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4月 02 2015

本物の教え

しかし、最近は深刻な顔をしたお年寄りが多いんですね。(これまでは怒っている人が多かったと思いますが)

怒っている年寄りもいますが、前と比べ減りましたね。何があったんでしょうか。(苦笑)

しかし、深刻な顔をしていても救われません。私の辻説法を遠くで聞いているだけでも救われません。私のところに来て、救われる方法を聞いて、それを実践しないと救われないのです。

では、そうする以外ないのではないでしょうか。

怒っているお年寄りもそうですが、まだ私が、人を次々に病気にさせている、などという絵空事を信じている人ならともかく「お前のせいでこういうことになった」と怒っている年寄りは、もう怒っていても仕方ないでしょう。

時間もあまりないのです。本当の信仰をされたらどうでしょう。そうしないと救われないと分かってしまったからです。

これまでの信仰など、ただの自己満足にすぎなかったのです。本当に救われていたわけではなかったのです。それが分かったのですから、これだけ運がいい話もないわけです。

自分たちはついていると思って、もう残り少ない時間を本当の信仰に打ち込まれたらどうでしょう。そうすれば真に救われる道がついて来るからです。

どこの教祖様でも、えらいお坊さんでも、私のように鳥や魚が寄ってくるという奇跡は起きていません。(それともこういう奇跡が起きている人がいますか?)

しかし、釈尊やキリストにはこのようなことも起きていたのです。では、それが証拠とはならないのですか?真に人が救われる道を説かれたのは、あのような偉大な方々だけだからです。

今、皆さん方が信じている教祖様やお坊さんは、こののち釈尊やキリストのように歴史に名を残すかどうか分からないからです。(ということは、正しいことを説いているかどうか分からないということです)

名古屋に神の業が次々に現れたのです。(それとも、この数々起きるサイレンは人が原因で起きていると思いますか?こんなこと人が起こせるものではないでしょう。神が、天が起こされているのです。間違った信仰、間違った考えから目を覚ませとです)では、現在の名古屋に正しい信仰はなかったということになります。

では、正しい信仰に目覚めるしかないのではないでしょうか。そうしなければ、神の業は収まらないし、自分たちが救われることもないからです。

この教えをじゃまする者たちには、次々に恐ろしい神の業が現れているのです。そのようなことに怒っている人が多いのですが、しかし、このような現象は、逆にこの教えが本物であるという証拠なのではないですか。

だから、そんな現象が現れているのでしょう。この教えが偽物であるなら、そんな現象が現れるはずがないからです。

本物の神の教えの流布のじゃまをすれば、そのような人たちには恐ろしい神の業が現れるはずです。その本物の教えにしか現れない現象が現れているのです。

では、この教えが本物である何よりの証拠なのではないでしょうか。

それでも、この教えを学ぼうとはしないのですか?

じゃまをする者、嫌がらせをする者に、恐ろしい現象が現れ、この教えを学ぼうとする人には奇跡が現れています。

これ以上の、この教えの正しさの証明があるのでしょうか。

そのようなことを、みなこの辺りの人は知っているのです。知っていながら、この教えを無視しているのです。

なぜ無視しているのですか?

この教えを勉強し、恐ろしい現象が、自分に現れるかもしれないのが怖いからですか?

それとも、まだこの教えが本物と認めようとしないからでしょうか?

この教えを勉強して、自分に恐ろしい現象が現れるかもしれないのが怖いという人は、あまりに覚悟がないでしょう。そんな心では、どんな教えを学んでも救われません。人を救いたいのであれば(もちろんそれは自分も含めてです)正しいと思う教えを命懸けで学ばなければ、真の救いなど来ないのです。

命をかけ、どんな苦労も乗り越えるくらいの覚悟がなければ、本当の教えを自分が会得することなど、所詮は出来ないからです。(それは特別信仰だけではないでしょう。自分が一生をかけてやりたいことが見つかった時は、それくらいの覚悟は誰でも持つはずです。自分がやりたいことでもそうなのです。永遠に救われる教えを勉強しようというのに、その程度の覚悟もなくて何でその教えが理解出来ましょう)

まだ、この教えを本物とは認めないという人は、では、どんな現象が現れたらこの教えを本物と認められるのでしょう。

そんな人は、死ぬまでそんなことをいい続けているだけなのです。(進歩のない人です)

