人たちの心を皆知っています)それが教えてくれているから、そのような状況が起きてくるのであって、その大きな意志には逆らわず従った方がいい、その方がよいことが起きてくる、そのような大きな意志は、大自然を通して私たちに教えてくれているのだから、もっと大自然から学んだ方がいい、と言っているのです。

大きな意志など存在するはずがない、私の言うことが荒唐無稽だ、というなら、私の意見に反することを言っている人の方ばかり、何で悪いことが立て続けに起きてくるのでしょうか?何かの意志が働いていなければ、こんな偏った起き方するわけがないでしょう。私には大自然という裏づけがあるから、私の言っていることは正しいと主張しているのです。(それともそんな現実も無視して私の言うことなど認めませんか?それもまた子供じみていますね…大丈夫です。そんな子供じみた大人はたくさんいます。しかし、そんな人は救われることはないのです)

自分たちの方が正しいといっている人など、皆、あの人がこう言っている、この人がこう言っている、と人の言うことばかりを基準として、自分の言っていることは正しいと主張しているに過ぎないのです。その言われている方が(釈尊やキリストのように)悟りを開いていれば話は別ですが、そうでないのなら、どれだけ有名な人であろうと、どれだけいろいろな体験をした人であろうと、その人の意見が正しいかどうかは分からないでしょう。

言ってはいけませんが、そんな人の意見より大自然(大きな意志)の方が正しいのであり、大自然から学んだ方が間違いがないのです。大自然の心の方が今ある人々の心より遥かに大きいからです。遥かに偉大だからです。

そのことに早く気づかないと間違った道をドンドン進むことになり、最後は大きな不幸に見舞われることになるのです。

私の言うことが間違いだという人は、自分が間違っているとは一切思わないのでしょうか?それもまた、ずいぶん狭量な意見だと思いますが、言ってはいけませんが、もっと謙虚にならないと正しいものは観えてこないのです。(謙虚な心にならないと自身の心の中にある偉大な智慧に気づかないからです)そのような人は後で大きな後悔をすることになります。もう少し謙虚になり大自然に学ぶということを実践された方がいいと思います。

また、総理が「高速増殖原型炉もんじゅ」を廃炉も含めて検討すべき、との認識を示しました。(いつものことですが)この総理の思いつき発言にはあきれます。地元福井県の知事や市長など、もうまともに総理の意見など聞いていませんが、くれぐれも言っておきます、一時の感情で科学の発展を止めてはならないのです。(総理がやっと退陣を明言しましたが、冗談ではありません。総理一人退陣したところで日本の苦しい状況は変わりません。何度も言いますが、総理は内閣総辞職して解散総選挙までしなければいけないのです。そうしないと神は総理を過ぎ越さないでしょう、過ぎ越しの祭りはすでに始まっています)

私たちは、大自然から学ばなければならないのです。脱原発を言う知事などによいことが起きていないのは、その考えが間違っているからなのです。新聞やテレビなどで言っている人には何も起きていないではないか、という人もいるでしょうが、新聞やテレビなどは直接すぐに国や地域に影響しないから何も起きていないだけなのであって(知事の発言などは即国や自分が治めている地域に影響します)その報道があまりに過熱で国や地域に影響が出そうであれば、当然その大きな意志は、そのような新聞やテレビにも気づきを与えることになります。

なぜ、今これほど暑くなっているのでしょう?(こうでもならないと誰も原発を動かそうとは思わないでしょう)その意味を早く理解しないと大きな不幸に見舞われることになるのです。

大自然は今のことだけでなく、先のことも教えてくれています。その教えに逆らえば必ず大きなしっぺ返しにあいます。

自分の意見が正しいのか、正しくないのかは、人に判断を任すのではなく、大自然に判断をゆだねた方が間違いがないのです。

(このところ急に暑くなりましたが、少々暑くなったところで、それは私が祈ったせいでそうなりました、などとは誰も思わないでしょう。もっと分かりやすい現象が起こらなければ誰も私の言うことなど信じず、賛助会員になってくださる人も現れません。〔皆様の頑なさは十分承知しております〕まだまだ私は祈り方が足りませんね。そんな現象が出るまで祈って祈って祈りまくります)

