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6月 26 2013

さすがにギブアップしましょうか?

昨日は空梅雨と書いたのですが、今日は各地大雨になる予報が出ています。(名古屋もたくさん雨降っています)

それにしても相変わらず極端な天気が続いています。九州など連日の大雨で、冠水被害なども各地で出いるようですが、その一方で、東海地方もそうですが関東も異常な少雨の影響で、関東のダムなど、これまでで最も低い貯水率となったところもあるとか、梅雨だというのにこれだけ(西と東で)極端な天気になるのも珍しいのではないでしょうか。

皆様方の心がよく天気に現れていますが、昨日はまた何か起きたようですね。家に帰る寸前まで分からなかったのですが、家の近くまで来たらワザワザ外に出てきて、私に嫌がらせをされた人がいます。(それに私の帰りを待っていてされる人もいますし)

何か起きると、同じようなことをする人が何人もいますのでよく分かります。

それに昨日は、何か起きそうな予感もあったものですから…というのも昨日はブログに書いたとおり、高橋先生が昇天された特別の日であったものですから、高橋先生に直接祈っていたのです。(いつもは七大天使に祈るんですが、昨日は特別にそうしました。あちこち回って、高橋先生に「この辺りの人がよく私に嫌がらせするのです」と報告しておきました。これまで散々私に嫌がらせした人はヤバイかもしれません。何せ高橋先生が、直接その人たちのこと知ってしまいましたからね。それと昨日私に嫌がらせした人たちも、相当ヤバイと思います。直接高橋先生に祈ったんですから)ですから、もしかすると何か起きるのではないかと思い、全然違う道を通って帰ってきたものですから、途中まで何か起きたのか分かりませんでした。(さすがに、普段通らない道には誰も人が出てきていませんので…そうするとまた昨日は、普段私が通りそうな道には、人がたくさんいたのではないかと思われます…それもパターンですね)

そうですか、やはり何か起きましたか……予想通りといえば予想通りですし、怖いくらい現象が起きるといえば起きますね。(やはり高橋先生は相当現在の状況を憂いていられるようです)

それでも皆さん、全然態度を変えようとしませんが、それでよろしいわけですか?

これだけ現象が起きていて(この辺りだけでなく全国的にもです)それでもまだ誰も態度を変えようとしないということは、もう何があっても、それこそ死んでも、神の運動などやるものかという人ばかりということになります。さすがに私もこれ以上は強制できません。それだけ神の運動をやる気がないなら、もうしなくてもいいのではないかとも思えます。

さすがにもう諦めた方がいいのではないかと思えてきました。(その方が皆さんよろしいですよね、私が祈ると迷惑でしょう)

では、諦めましょうか?皆さん南海トラフ大地震でいいというわけですから。(そういうことになりますよね、私がもう「法は拡げれない」とバンザイするのですから)

これだけのことが起きているのです。私が引いてそれで何もなく終わると思いますか?百パーセント無理です。無事では終わりません。神との約束を違えるのです。それがどれほどの罪かを多くの人が思い知ることになるでしょう。(そうなって初めて私のありがたみが分かるんですね…残念です。少し遅かったようです)

マァ、ご希望通りになるのですから、文句はないでしょう。だって、死んでもいやなんでしょう、神の運動などするのは。では、その希望通りのことが起きるのではないでしょうか。(私のことを知っている人〔現時点でどれくらいいるのでしょうか?〕数千の人か数万の人か知りませんが、その人たちのせいで、日本に住む一億二千万の人が大きな被害をこうむることになるなんて、なんてその人たちは罪深いのでしょう〔涙〕)

ということで、もう多分多くの人の心を変えるのは無理なように思います。(だって、この時点で一人も協力してくれないのですから)適当なところで高橋先生にギブアップすることにします。

多分私がギブアップした時点で、そのようなことが起きてきます。どうぞ皆さん、これまでどおり神を思わず、自分の好きなことだけ続け、私のいうことを無視し嫌がらせを続けてください。

ギブアップするのが早まりますから。

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6月 25 2013

真の宗教家とは

これまで書いてきましたように、日本の多くの人が現在信仰だと思ってやっていたことは、実は全然信仰になっていなかったのです。(お年寄りの方々にとっては超衝撃の事実だったでしょう。しかし、よかったのではないでしょうか、死ぬ前に本当のことが分かって)