これほどの現象が現れたのです。もう何の疑問を持つことがあるでしょう。これ以上の現象が名古屋に現れたら、もう名古屋の人は滅んでしまいます。滅ぼされる前のギリギリの現象が現れているのです。

このような現象を現され、それでもなお神に顔を向けないなど、それはただ今のことだけしか考えない、狭量な人にすぎません。

少し広い視野を持っているなら、これほどの人智の及ばぬ現象が現れているのです。神に顔を向けない方がおかしいでしょう。

これほどの現象が現れ、それでもなお自分の心も行いも変えようとしないのは、まったく持って傲慢な態度としか思えません。

人智の及ばぬ現象が、名古屋に現れ続けているのです。それなら多くの人の心が劇的に変わってもおかしくはないですし、これほどの現象が現れて劇的に心が変わらない方がおかしいのです。

しかし、名古屋の人たちは、心も行いも何一つ変えようとしません。ただ責任転嫁して怒っているだけなのです。(これほどの現象をたった一人の者のせいにしてです)

明らかにおかしいとは思いませんか?(というか、どう考えても変えないとダメでしょう。人智の及ばぬ現象が起き続けているのですから)

本当の神の教えが現れています。いつまで無視されるのですか?

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4月 01 2015

罪の重さ

今日から雨の予報が出ていましたので、昨日のうちにと思い桜を動画で撮ってきました。

桜を動画で撮っても仕方ないかもしれませんが、私が動画で撮るのは桜だけではありません。他の人なら写真なんでしょうが、私の場合は写真では意味がありません。したがって撮るのであれば、全部動画です。(笑)

テレビでは、山崎川などがよく映されていましたので、あの辺りはさぞきれいなんだろうと思いましたが、そういうところは人も多いでしょう。人が多くては撮影もしにくいので(私の場合いろいろじゃまされますので。〔笑〕)いつもの白鳥公園の辺りに行って撮ってきました。(白鳥公園も桜がたくさん咲いていますから)

きれいな桜も撮れましたが、横の堀川では魚がたくさん跳ね、すずめやカラス、ムクドリや鵜などもついでに撮れています。

鳥たちなど何時も撮っていますので、特別撮らなくてもいいんですが、マァ、入ってきますので仕方ありません。(鵜など集団で飛んできましたから。〔苦笑〕)

しかし、今年くらい春が来たことを実感した年はありません。それはなぜか?もちろん、このような動物たちのせいでです。

普通、春を実感するなら、暖かくなってきたからとか、桜が咲いたからとかいうことで実感するものですが、今年の私はそうではありませんでした。

昨日でもそうです。白鳥公園の近くまで来ると、すでにすずめの鳴き声が違っていました。例の「ジジジ…」という鳴き方をするすずめが何羽もいて、飛び回っているすずめもいます。

暖かくなってくるとすずめたちの動きもよくなるのです。それにツバメも勢いよく飛んできて、暗くなるとコウモリまで飛んでいます。(昨日など、すでに家の近くではコウモリがガンガン飛んでいました)

そうして堀川に行くと魚がたくさん跳ね出します。昨日などそこら中で魚が跳ね出して堀川は大騒ぎでした。(笑)

そのような生き物たちの動きが、冬の間と春になったのとでは全然違うのです。

このような体験は初めてでしたが、これだけ生き物たちの動きが違い、冬にいなかった生き物たちが元気よく出てくると春を実感しないわけがありません。

それで今年くらい春を実感した年はないと書いたのです。

このいろいろな動物たちが寄ってくるようになったのは、たしか去年の三月くらいからだと思いますが、最初はすずめが寄ってくるくらいでした。それが段々、カラスやムクドリなども寄ってくるようになり、ツバメやコウモリも寄ってきて、そうして魚まで跳ね出し、もう現在では(水族館も動物園にも行って確認していますので)どういう動物たちが寄ってくるのか、想像がつかないくらいです。

ずいぶん凄いことが起きていると思うんですが、このような現象に対し、名古屋の人たちは本当に無関心なのです。(ちょっと驚くくらい無関心です。昨日もあれだけ堀川の魚が跳ねていたのに、それに驚く人はいませんでした。桜を見にたくさんの人が白鳥公園に来ていたにもかかわらずです)

世界でも起きないようなことが、名古屋で起きているにもかかわらず、そのような奇跡には全く無関心で、サイレンのような災いには、その責任を私一人に押し付けています。

名古屋の人たちは、一体どういう神経をしているのか、全く分かりませんね。

現に、このブログで多くの人の心が変わったのです。(このブログがあったから、多くの人が唯物無神論から唯心有神論に変わったのです。動物たちが不思議な動きをすることが分かったのも、このブログに動画を貼り付けたからです)