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8月 09 2011

お盆のいわれ

もうすぐお盆ですが、このお盆には死者が家に戻ってくるといわれ、全国各地で様々な行事が行われるようです。

元々お盆供養はどこから始まったのでしょうか?そのお盆のいわれを書いてみましょう。

現在の日本が、お盆供養というものをするようになったのは、やはり中国から釈尊の教えである仏教が伝わった時からです。

釈尊の弟子である大目蓮(十大弟子の一人でシャリー・プトラーの親友)が、ある時死んだ自分の母はどこにいるのであろうと思い、死んだ母を霊視してみました。(大目蓮は神通第一といわれ、すでに霊視ができました)

すると母は自分の家のすぐ近くに一人寂しそうに立っていました。母は明らかに水をほしがっているようなので、大目蓮は托鉢用の鉢に水を入れ母に差し出したのです。ところが、どういうわけか母の口元まで水を持っていくと、鉢の中の水が火に変わってしまい飲ませることができません。何度やっても同じことが起きるのです。

なぜ、こんなことが起きるのか不思議に思い、釈尊にそのわけを尋ねました。すると釈尊は、大目蓮の母の悪かったところを一つ一つ指摘されたのでした。

大目蓮の母はバラモンの出身でした。(インドのカースト制度の最上層の階級です。この当時〔今から約二千五百年前〕もバラモンは一大既成宗団を形成し、上層階級を占めていました)

大目蓮の母は高貴な家庭に生まれたがため、自我が強く虚栄心に満ち、信者から多くの布施を受けても、それに感謝の心も行為もなく威張りちらしていました。人から布施を受けても、自分が持っている物には執着が強く、人に何かを与える愛も慈悲もなく、そして死の間際には死ぬのを嫌がり、鬼のような形相で死んでいったのです。

このような生前の行いが、自らを火炎地獄に堕としてしまったのである、と釈尊に言われ、その母を救いたいのであれば、生前母がやらなかった恵まれない人々への布施を、大目蓮よ息子のそなたが、一年のうちのせめて三日間くらいはやってあげなさい、そうするそなたの姿を見て、母も自分の悪かったところを反省し、自分のしてきたことの間違いに気づくであろう、その間違いに気づいたとき、初めて母は救われ天上界に昇っていけるのである、と教えられ、それから大目蓮は日を決めて、一年のうちの三日間は、いつも布施をいただいている人たちに感謝の心も込めて、恵まれない人々に布施するようになります。

この大目蓮の“恵まれない人々への布施”“生きた人々への供養”からお盆の習慣は始まったのです。

ところが、仏教が中国にわたり日本に伝わった頃には、生きた人々への供養が死んだ人々への供養に変わってしまっていたのです。

しかし、生きた人間に食べ物を布施するということなら話も分かりますが、死んだ人間に食べ物を布施して、あの世にいる人は食べられるのでしょうか?いままで、一度でも盆に帰ってきた死者が、出された食べ物をおいしくいただいて帰った、ということがあったのでしょうか?(少なくとも私はそんな話を一度も聞いたことがありません)

お盆の頃になると故郷に帰り、日頃会えない親戚や友人らと、生前の祖父や祖母のことを思い出し、仏に供物を上げて楽しいひと時を過ごす、時にはそのようなこともいいでしょう。

しかし、いくら死んでいった人に感謝の心を込めて食べ物を上げようと、死んだ人はこの世のものなど食べられないのです。(このように考えますと、毎日仏壇にご飯を上げたりしていますが、あれもまったく意味がない行為であると言わざるを得ません)

