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9月 29 2010

ご報告

二~三の方から寄付をいただき、その方々には心より感謝申し上げます。……が、このブログ(仕事)を続けるかどうかは微妙な状況です。

というのも大変申し訳ない話ですが、やはりといいましょうか、当然といいましょうか、寄付をしてくれた方が少ないので、続けていけるかどうかよく分からないのです。(何せ仕事が少ないので、親からお金を借りている状態ですから)寄付金をいただいておいてすぐやめますとも言いにくいので、どうしたものかと考えております。

しかし、今回、三千円以上の寄付をこちらも困っておりましたので、このブログを読まれている方々にお願いしたのですが、わずか二~三の方からしか集まりませんでした。

私はこれまで百三十回以上のブログを書いてきましたが、私が書いたブログに書かれてある法(如来の言葉)というものの価値が、いかに分かっていない人が多いかということが、今回よく分かりました。わずか三千円の寄付をお願いしても、それが二~三の方からしか集まらなかったからです。私が伝えている法というものは、そんな価値のないものではないからです。

法というものの偉大さ(価値)が、このブログを読まれている方の多くに伝わらなかったのは、やはり私の書く文章の稚拙さに原因があるのでしょう。せっかく法を知らない多くの人たちに、法が伝わるチャンスであったのに、これだけ法の偉大さが伝わっていなくては話になりません。

このようなことを考えましても、これ以上このブログを続けても私の稚拙な文章では、法も伝わらないのではないかとも思え、あまり無理をしてブログを続けても意味がないのではないかとも思えます。今週は三好カントリーでゴルフもありますので、今週一杯よく考えてもう少しこのブログ(仕事)を続けるか、やめるかの結論を出そうと思います。

来週のはじめに続けるかどうかはこのブログで発表することにしますが、どちらにしましても私がこのブログに書いた法というものには、多くの方がぜひ興味を持っていただきたいと思っています。

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9月 24 2010

最後のお願い

今年の三月から始めたブログも去年の分もあわせると百三十回を超えました。まだまだ書き足りませんが、去年に引き続き、今年から再開したGTS心の研究所も相変わらず暇で、売り上げもほとんどありません。さすがにこれ以上は続けるのは困難な状況になってきました。

何度かこのブログ上で協力してくれる人を呼びかけましたが、そのような人も(ゼロではありませんでしたが)でてこられません。

よって私が書くブログもこれが最後といたします。ただし、最後ですが最後のお願いを、このブログを読んでいただいている人たちにしまして、それに協力してくだされば続けるし、してくださらなければこれで終わりにしようと思います。

最後のお願いとは、このホームページ上でも募集していますスポンサーの件です。今さらスポンサーを募集しましても、誰もなり手はないと思いますが、もう少し私のブログを読んでもいい、またはこのブログに書かれてある“法”というものをもう少し知りたい、と思われる方は寄付をお願いできないでしょうか。

寄付ですのでいくらでも結構なのですが、いくらでもいいとはいえ百円、二百円いただいてももうどうにもなりません。

最低でも一回のアドバイス料である、三千円はいただけたらと思っています。三千円以上寄付していただける方がおりましたら、ぜひお願いしたいと思っております。(寄付はスポンサー募集のページにあります、振込先に振り込んでいただければ結構です。振り込んでいただいた方は、メールなど送っていただけると助かります)

三千円以上寄付していただける方が何人かおられましたら、寄付していただいた方のためにも、GTS心の研究所を続けブログも続けようと思いますが、誰もそのような方が現れなかった場合、これですべて終わりにしようと思っています。

誰も寄付してくれなかったら、もともと私に法を説く使命も何もなかったのでしょう。そのような者が、いつまでも“法”などという言葉を使って、いろいろ書いていては、それこそ多くの人を惑わす原因にもなります。今後一切、法という言葉も使わず人を惑わすようなものも書かないことにします。

しかし、もし何人かの方が今後もブログを読みたいので続けてほしいと、協力していただけるなら、これも天命と思い高橋先生、園頭先生に教えていただいた釈尊、キリストの本当の教えをGTS心の研究所を通し、そしてこのホームページのブログを通して、全力で世の人々に伝えて行こうと思っています。