それが分かっていながら、平気でこのブログを書くことをじゃましている人たちがいるのです。(今日もやっていますがまったく呆れますね。どれだけ恐ろしい目に遭えば、そういうことはいけないと分かるのでしょう)

そうして、じゃまをしていながら、そのじゃまをしている人たちも、このブログから多くのことを学んでいるのです。

このブログから多くのことを学んだ人は、ブログをじゃましている人たちばかりではありません。私に嫌がらせをしてくる人たちも、このブログから多くのことを学び、そうして自分の心を変えたのです。

自分が、多くのことを学んでいるブログの書くことをじゃまをして、そうして、そのブログを書いている人に嫌がらせをして、そうして、自分たちに何か悪いことが起きてきたら、その悪いことの原因まで、そのブログを書いている人のせいにして、それで自分たちは、そのブログから知らないことを次々に教えてもらっている。

これだけ都合のいいことをしていて、それで「自分は何も悪いことをしていない」とは、一体どの口がいうのでしょう。

あまりといえば、あまりな発言なのではないでしょうか。そんな人がもしいたとしたらです。

しかし、他の地域の人は驚くでしょうが、なんとそのような人が名古屋にはたくさんいるのです。

多くの人の心を変え(それはもちろん自分たちの心もそうです)そうして知らなかったことまで教えてもらっていながら、一言のお礼もいわず、このブログを書くパソコンの音がうるさいと、散々このブログを書くことのじゃまをして、そうして内容が少し気に食わないと、さらに嫌がらせまでして、そうして悪いことが起きてきたら、それもそのブログを書いている人のせいにして怒りまくっているのです。

こういうことをしている人は、悪いことをしているといわないのでしょうか?

私はこれだけ都合のいい人たちを初めて見ました。

この人たちは、これだけ知らないことを教えてもらった私にお礼一ついわず、また、多くの人たちの心を変えようとしている、このブログを書くのを散々じゃましたあげく、嫌がらせまでしていて、それを少しも反省しようともせず、自分たちに災いが起きてきたら、その災いまで私のせいにして、それに怒って、私にもっと嫌がらせをするのです。

こういう人たちを、わがままで自己中とはいわないのでしょうか?こういう人たちに起きる災いを天罰とはいわないのでしょうか?

私は、こういう人たちが何も悪いことをしていないとは、とても思えないのです。だから天罰を食らっているとしかいえないのです。

だから私は「自業自得だ」といっているのですが、そういう言葉にさえも、このような人たちは怒っているのです。

しかし、この人たちがいなければ、私はもっと多くのことを伝えることが出来たのです。(かなりじゃまされましたから)そうして、このような人たちが普通に感謝してくれ、少しづつでも布施をしてくれていたのであれば、この法はもっと拡げることが出来たのです。(ということは、もっと多くの人を救えたということです)

このブログを知って、大きく心を変えた人もいるでしょう。知らないことを知った人も多いと思います。動物たちが、これだけ不思議な動きをすると誰が知っていたでしょう。

このブログを世界中の人が知ったのなら、世界の人の心が変わるのです。

世界の人の心が変わるかもしれない、稀有なブログのじゃまをし続け、その多くの人の心を変えつつあるブログを書いている者に、散々嫌がらせを続けているのです。

そのような人たちの罪は重くはないのでしょうか?

このブログがなければ、日本の多くの人が、唯物無神論から唯心有神論に変わるということもありませんでした。動物たちの不思議な事実を知ることもなかったでしょう。

このブログは現在においても、多くの人の心を変えつつあります。

その多くの人の心を変えつつあるブログのじゃまをし続け、そのブログで多くのことを伝えている者に嫌がらせを続けているのです。

そのような人たちの罪は大変重いといわざるを得ないでしょう。

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3月 31 2015

限られた時間

しかし、昨日すれ違ったお年寄りの半分くらいの人が、顔が引きつっていましたね。(苦笑)

それはそうでしょう。そのままでは地獄に行かなければいけないのです。この辺りのお年寄りは、この法を勉強する以外、救われる(天上界に行ける)手はないとすでに知っているのです。(おまけに既存の宗教ではもう救われないということも知っています)