本当の意味をよく知ることです。釈尊は先祖に感謝しろとは教えていますが、先祖を神のように崇め拝みなさいとは教えていないのです。自分の先祖を信仰の対象とすることは間違いなのです。(ということは檀家制度が間違っているということになりますが、その檀家制度の間違いはまた書きます)

先祖供養とは、今の自分たちの心と行いを正し、人に愛や慈悲を与え明るい生活をすることこそ、本当の先祖供養になるのであり、そのような生活を私たちが心がけることにより、もし、先祖の中に地獄に堕ちている者がいたとしても、私たちの心と行いを観ることによって、自分たちの悪かったところに気づき、反省し、それによって迷える先祖たちも救われていくことになるのです。

本当の先祖供養とは、仏壇に線香を上げることでも、お経を上げることでもなく、自分たちの生活を正すことこそ本当の先祖供養であり(それは大目蓮の行いを見ても分かります)本当のお盆供養とは、死んだ人間を供養することではなく、生きた人間への供養(布施の行為)であったのです。

昔からの風習とはいえ、それに疑問一つ持たず、いつまでも間違った行いを続けていては、心の向上などありえません。本当の意味をよく知り、それを行うことこそ大事なことであり心も向上していくことになるのです。

(河村市長が福井原発の視察に行かれるとか、くれぐれも危ない発言にはお気をつけください、名古屋に何が起きるか分かりませんので。しかし、この時期よく行かれますね〔もう私ガンガンに祈ってますから〕危ない発言をされるとご自身が危ないですよ…一~二人の方からしか賛助会員になってもいいというメールが届いていません。これでは天も許してくれないでしょう。もっと多くの方にご協力いただけないと、私も祈りを止めることができません。〔現象が出続けるまで徹底的に祈ります。だってそうしないと誰も私の言うことを信じようとしないでしょうから〕天が激しく動き始める前に、一人でも多くの方のご協力よろしくお願いいたします…でないと恐ろしいことが次々と起き始めるかもしれません)

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8月 07 2011

過ぎ越しの祭り

サッカーの松田選手が亡くなられました。謹んで心よりご冥福をお祈りいたします。

この松田選手のように、若いのに突然死する人など、はたから見ていても大変お気の毒なのですが、このようなことが起きる場合は主に二つの理由が考えられます。

一つは自分でここまでの寿命と決めてこの世に出てくる場合です。この場合は、自分でこの間だけこの世で修行し、その後は早いうちにあの世に戻り、今度はあの世で修行しようと決めてくるのですから、突然死しても天上界にいくということになります。

もう一つの理由は、この世に出てきたのはいいけれども、自分の決めてきたことを全然やろうとせず、この世の修行にならない人がいます。そういう人の場合、これ以上この世にいても修行にならないと天が判断し、このような突然死させてあの世に引き上げてしまうことがあるのです。この場合は、自分がやるべきことをやらずに、天にあの世に引き上げられてしまうのですから、当然、地獄にいき厳しい修行をしなければなりません。

大まかに分けるとこの二つの理由で突然死することが多いのですが(大まかに分ければです。細かく言えば過労死や、あるいは人のせいで〔たとえば親のせいとか〕突然死することがあります)どちらにしても、このようなことが自分に起きた場合、もうオタオタせず死んでしまったものは仕方がないと割り切って、この世の未練は断ち切り(この世にあまりに未練を強く持ってしまうと〔たとえば、まだ死にたくないとか、死ぬのはいやだ、こわい、など〕その執着心がその場に地獄界を作り出し、自らそこで苦しまなくてはならなくなるからです)生前の反省をよくすることが大事なことだといえましょう。(結局こんな場合は、臨死体験の体験談によくでてくる、自分の肉体から霊体がいきなり飛び出してしまいますので、それにあわてず冷静に〔といってもなかなか難しいでしょうが〕判断しなければ、天上界にいける魂もいけなくなるということです)