私が何も書かなくなっても、私がここに書いた高橋先生や園頭先生が説かれた法というものは正しいものであり、興味のある方は、このインターネットの中でもお二人の本は買えますし、読んでいただいたほうがよいと思います。ただ正しいものを、私の伝え方が悪かったために、多くの人に知ってもらえなかったということは、私の未熟さが原因であり、高橋先生や園頭先生の説かれた法が間違っていたわけではありません。すべて私の責任で、神と高橋先生と園頭先生にどのようにお詫びすればいいのか、ただ申し訳ありませんでしたという他ありません。

仮に寄付してくれる方が誰も現れなくても、それは私の不徳の致すところであり、誰を恨むというものでもありません。ただ、自分の法を伝える未熟さを思うのみです。

いずれにいたしましても、このブログは何人か寄付してくれる方が現れれば続けますが、そのような方が現れないということであれば、自分は法というものを書いてはいけないということであり、今後一切書くことはありません。

このブログを読まれている方で、どなたでも結構です。もっとこのブログを読みたいと思われる方は寄付をしていただければ幸いです。

来週の火曜日(二十八日)をめどに翌日の水曜日に、このブログを続けるかどうかは発表することにいたします。

よろしくお願いいたします。

                                GTS心の研究所  大矢由紀夫

(昨夜野球を観に行ってきましたが、優勝がかかっているとはいえ熱い戦いでした。また、観に行きたいとは思いますが、法を伝えることができないということであれば、もうそのようなものも観に行くことはないでしょう。プロ野球の方々プロゴルファーの方々には、今後もぜひ頑張っていただきたいと思っています)

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9月 22 2010

ゴルフトーナメントを観に行って⑧

これは私の憶測ですが、その選手は私もよく知っている選手で、多分私のことを大げさにそのキャディーに話したのでしょう。それでそのキャディーは、ずいぶん女子選手に知られている奴がいるということで、面白くなくて私に嫌がらせのような行為をしたのだと思います。

その選手は、二日目に調子を上げて、トップに近い位置まで成績が上がったのですが、結局三日目はスコアーを伸ばすことができず、優勝争いには絡めませんでした。このようなキャディーを使えばよい結果はでないでしょう。キャディーの人選を誤ったといわざるを得ませんが、私はそのトーナメントを観た後、家に帰って大河ドラマを観ていました。

今やっているのは坂本竜馬ですが、私はその坂本竜馬のドラマを見ながら、もし坂本竜馬なら、仮に多くの女子ゴルフ選手に知られている者がいたならば、どのような態度をその人に取るであろうか考えました。今回のキャディーのような、妬み、ひがみ丸出しの態度を取るのであろうかとも考えました。

そうすると一つの答えが出てきました。「坂本竜馬ならそんなケチな態度は取らない」と。

もし竜馬であったなら、そんな多くの女子選手に知られている者がいたならば、妬むどころか大いにその者に興味をもち、何を差し置いてもその者がどのような者なのか話を聞きに言ったでしょう。そして、その者が話すよいところは取り入れ、聞くところではないと思うところは聞かなかったでしょう。この坂本竜馬に出てくる西郷さんも同じです。西郷さんもよい意見を言う人ならば、その人がどのような人であろうと、その人の意見を聞いたといわれます。それほどの度量が竜馬や西郷さんにはあったのです。(しかし西郷さんは、逆にくだらない意見しかいえない人には、その人が目上の人であろうと殿様であろうと、馬鹿にして意見を聞かなかったといいます。私が歴史上の人物で一番尊敬しているのがこの西郷さんです)

マァ『器が違う』と言ってしまえばそれまでのことでしょうが、しかし、妬み、ひがみ丸出しのこのキャディーはこれでも男でしょうか。男なら坂本竜馬や西郷さんくらいの考えや心の広さを持つべきでしょう。

仮に、多くの女子のゴルフ選手に知られている者がいたとしたら、なぜ、その者に興味を持たないのでしょう。その男はただ口がうまいだけの詐欺師だ、とでも何とでも思ってくれていいのです。自分が化けの皮をはいでやろうとでも思って、私のところに来ればいいのです。私は論戦を挑まれようと素直に私の意見を聞く人であろうと、どんな人とでも話をします。自分一人では自信がないというなら、神、仏のことを語るのですから、どこぞの宗教家でも坊さんでも連れてくればいいのです。そういうプロの宗教家から見れば、私など素人に毛の生えたようなものでしょう。そのような人を連れてくれば、私など簡単に言いこめられるのではないでしょうか。ただし、私がたいした勉強もしてなくて、このブログに嘘を書いていればの話ですが。