檀家制度にせよ(幕府の強制)お寺参り(僧が金儲けのために始めた)や仏像を拝むことにせよ(偶像崇拝)始まった理由が理由なのです。正しい信仰のわけがありません。

だから坊さんたち宗教家がいっていることは矛盾だらけなのです。

「先祖供養をしなさい、先祖にお経を上げ祈れば功徳があります」といいつつ「霊は存在しません」といい(何も存在しないものに、お経を上げて供養をして一体何の功徳があるのでしょうか?)「性は煩悩です」といいながら、自分ではせっせと子供をつくり「人はなんのために生まれてきたのか」という疑問や人生の悩みに対しては、何の解決策も持たず、ただ葬式があればお経を上げ引導を渡しているようなそぶりだけして(実は全然死者に引導など渡していないのですが)布施をもらっているのです。

よく考えてみれば、こんなカッコだけ(お経を上げたり、引導を渡すようなそぶりだけしている)なら、誰でもやれます。(それにたいしたこといってるわけではないし)これでは詐欺に遭っているようなものではないでしょうか。

私がこれだけボロカス書くのは、このような坊さんたちが無能になってしまったため(宗教的に無能ですよね、もう宗教的な意義などまるで分からないのですから。ただ昔からそうしているからそうしている、と何一つ疑問を持たず同じことを繰り返しているに過ぎないのですから)多くの危険が巷に溢れていても、それに気づかず危険なことをし続けている人が増えたからです。

私のことでもそうでしょう。私の周りでどれだけ恐ろしいことが起きていても、坊さんなどの他の宗教家はそれに対し、何の解決策も持たないのです。他の人と同じように傍観しているか、同じように私に嫌がらせすることしかできないのです。(これでは普通の人と変わりません)多くの人に何かアドバイスをするわけでもなければ、祈るわけでもないのです。(祈った人もいるかもしれませんが、私には何の効き目もないようです)

それに今年のような雨不足で、空梅雨でも他の人と同じように「なかなか雨が降りませんな」といってるだけ。この前の集団パニックがあった学校でも、それでお祓いにいくとかしようともせず、これも傍観しているだけ話になりませんね。

その集団パニックの話ですが、その場にいて被害に遭った生徒たちが口々に「霊を見た」とか「何かにとり憑かれた」と証言しているのです。そのような証言をまるで無視していてよいのでしょうか?(このような証言は私が前に書いたこと〔霊の憑依〕を裏づけています)現在はまだ霊の存在が認められていませんので、霊を認めようがないのでしょうが、精神科医など、その霊を無視して治療しようとしています。これは危険極まりないことで、だから精神科医に同じような病気になる人が多いのです。心の世界をまったく無視して、そのような憑依された人にかかわるからです。(自分も同じようにおかしな霊に憑依されるということです。どのような心ならおかしな霊に憑かれないのか、その心のあり方が分からないのです)

それもこれも、坊さん始め現在いる宗教家がだらしがないからです。そういう人たちがしっかり法を説いているのであれば、このような状況にはなっていないのです。(現在起きているおかしな現象すべて、法を知っているのであれば解決できるということです)

異常気象が繰り返し起きているのであれば、皆さん心を変えましょうと、正しい心のあり方を説き、そうして祈ってそのようなおかしな天気を変え、人が悩んでいるのであれば、その解決方法を教え、おかしくなっている人がいれば、霊の存在を教えてその霊の作用を教え、どうすればそのような霊に憑かれなくなるのか、その心のあり方を教え、そうして死ぬ間際の人がいれば、死は怖くはないのである、と死後の世界を教え死ぬ間際にその人がしなければいけないことを教え(自分の一生を振り返っての反省)死後の世界(あの世、実在界)に導く(引導を渡す)これが真の宗教家のすることであり、釈尊、キリスト他、これまでの預言者といわれる人たちが皆してきたことなのです。

そのようなことを、現在ある坊さん始め宗教家といわれる人たちは、何もやっていないのです。そのような人たちが、布施をもらっているということであれば、それはもう詐欺といわれても仕方がないのではないでしょうか。(何も宗教家としての使命を果たしていないからです。布施をもらう資格などないのではないでしょうか)

現在の混迷は、宗教家が果たさなければいけない自分の使命を、何も果たしていない結果であるのです。

このようなことを考えるのであれば、そのような結果を果たしているのは(祈って次々に奇跡が起き、現在の宗教の間違いを教え、人の正しい心のあり方を説く)私だけではないかと思われます。