それを知っているのですから、この辺りのお年寄りは、私の顔を見たら顔を引きつらせるでしょうね。自分の時間があまりないことも知っているからです。

それを知らないお年寄りは、まだ私の顔を見ると嫌がらせをしてきますが、しかし、怒って嫌がらせしてくるお年寄りの中にも、そのことを知っている人はいるのかもしれません。

知っていながら、それでもまだ私に嫌がらせをしてくるのです。

よくもこれまで信じてきたことを壊してくれたなとか、これまで通りでよかったのにとか、そういう進歩のない発想しかできないお年寄りは、怒ることしかできないからです。

しかし、もう現実を見ないといけないでしょう。今のままでは救われないのです。

では、もうやるしかないのではないでしょうか。お年寄りは、あまり時間も残されていません。その残り少ない時間の中で法を勉強しないと(実践しないと)救われない(天上界には行けない)のです。

怒っている暇はないのではないでしょうか。(そういう諸々の間違いを教えたのは私です。だから私には、怒るのではなく、感謝しないといけないのです。お年寄りはギリギリのところで救われたからです。早くその救いを完全なものとされてはいかがでしょうか)

しかし、怒っている暇がないのは、実はお年寄りだけではありません。もっと時間がない人たちがいるからです。

どうも、大変なことが起きているようですね。どこかの会社です。今日は朝から(正確にいえば、昨夜から)凄い怒りようです。どうしたんでしょうか?

もう怒っても仕方ないでしょう、といくらいったところで、この人たちは怒ることしかしないんですからどうしようもありません。(あまりの怒り具合に、なんか周り引いてますけど。この町中の雰囲気がおかしくなっています)

しかし、どれだけ怒ったところで、その現象が収まることはありません。そうして、恐ろしい現象が現れ、それでもし死ぬようなことにでもなれば、その苦しみは来世、再来世まで続くことになります。(何百年も続くということです。死んで地獄に堕ちて、そうしてまた生まれ変わって、今回の罪を償わなければいけなくなるからです)

法の流布のじゃまを何年にもわたってし続けたのです。その罪は、自分たちが思っているほど軽くはないのです。すでに大変な罪となっています。

だから、大変なことが起きているのです。釈尊やキリストが法を説いているのを、毎日のようにじゃましたら当然恐ろしいことは起きてきます。それと同じことをあなた方はしたのです。

と、何度書いても、自分たちの罪の重さが分からないようです。(凄いとち狂いぶりですから)

では、もうこちらは心静かに、この人たちを祈ってあげるしかないでしょう。それ以外やりようがないからです。(聞く耳待たないんですからどうしようもありません)

それにしても、サイレンは大分減ってきたように感じるのですが、その反面、身近に起きている恐ろしい現象は増えているように思います。段々、因果応報のそのものずばりの現象が現れだしたのかもしれません。(私に嫌がらせした人たち本当にやばいかもしれません。前の会社の人たち、すでにかなりやばい状況になっているからです)

この辺りの人は、今のこの異様な雰囲気をお分かりいただけると思います。

悪いことを私のせいにし続ければ、この会社のようになるのです。

いつまで責任転嫁を続けるのですか?責任転嫁をし続けたところで少しも救われないのです。むしろ、もっと救いのない深みにはまって行くのです。(それはそうです。責任転嫁は悪いことだからです)

負の連鎖を断ち切りたいのであれば、まず自分の責任を認め、そうして自分が悪かったと反省するしかありません。

そのような反省の心が出てきて、初めて神から救いの手が差し伸べられるのです。

異常な現象が次々に現れ始めたところもあるようです。

心当たりのある人は、急がれた方がいいのではないでしょうか。

(今日は書く内容が全く変わってしまいました。というか、前の会社がこうも異様な雰囲気だとこれ以外書きようがありません。〔それくらい雰囲気が変です〕何か大変なことが起きてきたようです。ソロソロ法の勉強を真剣にされてはどうでしょうか。法を知らないと、神から守られることはないからです)

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3月 30 2015

先のことを考えるのであれば

どこかの球団、今年は本当につきがありませんね。

打ててるし抑えているのに勝てません。打ててる時は相手チームがもっと打って、抑えている時は、相手ピッチャーがもっと抑えている、それで結局敗戦です。

少し組み合わせが違えば、十分試合には勝ててるはずなのに、そのつきのないせいで三十五年ぶりの開幕三連敗です。

しかもつきのなさはまだまだ続き、あの主砲の選手まで骨折です。(その骨折の仕方が、二塁に滑り込んだ時に、相手選手が投げたボールが手に当たってのものです。投げたボールが、滑り込んできた選手の手に当たるなんて普通ならまずありませんが、それが起きてしまうんですから、本当に不運としかいいようがありません)