もし、このブログに書かれていることが本当のことであるならば、これはどこかの仏教大学で勉強した坊さんや、キリスト教の学校で勉強した牧師を連れてきても、かなりきついのではないでしょうか、なぜなら、そのような人たちは本当の正しい教えを学んでいないのですから。

現在の仏教やキリスト教は多くの人の智と意が混じった、釈尊、キリストが説かれた本当の教えではないのですから。

そのような偽の教えを学んだ人をいくら連れてきても、小難しい知識があるだけで、心の奥から湧き上がってくる本当の心の教えを説ける人はいません。それでは、その本物の心の教えである“法”を知っている私と論戦をしても、分が悪いのではないでしょうか。

いずれにせよ、自分も多くの女子ゴルフ選手に知られたいのなら、そのようになっている人に話を聞きにいかなくて、どうしてそのようになれるでしょう。

私は自分が特別だなどと一度も言ったことはありません。私の話を聞き実践することができるのなら、誰でも私くらいの体験や話ができ、多くの人に興味をもたれるということにもなるのです。

誰でもできることです。ただ『法を知る』ということをしなければなりませんが。

そのキャディーはずいぶん体のでかい、ごつい男でしたが、体はでかいのにそのようなケチな態度しか取れないとは、男としてずいぶん小さな男ですね、男のくせに体がでかいだけの張子の虎といわざるを得ません。

しかし、何もこのキャディーだけが張子の虎というわけではありません。私に興味があるのにボーっと観てることしかできない連中も張子の虎でしょう。こちらが何をこのブログで書こうと、せいぜい首を振っているだけなのですから。

竜馬の時代、自分の藩がすべてで日本全体を見れる人は(西郷さんや竜馬や木戸孝允他、数人の人物くらいなものだったでしょう)ほとんどいませんでした。現在もこの幕末期と同じようなものです。この世界全体を理解する人はほとんどいないのですから。

勘違いしてもらっても困りますが、現在はテレビやインターネットが発達しておりますので、日本だけでなく世界が分かります。そして大宇宙の広さまで理解できる人も多いのですが、それはあくまで物質の世界だけの話です。

私が言うこの世界全体とは、非物質の世界の意識界も含めた世界のことです。この意識の世界まで正しく理解できる人は、果たしてどれくらいいるのでしょう。幕末期に日本全体を見れる人がほとんどいなかったように、現在も物質の世界と意識の世界を正しく観れる人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

しかし、幕末の時代の坂本竜馬や西郷隆盛のように大きな心で、視野が広く日本全体を見れて、日本を通して世界を見れた人物だけが時代を動かすことができました。今もそのような人が求められている時代が来ているのです。小さな考えを捨て、大きな考えをしていかなければならない時が来ているのです。これからは小さな考えしかもてない人は、その人たちだけ取り残されていきます。

現在も幕末の時代と同様に、時代を動かさなければならない時が来ているのです。

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9月 20 2010

ゴルフトーナメントを観に行って⑦

南愛知カントリークラブでやっていたゴルフトーナメントも終わりました。結局、今回も女子プロの皆さんは何かこちらを眺めているだけで、私に声をかけてくる選手は誰もいませんでした。

これ以上トーナメントに行っても法は拡がらないでしょう。あまり人の多いところは好きではないし、法も拡がることもないということであれば、あまりそのような所に顔を出しても仕方がないでしょう、疲れるだけですから。

というのも、あのような人の多いところにいくと、人の気持ちがこちらにも感じられて私は非常に疲れるのです。良い考えを持っている人が少ないからです。

特に男はそうなのですが、すぐに嫌がらせのようなことをしてきます。人が水でも飲めば咳払いをするような人は必ずいますし、おにぎりを食べていたらわざわざ痰を吐いていく人もいます。ゴルフ観戦をしていれば私の観ている前にわざわざ入ってきて、私の目の前に立って観る人もいれば、観ている後ろからわざと大きな咳をする人もいます。