信仰とは、お経を上げたり、仏像に祈ったりすることではありません。神の心を知り、それを実践することなのです。(お経を上げたり祈っているだけでは自分の心は変わらないからです。自分の心を広く大きくしようと思えば、そのような実践をしないと変わらないのです。このようにしなければいけない、このようなところは直さなければいけない、それを繰り返し思い実践するしかないのです。そのようなことをなぜしなければいけないか、それも法〔神の心〕を知らないと分からないのです)

そのことを知っているのは私だけです。だから私に協力しないといけないのです。(それこそが本当の信仰だからです)

本当の教えを説いているのは誰で、本当の信仰とは何か、今の日本の現状を見れば、一刻も早く、それに気づかなければいけないのではないでしょうか。(そうしないと天気もそうですし、例えば精神科の病院など危なくて仕方ありませんよ。霊の存在を認めないのですから)

追伸…今日は高橋先生が昇天された日です。このような日に、心を変えられ本当の信仰を始められてはいかがでしょうか?それこそ法の縁がより深まるのではないでしょうか。

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6月 24 2013

お経の意味

お経を見ますと、ずいぶん難しい漢字が並んでいて難解そうに思えますが、あのお経の意味を知っている人は、一体どれくらいいるのでしょうか?

一生懸命お経を上げる方はたくさんいますが、お経の意味を解説される方はあまりいません。ということは、お経の意味を知っている人も、あまりいないのではないかと思われます。

お経の意味を知っている人はいないでしょうね。もし、お経の意味を知っている人がたくさんいるようなら、ただ単にお経を上げるだけということはしないからです。お経を上げても何の意味もないことを知っているからです。(お経を上げても意味がない…またまた衝撃の事実です)

だって、お経は釈尊の説法が書かれてあるのです。上げても意味がないのではないでしょうか。(それも古代インド語でです)

例えば「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えている人がよくいますが、あれなど「ナーモ・アーミ・ダボー」という古代インド語であり、それを直訳すれば、神仏に帰依する、帰命する、という意味になり「南無阿弥陀仏」と唱えている人は、ただ「仏様の教えに帰依します」「仏様の教えに帰依します」と唱えているだけなのです。

そんな「仏様の教えに帰依します」といっているだけで、その人が救われると思いますか?救われるわけありません。本当に救われたいのなら、その仏様の教えをよく知り、その教えを実践しないと救われないのです。

ですから私は、お経など上げても意味がないといっているのです。(申し訳ありません、次々に現在の常識を覆す発言ばかりして、しかし、これが事実です)

このお経の釈尊の教えとは、釈尊在世当時のインドで、当時としては子供でも分かるような、普通の分かりやすい話し言葉で「正しい心のあり方」「正しい心の持ち方と行い」が説かれているのです。(なぜ、そんな分かりやすい話し方を釈尊がされたのかといえば、その当時の釈尊の教えを聞いた人は、一部の特権階級を除いた多くの人たちが、文字も読めない無学文盲な人たちだったからです。当時のインドはそのようであったのです)せっかく、そんな宝玉のような言葉がお経の中には書かれてあるのに、その意味を知ろうとせず、ただ上げるだけなど愚の骨頂ではないでしょうか。(二千五百年前のインドの日常語を、二千~千五百年前の中国の日常語で書かれたものが現在のお経です)

最初に仏教が日本に入ってきた時は、お経はただ上げるだけのものではありませんでした。

中国語のお経を日本語に分かりやすく書く訳経僧、中国語のお経をそのまま書き写す書写僧がいて、そのほかに説教僧という僧がいて、お経の意味を多くの人に伝えました。

その説教僧が、お経の意味を大衆に面白く聞かせるために、お経に書いていない話などもつけ加えます。やがて説教僧たちは自分の語り言葉に節をつけ、調子をつけて話すようになり、それが説教節となります。この説教節が始まりとなって、浪花節、浄瑠璃、講談、謡曲、小唄、民謡など生まれます。

人々の心を捉えて歌う流行歌も原点を探れば、説教節からきているのです。

このように、昔から多くの人々を楽しませてきたこれらのものも、元はといえば釈尊の教えを分かりやすく、世の人々に聞かせるためのものであったのです。

しかし現在は、お経に書かれてある有難い教えを、ただ上げるだけでその意味を知ろうとしていません。それではまったく意味がないのです。

何度もいいますが、昔の僧がしていたことに戻さないと、多くの人は救われることはありません。それが本当の信仰であったからです。

私がやっている“神の運動”とはまさにそれなのです。

追伸…昨日のニュースで、この前の女子高校生の集団パニックのことをやっていましたが、その女子高生たちの証言はよかったですね。(私がいったことを裏付けていました)そのことは明日書くことにします。