まだプロ野球も始まったばかりとはいえ、これではこのチーム、先が思いやられますね。

ここに、あの球団のことを書いとたんに、そのきっかけをつくった選手が骨折してしまうのです。とても偶然とは思えませんが、本当にお返しはしておかないとろくなことが起きません。

ご利益があったのですから、少しくらいのお返しはされてはどうでしょうか。

あまりあの球団のことを書いて、また何か起きたら私のせいになります。これくらいにしておきますが(…もう遅いですか?)報恩の行為は大切でしょうね。

一昨日でしたか、堀川に行って声をかけるとずいぶん魚が跳ねていました。(その場面は動画に撮ってあります)

鳥たちも相変わらず騒いで近くに寄って来ます。何度もいいますが、動物たちは大災害を予知するなど、人にはない(精神的な)力を持っています。

そのような動物たちが、みな私のことを知っていて、嬉しそうに私のもとに寄ってくるのです。

動物たちが大きな災害を予知できるように、このような動物たちが、何かを教えているのではないでしょうか。

私に悪いことをして災いが起きている人たちもいます。私によいことをして奇跡が起きている人もいます。

そうして、私のいうことを聞き、よいことが起きたにもかかわらず、そのお礼を一切しようとしなかった人たちには、悪いことも起きています。

これは偶然とか、たまたまとかではなく、私がそのようなことを書いている、その書いている人たちに起きているのです。

また、それは人ばかりではなく「あのような場所には災いが起きます」と書いた、その場所にも(地震や大雨などの)災いが起きているのです。

こういうことを偶然とはいわないでしょう。必然というのです。

よいことにせよ、悪いことにせよ、これだけ書いていることが起きている人に、悪いことばかりしていてよいのですか?無視をしていてよいのでしょうか?

現代の人はあまりに考えが足りないのではないでしょうか。

もう少しよい行いをされてはどうですか。その人のお蔭で、心を救われた人は多いからです。

そうして、心が救われたということは、死後の世界もまた救われることになるからです。死後の世界とは心の世界をいうからです。

しかし、不思議ですね。多くの人は、この世のことは先を見通せだの、先のことも考えないといけないだのいうくせに、なぜ、生の先の死のことをいう人はいないのでしょう。

先を見通すのはこの世のことだけでいいのですか?

しかし、人は必ず死ぬのです。一人として永遠の生を持っている人はいないのです。

そうであるなら、生きている時の先ことばかりではなく、その生の先の死のことも考えないといけないのではないですか?

すべての人に死という問題はかかわってくるからです。

死をどれだけ避けようと、しかし、その死は誰にでも確実にやってくるのです。では、死後のことも、もっと真剣に考えるべきではないですか?もっと議論をされてもいいのではないでしょうか?

それなのになぜ多くの人は、この死後の議論をされないのでしょう。死後の世界は誰にも分からないと諦めているのでしょうか?それとも意識的に避けているのでしょうか?

しかし、分からないとか、避けられる問題ではないでしょう。すべての人に、この死は訪れるからです。

先を見通せといわれるなら、生きている時だけではなく、死んだあとまで見通さないと、それは先を見通しているとはいわないでしょう。

その生の先の死まで見通した話を私はしているのです。

だから皆さんと意見が合わないのでしょう。ほとんどの人は、この世のことだけしか考えません。私のように死んだ先までのことは考えないからです。

しかしそれは思考停止以外の何ものでもないのです。途中で思考が停止しているから(生きているまでのところでです)だから、私のいうことがいまいち分からないのであって、死のことまで考えるのなら、私のいうことは非常によく分かるのです。

私は生きている時だけではなく、死んだあとまで幸せに暮らせるその方法を述べているからです。

私たちは生きている時だけではなく、死んだ後もその人生は続いているのです。人は生き通しの生命であるからです。しかし、それを多くの人はなかなか信じようとはしないのです。

私は生きている時のことだけではなく、そのような死後の人生も(あの世のことも)もっと議論されてもよいと思います。(そうすれば、死後の生を信じる人がたくさん出てくると思うからです)