このような嫌がらせのような行為をわりと男は平気でします。というのも男は古いものを打ち壊して、新しいものを建てるという気質がありますので、人にけんかを売るような行為を平気でしてしまうのです。

男の愛は破壊の愛で育て慈しむ女の愛とは違います。それですぐけんかをしてしまうのですが、このような破壊の愛に女の愛が加わり調和されると、そこに、新しい愛の世界が出来上がり、調和された幸せな生活が営まれるということになりますが、しかし、このような法を知らない人が実際には多く、男と女の愛がうまく調和するということがなかなかありませんので、新しい調和された幸せな生活が営まれるということは、現実には難しいというのが現状なのではないでしょうか。

しかし、男の愛が破壊の愛だからといって、あちこちに平気でけんかを売り嫌がらせのようなことをしていてはいけません。それで私は「いい加減自分のおろかな行為に気がつけ、このバカ」という優しい心で、やり返すようにはしています(笑)。嫌がらせのような行為をあちこちでしていれば、それがいつかは自分に帰ってきて結局自分が一番損をするからです。

こういうことに気づかない男が周りにはたくさんおりますが、実は今回のトーナメントを観に行って、私にこのような嫌がらせの行為をしたある選手のキャディーがいました。

二日目のトーナメントが終わり、練習グリーンを少し見ていた私は、女子プロの選手が声をかけてきそうもなかったので、帰ろうかと思い、帰りかけたとき一人のキャディーが私の前に立っていました。私がそのキャディーの前を通りぬけようとすると、そのキャディーは私に向かって思い切り咳をしたのです。「何だ、こいつ」と思いましたが、トイレに行って帰ろうとするとまたそのキャディーがこちらに歩いてきて、私の方を向いて咳をしています。あまりにしつこかったので、思いっきりやり返しておきましたが(笑)

しかし、誰のキャディーだろうと思い帰りがてら後ろを振り返りながら見ていたら、すぐ分かりました。そのキャディーがある選手のところにゴルフバックを担いでいって、話していたからです。

それを観て、あのキャディーが私に嫌がらせのような行為をした意味がよく分かりました。

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9月 15 2010

ゴルフトーナメントを観に行って⑥

釈尊やキリストは、当時の無学文盲な奴隷階級の人々から、バラモンやユダヤ教を勉強している学者に至るまで、分かりやすく神の心である慈悲と愛を、より深く説かれたに過ぎません。

無学文盲な人たちにはより分かりやすく、そして教養がある人たちには、少々難しい例えをもちいながら、すべての人に神の心が理解されるように法を説かれたのです。しかし、神の心に反する意見を言う者には、それは違うということを、あるときはやさしくまたあるときには激しく、そのような考えが間違いであるということを諭しました。

例えば、あるゴルフのトーナメント(女子)で、次のようなことをした選手を観たことがあります。

その選手の打ったボールが深いラフに入り、そのラフからその選手はボールを打ったのですが、その選手が打ったボールはラフに食われあまり飛びませんでした。

すると、その選手は腹が立ったのか、思いっきりその深いラフを蹴飛ばしたのです。私は、その選手の態度に驚くと同時にあきれました。この選手は芝も生きているということを知らないのでしょうか。

細い田んぼのあぜ道のような所を、一人で歩いている人がいました。すると、その人の前からかわいい小さな子犬が一匹歩いてきました。ところが細い道を歩いてきたその人は、自分が歩くのに邪魔だということで、その小さなかわいい子犬を蹴飛ばして、横の田んぼに蹴落としてしまったのです。このようなことをする人を皆さんはどう思うでしょうか?