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6月 23 2013

檀家制度の悪弊②

日本に仏教が伝来したのは、千五百年ほど前の飛鳥時代のことですが、檀家制度が始まる前の坊さんたちは、この仏教を説いて布施してもらいそれで生計を立てていました。

しかし檀家制度が始まったものですから、そんな苦労をしなくても布施が入ってきます。寺の経営が安定してくると、寺は完全に(お経を上げるだけの)葬式寺となり、以前のように現世の悩みをどう解決するか、人はどう生きなければいけないかという、身近な民衆に対する教化の情熱も薄れ、僧たちはそのような解決策も持たなくなっていったのです。

幕府が貨幣をつくり商業が興ってくると、僧でありながら金貸しをする者、自分の妻以外に二号、三号をおいて貸家の支配をさせる者、仏法を説くことよりも寺院の経営に重きを置き、農民から収穫する者、寺を博打の場とし場所代を稼ぐ者(博打の場所代を寺銭といいますが、その語源はここからきています)など僧たちの堕落はとどまるところをしりませんでした。(何か現代の坊さんも、かわらないようなことしている人もいますが、このような行いは僧としては完全に堕落しているのです)

あまりに被害が大きくなりすぎたため、徳川幕府と各大名は寺社奉行、監理官を置いて寺領を没収します。

すると収入が減った僧たちは、今度は弁財天、毘沙門天、吉祥天、子安観音、地蔵菩薩、鬼子母神、不動明王などなど、いろいろな像を建立してお賽銭を集める。そしてご開帳をやって縁日を開いたり、祈祷寺では星祭りや占い、祈祷までして減った収入を増やすため人を集めました。

この江戸中期から仏教の退廃期となります。この頃からの宗教家の退廃は、猥雑と浪費と迷信俗信を生み出します。

この風潮は現在に至るも続いています。これほど医学が発達した現在においても、信仰においては病気治しなどが主流で(どこどこのお寺にお参りすれば、体のここがよくなるとかのです)信仰といえば、何のお陰があるのか、という現世利益が当たり前のように多くの人が思っています。

しかし、本当の信仰とはそんなものではありませんでした。檀家制度以前の僧たちがやっていたように、法(それはすなわち現在の人々の悩みを解決したり、人としての正しいあり方)を説いて、そうしてそれを聞いている民衆がそれを実践する、それが本当の信仰であったのです。(つまり、私が今やっていることです。昔の僧たちが普通にやっていたことを、現在の私がやっているに過ぎません。ですから私の話を聞いて実践することが本当の信仰であるのです)

またまた、衝撃の事実がお分かりいただけたと思いますが、現在のお寺や神社などでやっている縁日だの祈祷などというものは、僧たちが金集めのために始めたことであり、したがって当然迷信であるということです。(そんな理由で始めたものが、宗教的意義があるわけありませんから)

そんなところにいってご開帳やら祈祷やらしてもらっても、何の効き目もないということです。だから、そんなことしてもらっても何も変わらないのです。

誰か祈祷などしてもらったら、一変に自分の人生が変わったという人がいますか?もし、そんな人がいたとしたら、それはそのようなことをきっかけとして、自分自身の心を変えたから、そのような人生がついてきたのであり、自分で心を変えなかったらそんな人生もなかったのです。すべてにおいて自分の心に原因があるのです。だから私は心を変えないといけないといっているのです。(次々に驚くべき事実が発覚しているのですが、こればかりは事実だからしょうがありません。こういうことを書けば、混乱するのは分かっていますが、どこかで、このような迷信俗信を正さなければいけないのです。それにこのような正法の時代となり、間違った考えでいる人が多ければ、天が次々に気づきの現象を現しています。今それをやらなければ、日本の未来はないのです。ですから事実は事実としてここに書いておきます)

このような風潮を改めるため、明治維新の時に一度この檀家制度は廃止されます。

しかし、それを仏教復興運動の名の下に僧たちが、明治政府に圧力をかけて復活させたものが、今日ある檀家制度です。

ですが、檀家制度や現在やっている、先祖供養やお寺参りや葬式など元々は宗教に関係がない人たちが(あるいは金儲けのためだけに)強制的に始めたものであり、宗教的意義から始めたものではなかったのです。