この世には、この世の体験だけではなく、臨死体験をした人や生まれ変わりの記憶のある人がたくさんいるのです。それに釈尊やキリストの教えなどもあります。

そのような人たちの話を参考に、単にあの世はない、と否定してしまうのではなく「もしかしたらあの世はあるのではないか」「あの世があるのであれば、この世にまた生まれてくるという輪廻転生もあるのではないか」「現にお釈迦様は輪廻転生を認めているではないか」「華厳経にはその輪廻転生の部分が書かれているではないか」「かの有名なスエーデン・ボルグもあの世があるといっているではないか」などなど、いくらでもあの世や生まれ変わりの議論など出来るのです。

議論を深めるのは、この世のことだけでよいわけがありません。あの世のこともやはり議論され、その議論を深めていけばいいのです。

そうすれば、死後の生は嫌でも理解出来るようになるからです。そうして、死後の生が分かれば、この法の大事さも理解出来るからです。

どちらにしてもです。この世には不思議なことが数多くあるのです。そうであるなら、この世のことだけしか考えないのは、片手落ちとしかいいようがないでしょう。

繰り返しますが(生きている時はもちろんですが)私は死後の幸せまで考え、このブログを書いているのです。

このブログを無視していて本当によいのでしょうか。

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3月 29 2015

天上界と地獄界

最近、私が歩いているとウロウロするお年寄りが増えたような気がします。

私が道を歩いていると、そこらじゅうで鳥が鳴きますので、すぐに私がいると気づかれるのですが、少し前までは、そのように私がいると気づいて出てくる人は、百パーセント嫌がらせをしにくる人ばかりでしたが、最近はそういう人ばかりではなさそうです。

何か聞きたそうな顔でこちらを見ている人も多いからです。(そういう人はお年寄りがほとんどですが、しかし、そういう人の中でも、まだ半分くらいのお年寄りは怒っていますね…半分以上かな?)

お年寄りは死がまじかに迫っているのです。切実でしょうね。(これまでやってきた信仰がまったく意味がないかもしれないのです。本当に切実でしょう)

そういう諸々のことが(信仰などのこれまでの間違いが)名古屋の人たちは分かってきたのです。

いつまでも怒っている場合でしょうか。(特にお年寄りはそうでしょう。残された時間が少ないのですから、もう怒っている場合ではないでしょう)

今の(心の)ままでは地獄に行く人がほとんどなのです。どうされるのですか?まだお前が悪いと怒って嫌がらせしているだけなのですか?

その悪い私がいたから、いろいろな間違いが分かったのです。少しは感謝されてはどうでしょうか。

それに、その悪い私しか、天上界に導ける人がいないのです。(誰か他にいますか?天上界に導ける人がです。今までの信仰が間違いだと分かったんですよね。〔名古屋の人はですけど〕)

それでもまだ私に嫌がらせをし続けるのですか?

すべての人に寿命はあります。誰もみな遅かれ早かれ死んでいくのです。

その死後の世界が、天上界に行くのと地獄界に行くのとでは、本当に天と地の差があるのです。

このような天上界も地獄界も多くの人たちは、体験として知っているはずです。ほとんどの人たちが、夢の中で、そのような場所に連れられて行ったことがあるはずだからです。

私もそのような体験があります。

私の体験を少し書きますと、天上界に行ったと思われる夢を観た時は、あの教育研究会未来をやめようと思った時のことです。

その日私は、未来の幹部と大ゲンカをし(園頭先生のことでです)もうこの会をやめようと思ったその夜のことです。不思議な夢を観たのです。

その夢の中で私は、ある簡素な家の中にいました。その家の窓から外を見ると真っ青な空が広がっていて、太陽の光もその窓から入ってきています。

部屋の中は畳がひいてあって床の間があるだけでした。部屋の中には何も飾っていないのですが、ただ一つ、その床の間にある柱に一輪花が飾ってありました。

普通であれば「殺風景な部屋だな」と思うはずですが、その一輪飾ってある花が妙にきれいで、その花があるだけでその部屋の中が安らぎ華やいでいます。

「ここは心が安らぐ場所だな」と思っていると、目の前に、その当時の未来の名古屋の支部長さんが座っていて「君はこの未来をやめようとしているが、まだ未来をやめてはいけない」と私にいうのです。

私は「まだ誰にも未来をやめることはいっていないのに、何でこの人それを知っているんだろう」と不思議に思っていましたが「支部長がそういわれるなら」と考えを変えたところで目が覚めたのです。