私がなぜこんな話をここに書いたのか、といえば、このような突然死は誰に起きても不思議ではないからです。このブログを読んでいる人が、このブログを読み終わった途端、そのような事態になるかもしれませんし、だからいつそうなってもいいように、心構えだけは間違わないよう、そのことをここに書いておきました。

しかし、妙な話ですね、つい先日私がこのブログに“次の現象”と題して、それらしい話を書いたばかりなのですが…。

そのようなことを、このブログに書いたすぐ後に、有名なサッカー選手が心筋梗塞で突然死するなど、ずいぶん奇妙な偶然ですね…。(有名選手が突然死したため、このニュースは日本中の人が知ることになりました)

偶然にしてはできすぎていますね、これ偶然なのでしょうか?(今までここに書いたパターンでいくと偶然とは思えませんが…何かの警告かもしれませんし)

“過ぎ越しの祭り”というものをご存知でしょうか?

この“過ぎ越しの祭り”とは、ユダヤ教の三大祝祭の一つで、エジプトの王からモーゼが多くの奴隷たちを解放した“出エジプト”を記念して春に行われるお祭りです。

モーゼはエジプトの王より多くの奴隷を解放するため、数々の奇跡を起こします。(エジプトの川の水を血に変えたり、ヒョウを降らせてそのヒョウが地面に落ちた途端に火に変わって燃え上がったり、あるいはイナゴの大群がエジプトを襲い、エジプトの食物を食い荒らしたり、などなど)

しかし、エジプトの王は心を頑なにして、どのような奇跡をモーゼが起こそうと奴隷を解放しようとはしませんでした。

そこで、そんな王からモーゼが奴隷を解放するため起こした最後の奇跡が、ヤハウェーによってエジプト人の長子を皆殺すというものでした。

そのモーゼの言葉の通り、エジプト人の長子は皆ヤハウェーの手により殺されたのですが、モーゼは「戸口に小羊の血を塗れば、その家は神は何もせず通り過ぎていく」という話をされます。そのモーゼの言うことを素直に聞いて、戸口に小羊の血を塗った家の長子はモーゼの言葉の通り、難を逃れ死ぬことはありませんでした。(このことから過ぎ越しの祭りと言われるようになったのですが)

この、エジプトの多くの長子が死ぬ(すべて突然死です)という現象を見て、やっと王は奴隷を解放することを決めたのでした。

多くの奇跡をモーゼが現したにもかかわらず、エジプトの王はモーゼを本物の神の使いと認めず、モーゼの言葉をなかなか信じようとはしなかったのです。

モーゼの言葉を信じ素直にそれに従った者は助かり、モーゼの言葉を信じようとせず、それに従わなかった者は死んだということです。

私が何を言いたいのかお分かりでしょうか?

現在の日本の人々も、ここに書いたエジプトの王同様、頑なな心をお持ちです。

私が「大雨になります」「台風が直撃します」「私は天の心をここに書いているのだから、私に皮肉など言えば大きな現象が起きます」と何度も言って、その通りのことが起きていても、誰も私の言うことを信じようとしないのです。(祈ったら地震と大雨が降り、そのことを知っている人がいるにもかかわらずです)私に協力しようとしないのです。(それどころか私のしていることを邪魔している連中までいます)まるでエジプトの王とそっくりではありませんか。

では、もう出エジプトの時と同じことをするしかありません。(それをしないとエジプトの王同様、誰も神の教えを信じようとしないからです)

奇しくも(というか、やはり“次の現象”は書かされていたのですね)それをしなければならない時が来ているようです。(中日の森野選手が七月の月間MVPを取りました。初受賞だそうですね、おめでとうございます。ロウソクの火は消える前に一度パッと燃え上がるといいます。そうならないようお気をつけください)

日本版“過ぎ越しの祭り”がこれから始まるかもしれません。(どうすれば、自分のところを神は過ぎ越していくのか、ご自身でお考えください)

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