江戸時代の檀家制度の社会的意義は確かにあったのでしょうが、それを現在まで引きずる必要はないし、檀家制度による多くの弊害も出てきています。(はっきりいえば、こんな制度何の宗教的意味あいがないのですから、詐欺以外の何ものでもありません)

このような意味のない制度は廃止すべきであるし、もう本当の信仰に多くの人が目覚めなければいけないのです。

そうしなければ本当の救いはいつまでたってもこないのです。

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6月 22 2013

檀家制度の悪弊①

台風は九州に上陸する前に勢力を弱め、温帯低気圧に変わったのはよかったんですが、それでも各地、大雨被害や土砂崩れの被害など起きているようです。

皆さん方が、何が起きても自分は関係ない、どんな天罰も持さずと頑張っていられるなら、それも仕方ないでしょう。気が変わるのを待つしかありません。早く気が変わられることを祈っています。(それが心の成長ということになるのですから)

では、檀家制度のことを書きましょう。

園頭先生のご著書「正法と現代宗教」から抜粋します。

<檀家制度と先祖供養-仏壇・墓

かくしてその翌年さらにキリスト教厳禁の令を出し、さらにまた、その翌年1639年、ポルトガル船の来航を厳禁して、徳川幕府は完全な鎖国政策をとることになった。

1640年に来航したポルトガル船は焼却し、宗門改めを制定、寺請、宗旨人別帳を作成させることになり、1642年にはキリシタン大名を追放した。宗門改めによる寺請制度が檀家制度である。

宗門改めによって、日本人は必ずどこかの寺の門徒にならざるを得なくなった。キリシタン摘発のために踏み絵を強行した。踏み絵に応じない者は殺された。

それまで本山と末寺の関係は明らかでなく、地方の寺は僧個人の伝道によって造られたものが多かったが、新制度により、地方の寺は必ずどこかの本山の末寺になることが義務づけられた。檀徒数の多少によって寺格が決められ、それによって僧の袈裟の色も決められた。

宗旨(門)人別帳の記載形式が全国的に統一されるのは1671年(寛文十一年)であるが「宗門改之儀に付御代官公達」という法令が出された。家の中の一人一人について、宗派、生国、年齢、名前、続柄、檀那時名を書きあげ、家ごとにまとめたものを集め、代官は巻末に寺名と一村毎の総人数と男女数の内訳を出し、寺ではこれだけの者を引き受けましたという寺請証文を出した。そしてそれらは全部本山に集められた。

つまり寺が戸籍係をすることになったわけである。すなわち檀家制度とは、信仰によって作られたものではなく、幕府の政策と寺の権力によって作りあげられたものである。このことには特に注目しなければならない。>

園頭先生の「正法と現代宗教」に書かれてあるとおり、檀家制度とは、宗教的発想から起こされたものではなく、なんと幕府の政策と寺の権力から起こされたものであったのです。

驚きの事実ではありませんか?檀家制度に何の宗教的意義もないのです。それを多くの日本人は、宗教的に意義があるかのように勘違いして、何も宗教的に意味もないことを毎日のように行っているのです。(仏壇にお経を上げたり、花やローソクを上げるなどのことです。このようにしていることが信仰であるかのように、現在の多くの日本の人々は思っていますが、実は全然信仰になっていなかったのです。衝撃の事実ですがお年寄りの方々、落胆のあまり寿命を縮めないでください、まだ救われる道はあります)

幕府は寺に、いわゆる戸籍係と門徒を統制させる代償として寺領を与え、寺の経営は檀徒が協力して支持することを命令します。

先祖を大事にするという、儒教による倫理道徳観念が定着するのもこの頃からです。(つまり、それ以前は現在のように、先祖を神様のように思い祈るということはされていなかったのです。これまた衝撃の事実です)

このようにして、信仰の有無にかかわらず、強制的に寺と檀家の関係が決められ、寺の維持は寺領より獲れる米と檀家の負担によってされるのです。こうなると僧たちは、苦労して法を説いて人々を教化しなくても、ただ座ってさえいれば檀家が葬式を頼みに来て、布施をもらってそれでやっていけるのですから、それ以前、あるいは鎌倉期の僧たちにみられるような、求法、弘法の情熱もなくなり、堕落した無気力な僧が出てくるのもまたやむを得ませんでした。

実際に、この檀家制度がつくられた後の僧たちの腐敗はひどかったのです。

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