目が覚めた後も心は安らいでいて、あれは天上界に行っていたのだなと実感しました。(この時、未来をやめなかったことで、あの癌で次々に未来の人が亡くなるという現象を体験したのです)

このような天上界に行った時の夢と比べ、地獄界に行った時の夢を観た時の気分の悪さといったらどうでしょう。

地獄界に行ったと思われる夢は、虫だらけの洞窟に行ったり、墓場のようなところで婆さんに追っかけられたりするような、そんな夢でしたが、その場所の雰囲気の悪さや恐怖感といったらありませんでした。

これは私だけではなく、このブログを読んでいる誰にも経験があることだと思います。

天上界に比べ、あの地獄界の恐怖感、劣悪な雰囲気は気分が悪いにもほどがあるのではないでしょうか。そのような場所に、今の心のままではほとんどの人が死後、行かなくてはいけなくなるのです。

ゾッとしませんか?そのような場所に人によっては数百年もとどまるのです。(自分の心を反省出来るまでです)

そのような地獄界を知るのであれば、私が「もう怒っている場合ではない」といっている意味もお分かりいただけるのではないでしょうか。(それでも、そういう想像ができない人は、最後まで怒っているんでしょうが)

すぐにでも、この法の勉強を始めないといけないし、この法に合わせて自分の心を反省しないといけないのです。

そのような反省をして、自分の心をきれいにして、そうして(法に照らして)自分の心と行いを変えて、ようやく天上界に行ける準備が整うのです。

それを知るなら、今現在、天上界にストレートでいける人が果たしてどれくらいいるのでしょうか?

だから、特別、法を勉強しなくても、そのようなことがすでに出来ている人なら、それはかまいません。その人は地獄界に行くことなく天上界に行けるからです。

しかし、それくらい心が出来ている人なら、私のように鳥や魚が集まってくる奇跡も起きています。鳥が一羽も寄ってこないようでは、自分が天上界に行けるような人とはとてもいえないでしょう。

名古屋のお年寄りの人たちが切実なのはよく分かります。(名古屋にいたから分かったんですからね。自分たちのこれまでの信仰が意味がなかったと)では、そんな何か聞きたそうな顔をしているだけではなく、実際私に聞きに来てください。(「どうしたら救われるのですか」でも「法を勉強したいのですが」でもなんでも結構です。現時点で出来ることを話させていただきますから)

そうしないと救われないからです。

人にいわれたから、あるいは仕方なくではダメなのです。自分で疑問を持って、本当に救われるにはどうしたらいいのか、自分で確かめないと、自分は救われないのです。

法はすべて自力です。他力本願ではありません。(他力では救われないからです)自力本願なのであり、自分を救えるのは自分しかいないのです。(私は単にアドバイザーにしかすぎません)

もう現在の信仰では救われない、今のままでは天上界に行けそうもないと実感している人は多いと思います。(特に名古屋の人は)

では、どうされるのですか?

一歩踏み出す勇気が、自分自身を救うのです。

追伸…プロ野球が始まりましたが、どこかの球団、予想以上のつきのなさですね。(何せ、開幕戦、二戦目ともにサヨナラ負けですからね。開幕戦など勝ててた試合ですし)しょっぱなからこんなこと、球団史上初の出来事だそうですが、こういうことになるのです。

法を説く人に嫌がらせなどすれば、一変に天がソッポを向きます。そうなると、こんなつきのない試合が続くのです。

名古屋は、そのようなつきのない人が続出中なんですが(何せ、私に嫌がらせする人が続出中ですから。〔苦笑〕)このようなつきのない現状を打破するためにも、私に詫びを入れ、そうして少々の寄付くらいされてはどうでしょう。

そうすれば、つきもよくなり、よい成績も上げられるようになるからです。(そういうことをするなら天も協力するからです)

名古屋の有名球団が、それを真っ先にやって成績がよくなるなら、名古屋の人たちもまねする人がたくさん出てくると思います。ぜひ、名古屋の人たちを救うためにも、それをしてください。

などと書いたところで、どうせそんなことするわけありません。この球団、やはり私がいった通り、今年はBクラスでしょう。(下手したら最下位かもしれませんね)

そのような調子が悪い球団に比べ、サッカーの日本代表チームは調子がよさそうです。あの監督は期待できるそうです。サッカーの日本代表チームは頑張ってほしいですね。

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