「なんと心無いことをする人だ」「この人はやさしさというものを持ち合わせていないのか」と、そう思われるのではないでしょうか。しかし、先の芝を蹴飛ばした選手は、これと同じことをしているのです。

植物は我々や動物のように、自分の意志を表に現すということはできません。(もちろん神がそのようにつくられたからです)しかし、我々と同じように意識があり、意志があるのです。

この芝を蹴飛ばした選手はゴルフの選手です。ということは、いつも芝の上でプレーしているということです。いつも、生きている芝を踏みつけ、あるときはクラブでざっくり芝を削ってしまい、またあるときはその芝があったためにボールが打ちやすくなり、よいショットが打てたときもあるでしょう。このゴルフの選手は、一体どれほどこの芝にお世話になっていると思っているのでしょう。

この選手はそれが分からないのでしょうか?この選手が、芝になど世話になっていないというなら、岩だらけの土がむき出しのところでゴルフをしてみるといいでしょう。芝のありがたみがよく分かると思います。

いつも世話になり、生きている芝に感謝もできない選手が、よい成績を上げれるはずがありません。(当然、芝も味方をしてくれないでしょうし)その大会でもこの選手は、よい成績を上げれなかったのですが、このような、芝にどれだけお世話になっているかまるで分かっていない、愛の足らない、やさしさの足らない女子選手に、そういう考えはいけませんと優しく教えるのが法です(笑)

しかし、こういう選手を観るにつけ法を多くの人に伝えなければならない、と思う反面、こういうことも分からない人に、法を伝えても伝わるのであろうか?とも思ってしまいます。

キリストは「愛のない者に福音を伝えてはいけない」といわれました。釈尊は「縁無き衆生救いがたし」といわれました。

これはどういう意味かと申しますと、まだキリストの言われる「愛」や釈尊の言われる「慈悲」を理解できるまで成長していない魂もあり、そのような心の持ち主に法を説いても、法が理解できずその人の怒りをかってしまい、かえってその人のマイナスになってしまうので、そのような(まだ心が成長しきっていない)人に法を説いてはいけない、とキリストも釈尊も言われたのです。

人の永い輪廻転生を考えれば、キリストや釈尊の説かれた法に縁のない人は一人もおりませんが、今生だけを考えると法に縁のない人はいるのです。

今週は南愛知カントリーで、女子のゴルフトーナメントがあります。私はいくつもりですが、女子のトーナメントに行くのもこれを最後にしようと思っています。というのも何年も変わらず、私の方をボーっと観てるだけで、やることといえばボールを打ち込んでくるくらいなものです。法に興味があるなら私が近くにいるのだから聞きにくればいいものを、何か分かりませんが、遠くから頭を下げているような仕草をしているだけです。このようなことを何年も続けているということは、法に興味がないのでしょう。(あれば私のところに聞きに来ているはずですから)

法に興味(縁)がない人たちのところに、何年も顔を出していたところで私の目的は果たせません。断っておきますが、ではあなたがもっと積極的に法を話してまわればいいではないか、などという意見は正しくありません。なぜなら、仮に、私のブログを熱心に読んでいる人が、その女子プロゴルファーの中にいるとして、その選手を私が知っていたとします。その選手が私のブログを熱心に読んでいるからとはいえ、その選手のところにいって、無理やり「私の話す法を聞きなさい」といって話しをしたとしても、これは法を話したことにはならないのです。

相手が法を聞くには法を聞きたいと自ら望んで、そのような気持ちが強くないと心に法が入っていかないからです。自分の自主性が大きく問われるのです。その相手の自主性を無視して法を説いても意味がないのです。だから私はこのブログで何度も呼びかけているのです。もっと、聞く気を持ってください、と。少なくとも私はやることはやったと思っています。

私の話を聞きたいと思っていられる女子プロゴルファーの方が、もしいられるなら、ジロジロ私を見ているだけではなく、また、こちらにボールを打ち込むという危険なことをするではなく、遠くで誰に頭を下げているのか分からないような態度を取るでもなく、堂々と私の前に来て話を聞かせてほしいと一言言ってください。「どうすれば成績がよくなりますか」でも何でも言いのです。聞きに来てくださる人には、それなりにアドバイスをさせていただきます。私のアドバイスによって大きく変わる人もいるのです。(現実にあるプロ野球選手は変わりました)しかし、そのような人が一人もいないということであれば、もう私はそのトーナメントに行くことはないでしょう、法に縁のない人たちに長い時間をとることはできませんし、他のところにもいかなければならないからです。

私が思うことは唯一つです。「法を多くの人に伝えたい」それのみです。

その私の思いに少しでも賛同してくださる人がいるならば、どうぞ、今度のゴルフトーナメントで声をかけてください。そのような人が一人でもあることを私は願ってやみません。

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